○ソマティックマーカー仮説。
行動学習的に無意識な抑圧で行動が決定していれば、例えば権威に服従しないと嫌な思いをするよう学習してしまうと、自律的には社会的責任判断よりも権威に服従するようにしかならなくなる。
無意識な行動抑圧だけで人格を論ずるというのは、意識的な個人の論理検証性を無視したあやふやな話であり。もはや認知科学として全く機能していない。
反射的無意識に多数派や権威に迎合していれば、大抵の場面においては問題なく社会生活を送れるであろうが。現状の社会そのものへの論理検証や、それに伴う批判精神も持たなければ、自律した一人の個人としての価値を持たない。
自律した一人の個人としての価値がないということこそが、本当の意味における「人格」の欠落であって、単に外見上「怒りっぽい。」だとか「神経質」といった性格のことを、短絡的に「人格」だと規定している時点で認知科学者として厳密さに欠け、無能である。
ヘラヘラ笑って多数派に迎合し、反射的に権威に服従していれば、外見上は「善人」であろう。だが、こうした文科系大衆観念に基づいた「善人」観というものは、本質的な人間性を証明するものではない。
ソマティックマーカー仮説などという無意識な行動学習による行動抑圧を、短絡的に「人格」として扱うのは、個人の意識的論理検証性の存在を無視した非科学的屁理屈に過ぎない。
外見上善人風味を装い、何ら論理検証も行わず、その結果批判精神もなければ何にも怒りを持たずに済むであろう。こうした表面的な善人風味、冷静そうな風味を短絡的に「人格」だと鵜呑みにしているのは、現在の認知科学者達は誰一人として科学的論理検証性を持たないポンコツの集まりに過ぎないことの証明である。
人格というのは性格と同義ではない。
外見上の性格が、感情的でなく、温和で誰とでも話を丸めて多数から好かれるからといって。これが短絡的に多数や権威に迎合せずに自律的に社会的責任判断を下すという人格性の論証には全くならない。
逆に言えば、短絡的に多数派や、多数によって認証された権威の命令に服従迎合せずに、自律的に社会的責任判断を行う者であれば。必ずしも「誰とでも話を丸めて、多数から好かれる。」わけではない。
多数派のご機嫌取りが出来ることを、文科系大衆観念的には「性格が良い。」と規定するのであろうが。こうした外見上の「性格」というものが、短絡的に自律的な社会的責任判断が下せる本質的な「人格」の論証には全くならない。
こんなことは「科学者」であれば本来わざわざ明記しなくても、自律的に検証理解し、何が本質的な「人格」であるのかに基づいた論証をしていなくてはならない。
つまり、現在の認知科学者や脳神経生理学者達というのは、こうした極めて基本的な論理検証すら出来ず。漫然と大衆観念を鵜呑みにしており、科学者としての基本的素養が全くそなわっていないのである。
大衆観念に基づいた論証をしておけば、大衆人気取りをするのは簡単であろう。「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的なペテンで人気取りに邁進し、外見上善人風味を装っておけば、大衆観念的には「善人」なのであろう。それが結果的に振り込め詐欺被害の放置や促進になっていようとも、大衆観念的には「善人」なのであろう。
こうした無責任な大衆観念を、「多数派である。」というだけで「正常」と見なすことも、人間としては異常なのである。
Ende;
行動学習的に無意識な抑圧で行動が決定していれば、例えば権威に服従しないと嫌な思いをするよう学習してしまうと、自律的には社会的責任判断よりも権威に服従するようにしかならなくなる。
無意識な行動抑圧だけで人格を論ずるというのは、意識的な個人の論理検証性を無視したあやふやな話であり。もはや認知科学として全く機能していない。
反射的無意識に多数派や権威に迎合していれば、大抵の場面においては問題なく社会生活を送れるであろうが。現状の社会そのものへの論理検証や、それに伴う批判精神も持たなければ、自律した一人の個人としての価値を持たない。
自律した一人の個人としての価値がないということこそが、本当の意味における「人格」の欠落であって、単に外見上「怒りっぽい。」だとか「神経質」といった性格のことを、短絡的に「人格」だと規定している時点で認知科学者として厳密さに欠け、無能である。
ヘラヘラ笑って多数派に迎合し、反射的に権威に服従していれば、外見上は「善人」であろう。だが、こうした文科系大衆観念に基づいた「善人」観というものは、本質的な人間性を証明するものではない。
ソマティックマーカー仮説などという無意識な行動学習による行動抑圧を、短絡的に「人格」として扱うのは、個人の意識的論理検証性の存在を無視した非科学的屁理屈に過ぎない。
外見上善人風味を装い、何ら論理検証も行わず、その結果批判精神もなければ何にも怒りを持たずに済むであろう。こうした表面的な善人風味、冷静そうな風味を短絡的に「人格」だと鵜呑みにしているのは、現在の認知科学者達は誰一人として科学的論理検証性を持たないポンコツの集まりに過ぎないことの証明である。
人格というのは性格と同義ではない。
外見上の性格が、感情的でなく、温和で誰とでも話を丸めて多数から好かれるからといって。これが短絡的に多数や権威に迎合せずに自律的に社会的責任判断を下すという人格性の論証には全くならない。
逆に言えば、短絡的に多数派や、多数によって認証された権威の命令に服従迎合せずに、自律的に社会的責任判断を行う者であれば。必ずしも「誰とでも話を丸めて、多数から好かれる。」わけではない。
多数派のご機嫌取りが出来ることを、文科系大衆観念的には「性格が良い。」と規定するのであろうが。こうした外見上の「性格」というものが、短絡的に自律的な社会的責任判断が下せる本質的な「人格」の論証には全くならない。
こんなことは「科学者」であれば本来わざわざ明記しなくても、自律的に検証理解し、何が本質的な「人格」であるのかに基づいた論証をしていなくてはならない。
つまり、現在の認知科学者や脳神経生理学者達というのは、こうした極めて基本的な論理検証すら出来ず。漫然と大衆観念を鵜呑みにしており、科学者としての基本的素養が全くそなわっていないのである。
大衆観念に基づいた論証をしておけば、大衆人気取りをするのは簡単であろう。「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」的なペテンで人気取りに邁進し、外見上善人風味を装っておけば、大衆観念的には「善人」なのであろう。それが結果的に振り込め詐欺被害の放置や促進になっていようとも、大衆観念的には「善人」なのであろう。
こうした無責任な大衆観念を、「多数派である。」というだけで「正常」と見なすことも、人間としては異常なのである。
Ende;