○集団生活。
「集団生活を学ぶ。」などと称して、実際には学校での集団生活ではイジメを傍観したり共謀することを行動「学習」しているのが実態である。
権威や目先の多数派に迎合服従することこそが、個人から自律的な社会的責任判断能力を喪失させるのであり、現在の教育制度下における集団生活には何の価値もない。
個人が自律的に社会的責任判断をしないからこそ、原発は暴走したのである。これは原発に限らず、あらゆる「人災」の根源である。
気分的に「恐い。」相手に対して服従する多数派に迎合し、ならぬことをならぬと言わぬデクノボウの集団生活こそが、社会を崩壊へと導く最も最短の道である。
イジメというものは、イジメを行っている者の凶暴異常性を無視し。「イジメられている方にも原因がある。」などと称してイジメを止めようとしなかった自分の行動を事後正当化する言い逃れを陳列することばかりに意識を奪われているからこそなくならないのである。
「自分だけは絶対に大丈夫。」的な観念というのは、振り込め詐欺師に引っ掛かるカモ特有の根拠なき自己満足に他ならない。
自分が完全無欠な神か何かだと勘違いしておけば、自分の頭の悪さを認識せずにいられるので安心で満足であろうが。これはカルト宗教の教祖の心理と構造的には全くおなじ「実証不能の観念。」に過ぎない。
自分が絶対完全無欠な天才だと勘違いしておけば、さぞかし安心で満足なのであろうが。ありていに言ってキチガイとしか形容出来ない。
バカというのは、その場限りに「自分は絶対的完全無欠な神のような間違いを冒さない天才である。」かのように他人を批判し、或は逆に「自分は天才ではないから社会全体の公益性には考慮が働かない。」などと、のらりくらりと言い逃れや取り繕いをするだけで、言っている内容に論理整合性というものが全くないからバカなのである。
その場限りに自分の気分が満足出来るような言い逃ればかりしていれば、論理的対策が全く立たずに社会全体から安全性が失われるのは必然的結果である。
ヒトの多くは、恐い相手や面倒臭い相手に逆らわず、話を丸めて多数派迎合することを「社会性」だと言い張るが。これはチンパンジーやゴリラの行動習性としての社会形成習性と同じ「ヒトの社会形成性」であって、多数他人に惑わされることなく自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性」とは全く別のものである。
イジメを放置傍観し、自律的には何も判断せずに「生きるためには。」などと称して無為無策性を事後正当化することばかりを取り繕っていれば、人間としての社会性としての「自律的な社会的責任判断」を放棄するようになるのは当たり前である。
漫然と多数派迎合するだけの「集団生活」をさせても、多数派に迎合し権威に逆らわなくなるバカを大量生産するだけに陥るのは必然的結果である。
「どんなに対策をしても、人災はなくならない。」などと称して、対策自体を放棄することを正当化可能であるかのように言い張るのは、もはやキチガイの論理であり。これに対して何の反論も疑問も批判も行わない多数の「傍観者」も同罪である。
「諦める。」ことは快楽である。
諦めることで、ヒトというのは思考を停止させ、何も対策を考えなくても安心満足することが出来るため。ヒトは簡単に諦め、バカになるのである。
虚無主義というのは、実際にはNihilisticでも何でもなく、むしろ論理的思考を放棄するための言い逃れ取り繕いであり、自己の論理検証可能性を拒絶するための現実逃避に過ぎない。
無為にイジメを傍観放置し続けた既存の行動を事後正当化していれば、傍観放置に意味があることに出来ると多くのヒトは勘違い錯覚して満足であろう。その安心満足こそが脳内麻薬が作り出す幻覚なのである。
具体性を持った論理的対策意見がないのであれば、安易に「仕方ない。」的な決め付けをするべきではない。
バカが自分のバカさを事後正当化していれば、バカげた結論にしか帰結しないのは当たり前だからである。
Ende;
「集団生活を学ぶ。」などと称して、実際には学校での集団生活ではイジメを傍観したり共謀することを行動「学習」しているのが実態である。
権威や目先の多数派に迎合服従することこそが、個人から自律的な社会的責任判断能力を喪失させるのであり、現在の教育制度下における集団生活には何の価値もない。
個人が自律的に社会的責任判断をしないからこそ、原発は暴走したのである。これは原発に限らず、あらゆる「人災」の根源である。
気分的に「恐い。」相手に対して服従する多数派に迎合し、ならぬことをならぬと言わぬデクノボウの集団生活こそが、社会を崩壊へと導く最も最短の道である。
イジメというものは、イジメを行っている者の凶暴異常性を無視し。「イジメられている方にも原因がある。」などと称してイジメを止めようとしなかった自分の行動を事後正当化する言い逃れを陳列することばかりに意識を奪われているからこそなくならないのである。
「自分だけは絶対に大丈夫。」的な観念というのは、振り込め詐欺師に引っ掛かるカモ特有の根拠なき自己満足に他ならない。
自分が完全無欠な神か何かだと勘違いしておけば、自分の頭の悪さを認識せずにいられるので安心で満足であろうが。これはカルト宗教の教祖の心理と構造的には全くおなじ「実証不能の観念。」に過ぎない。
自分が絶対完全無欠な天才だと勘違いしておけば、さぞかし安心で満足なのであろうが。ありていに言ってキチガイとしか形容出来ない。
バカというのは、その場限りに「自分は絶対的完全無欠な神のような間違いを冒さない天才である。」かのように他人を批判し、或は逆に「自分は天才ではないから社会全体の公益性には考慮が働かない。」などと、のらりくらりと言い逃れや取り繕いをするだけで、言っている内容に論理整合性というものが全くないからバカなのである。
その場限りに自分の気分が満足出来るような言い逃ればかりしていれば、論理的対策が全く立たずに社会全体から安全性が失われるのは必然的結果である。
ヒトの多くは、恐い相手や面倒臭い相手に逆らわず、話を丸めて多数派迎合することを「社会性」だと言い張るが。これはチンパンジーやゴリラの行動習性としての社会形成習性と同じ「ヒトの社会形成性」であって、多数他人に惑わされることなく自律的に社会的責任判断を行う「人間としての社会性」とは全く別のものである。
イジメを放置傍観し、自律的には何も判断せずに「生きるためには。」などと称して無為無策性を事後正当化することばかりを取り繕っていれば、人間としての社会性としての「自律的な社会的責任判断」を放棄するようになるのは当たり前である。
漫然と多数派迎合するだけの「集団生活」をさせても、多数派に迎合し権威に逆らわなくなるバカを大量生産するだけに陥るのは必然的結果である。
「どんなに対策をしても、人災はなくならない。」などと称して、対策自体を放棄することを正当化可能であるかのように言い張るのは、もはやキチガイの論理であり。これに対して何の反論も疑問も批判も行わない多数の「傍観者」も同罪である。
「諦める。」ことは快楽である。
諦めることで、ヒトというのは思考を停止させ、何も対策を考えなくても安心満足することが出来るため。ヒトは簡単に諦め、バカになるのである。
虚無主義というのは、実際にはNihilisticでも何でもなく、むしろ論理的思考を放棄するための言い逃れ取り繕いであり、自己の論理検証可能性を拒絶するための現実逃避に過ぎない。
無為にイジメを傍観放置し続けた既存の行動を事後正当化していれば、傍観放置に意味があることに出来ると多くのヒトは勘違い錯覚して満足であろう。その安心満足こそが脳内麻薬が作り出す幻覚なのである。
具体性を持った論理的対策意見がないのであれば、安易に「仕方ない。」的な決め付けをするべきではない。
バカが自分のバカさを事後正当化していれば、バカげた結論にしか帰結しないのは当たり前だからである。
Ende;