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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

違法改造。

2011年03月28日 09時44分01秒 | 意識論関連
 違法に改造した車両などを乗り回し、近隣住民に迷惑をかける者というのが時折いる。

 他人に迷惑をかけることによって、「自分の方が、自由だ。」と思い込みたいがゆえの行動であるため。非常にひつこい。

 こうした行動というのは、根本的に自発性によるものではなく。単に他人との比較によって「自分の方が。」優位に立ったような錯覚に陥りたいから行っているので。全く建設性が存在せず、結局当人の脳は満たされないため。エスカレートすることはあっても、自制することは全くない。

 本当は、それをやりたいのではなく。それをやることによって、他人からの見た目上、すなはち一般論としての「自意識。」を満たすための行動であるため。本質的には自発性が伴わず、全く当人の脳は満足できないのである。

 他人からの見た目に執着するというのは、要するに強迫観念的に行われているだけなので。端的に言って、脳がバカになっているだけなのである。

 何せ、無意識的な強迫観念に従って行動しているだけなので。本質的自発性も、それに伴う自律判断も養われることはない。

 「自己中心的な者に、自己はない。」という言葉があるが。これは「自己。」という概念において、本質的な自己と既に存在しているだけの自己との区別がされていないために、一見すると自己矛盾風味に見えるだけである。

 「自己中心的な。」自己とは、既に存在している無意識習性行動としての自己のことであり。その後に続く「自己はない。」における「自己。」とは、自律的に自己を抑制できるだけの本質的自己、本質的意識行動選択のことである。


 年功序列体質というものは、それを構成している個人が体制に対して従順なばかりで、全く無批判に服従する無責任性によって作り出されるものである。

 こうした年功序列体質から作り出される組織とは、基本的に封建的で、「閉じた。」組織である。

 科学などの分野というのは、本来権威性に依らず、常に自由で、社会に「開かれて。」いなければならない。科学というのは、より多くの人達による、検証に曝されなければならないものであり。検証における基準というのは多数決によるものではなく、あくまで論理的検証に基づくものでなければならない。在野か、或は一流大学に所属しているか、といった、権威性に依らず。常に理論的な検証に基づかなければならないのである。

 暴力団とか暴走族が「閉じて。」いるのは、むしろ必然というものであるが。東京大学だとか、マスコミが「閉じて。」いるというのは、責任放棄の怠慢に他ならない。






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