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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

簡単。

2013年09月28日 15時07分25秒 | 意識論関連
○簡単であるということ。

 「組織に対する忠誠忠実性こそが人間性である。」という文科系大衆観念が日本人の文化として根強く、こうした固定観念を利用する形でブラック企業は社員を拘束する。

 安倍首相の言う「規範意識」のような、無意識的行動バイアスこそが人間性を構築するものであるという観念が日本人の文化にはあって、そこには自律的判断というものは「あってはならない。」ことになってしまっている。

 ブラック企業にせよ、押し売り詐欺の類にせよ。個人の主体的判断よりも、組織の利益を優先させることこそが社会に対する貢献であるかの如く言い張ることによって、個人の思考判断能力を阻害させるのである。

 こうした意識撹乱こそが「洗脳」であり、これによって個人の主体的思考を停止させる手口というのは、東電原発の危険性を放置させたのと同じ構造である。



 ヒステリックに何かを主張されると、あたかも論理的根拠を持った正しい主張であるかのように、ヒトの多くは錯覚する傾向習性がある。

 企業などの組織が腐敗する構造において、中間管理職が組織に対する忠誠忠実さだけを発揮してしまうことによって、あたかも組織の利益こそが社会貢献であるかのような錯覚を促す主張がまかり通ってしまうことに陥る。

 戦時中の日本軍が、特攻などという異常な観念を強要したのも。「お国の為。」という大義名分を掲げ、あたかも特攻こそが国を救う行動であるかの如く錯覚を促した。

 組織に対する忠誠忠実性を優先させ、特攻精神的に組織に服従迎合させることによって。個人から主体的判断能力を剥奪することは意外と簡単なことである。

 「存外、ヒトとは簡単なもの。」なのである。

 「簡単である。」ということは、すなはち「バカだ。」と言うことでもある。

 それなら「バカではない。」状態とは、一体どのようなものであるかと言えば。簡単で短絡的ではない状態を指すのである。

 原発事故が発生する前に、原発の危険性を主張していれば、東電的には「面倒臭い奴。」であろう。

 スペースシャトルチャレンジャー号の技術者が、気温低下による危険性を主張したことはNASAの幹部達にとっては「面倒臭い奴。」であったのと同じである。

 イジメを止めようとする生徒がいれば、イジメを行っている者達からすれば「面倒臭い奴。」であることは確かである。

 大衆観念的には、こういった面倒臭いことをする奴を「バカだ。」と形容したがるが。これは自分達の無為無策性を事後正当化するための言い逃れに過ぎない。

 バカの集団にとっては、バカではない者を「バカだ。」ということにしておかないと、自分達の頭の悪さを認識することになるため、異常なまでに自分達の頭の悪さを意識から外そうとするのである。

 「イジメられる方にも原因がある。」などという主張もまた、こうしたはぐらかしの手口に他ならない。

 言っている本人には、はぐらかしている意識はないかも知れない。単にその場限りに自分の気分が悪くならないために反射的に言い逃れをしているだけなのかも知れないが、こうした無意識性こそがヒトの頭の悪さの根源なのである。

 無意識な者というのは、反射的に言い逃れや取り繕いだけは異常なまでにたくさん陳列することが出来る。その場限りの反射的言い逃れや取り繕いだけで脳が占領されており、自己論理検証性というのは全く働かないのである。

 これこそが典型的な「バカの状態。」である。


 例えば、「痴漢をされる方にも原因がある。」などと称して、ミニスカートや薄着こそが痴漢の根本原因であるかのような主張が正当化されるであろうか。

 こんな主張は加害者の論理であって、極めて身勝手な主張であることは疑う余地はない。

 「イジメられる方にも原因がある。」などという主張は、加害者や傍観者の身勝手な言い逃れに過ぎない。

 「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、そう思い込んでいるためだけに、自分の頭の悪さを意識から外すための反射的な言い逃れや取り繕いに邁進するのは、実は非常に簡単なことである。

 その場しのぎの言い逃れや取り繕いばかりを陳列することというのは、認知症の初期症状に他ならない。無意識条件反射的な言い逃れや取り繕いを、どんなに高速に大量に陳列出来ても、それこそがバカになる最短の近道なのである。

 認知症患者というのは、認知症状を自覚認識させると気分的に落ち込んで、余計認知症状が酷くなるという。

 脳というのは一度バカのスパイラルに陥ると、坂を転げ落ちるようにバカになって行くものなのである。ヒトの大脳辺縁系というのは、先天的にバカにならないようには出来ておらず、むしろバカを促進するようにしか出来ていない。

 バカでいることは生存に適している。

 シエラレオネでは、凶暴なゲリラでいた方が死なずに済んだし。ナチス政権下のドイツでは、ユダヤ人絶滅計画に加担していた方が生存に適した。

 ドストエフスキーがソヴィエト政府に迎合したことも、「生きるため。」であり。所詮は「悩ましい。」芸術作品に過ぎず、何ら哲学としての論理的分析がなされている訳ではない。

 ヒトの多くは、大衆観念的に「悩む。」ことを論理検証的な「考え。」だと錯覚する習性がある。これが現在の哲学界における思考停止という怠慢を促す最大の原因である。

 哲学者の多くは悩ましい問題に気分的に苦悩して、これを「考え。」だと錯覚することで、さも頭を使ったような勘違いをして満足するのである。

 だから現在の哲学者達は無能なのである。



 どんなに気分的に苦悩しようとも、どんなに感動しようとも、それは大脳辺縁系の反射による先天的情動の強度程度問題に過ぎず。具体性を持った論理的「考え」にはならない。

 それは芸術としての「文学」であはっても、「哲学」にはならない。

 哲学というのは、本来科学的探求に供するものであって。芸術気晴らしによる安心満足を得るための大衆迎合ではない。

 ところが、大衆の多くは哲学を気分的安心満足を得るためのものだと勘違いしており。また、哲学者の多くも大衆マスコミに迎合して「多くの人に読み続けられている。」という多数決によってのみ価値基準と見なしている。

 ドストエフスキーは具体的に何も予言などしていないし、プラトンにもニーチェにも具体性のある論理的根拠などない。にも関わらず、論理的根拠を持った考えではないということには哲学者の誰も言及しておらず、大衆的な多数人気を根拠に哲学として見なしているのである。

 これは本来科学としては犯罪とも言える怠慢である。

 大衆に迎合して「ドストエフスキーは素晴らしい。」とでも言っておけば、バカな大衆は「何だかわからんが、凄いな。」的に哲学だと「納得」勘違いさせることは簡単である。

 実際には「難しい。」のではなく、単に具体性のある論理的分析が全くないから「論理的に理解出来ない。」ことを、あたかも論理的に難解であるかのように錯覚しているに過ぎない。

 気分が行動に直結していれば、気分を促す時代だの社会にこそ原因があると錯覚することは簡単である。それはいわば、「通り魔の気分に同調している。」に過ぎない。

 「自分が悪いことを為すのは、社会や時代が悪いからだ。」などというのは、典型的なポンコツチンピラの主張に過ぎない。

 社会や時代を作るのは、自分を含めた個人であり。多数派であれば自律判断責任が人数分だけ薄まると勘違いするのは大衆的観念に他ならない。

 人口の多い現代社会や大規模組織において、個人の自律判断というものが微力であることは確かであるが。微力であることを根拠に自律判断を放棄して良い理由には全くならない。



 世間的な成功や特定能力の高さばかりを取り上げ「才能」だと言い張るのは大衆迎合に過ぎない。世間的な成功が才能であるならば、振り込め詐欺師も天才ということになる。

 そんな不毛な大衆観念には何の社会的価値も存在しないことを、ヒトの多くは認識していないのである。

 その場限りに金儲けや大衆人気取りが出来ても、そんなものが社会安全性や持続可能性に寄与しないことには、大衆の多くは意識が働かない。

 金儲けや人気取りにならないことは、大衆の脳にとっては存在しないのと同じだからである。

 大衆の脳にとっては、自律的に社会的責任判断を行うことの重要性など、目先の金儲けや人気取りに比べて快楽満足を提供しない「面倒臭いこと。」に過ぎないからだ。




Ende;

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