○異常。
通り魔の行動に異常もすったくれもないでしょ。通り魔自体が異常なんだから。
「正常な通り魔。」って、どんなの?。NHKは一体何を基準に「通り魔が異常な行動をしていた。」って言っているんだろう。
そもそも通り魔の行動「動機」を聞いて何になるの?。むしろ動機が行動に直結するっていう、あらゆる意図的犯罪者に共通する原因を究明しないと、実効性のある再発防止にはならないです。
それについては司法は何にも関与する仕組みも手続きもないです。どんなに遺族が再発防止を司法システムに求めても無駄なんです。
脳科学者達も、犯罪や事故などの「人災」は大衆ウケが悪いので、一切興味を示さないです。
結局再発防止を求める遺族の願いは誰もマトモに聞いてはくれないんですよ。実際、犯罪被害者自体が社会全体からみれば少数派ですから、無視されることは簡単なことなのです。
大体このことに言及しているのはおいらくらいしかいませんし、多数派は自分達が「異常」だとは思っていないんでしょう。
マスコミは、被害者を憐れむような「演出」を用いて、その場限りに数字(視聴率)を稼ぐことだけが目的であって。被害者の一部が求める再発防止対策など、全く興味がなく。単なる大衆迎合的な垂れ流し報道をするだけであって、具体的に実効性のある再発防止対策には全く言及しないのである。
マスコミはこうした文科系大衆観念に基づいた報道しかしていないことを「異常」とは思っていないんだろう。
//------
後日グアムの通り魔が犯行動機として「大きなことをしてやりたかった。」などと述べていたそうですが、事象の「大きさ」だけを価値の全てであるかのような短絡的論理崩壊性こそが、文科系大衆観念に基づいたものであり。こうした短絡性自体は多数派である文科系大衆に共通した観念であるがゆえに、その短絡性を異常として扱わないのであろう。
多数派の異常性というのは、気分的に安心なので、これを異常だと認識出来ない錯覚を生じさせるのである。
「学力=知能」という評価基準や、「世間的成功=物質的豊かさ=人間の価値」とか「大きなことをして目立つこと=世間的評価。」という短絡的で無検証な「文科系大衆観念=多数派の思い込み。」に基づいた論理検証性(考え)の欠落こそが、本質的な意識の欠落の根源なのである。
論理性というものに対して、文科系大衆の多く、ヒトの多くは冷徹さを「感じ。」るのであろうが。こうした気分的「感じ」こそが感情気分に由来する忌避性によって、ヒトという種の生物の脳から論理検証性を奪い、バカの連鎖を繰り返させるのである。
「感じ。」というのは本質的意識ではなく、単なる大脳辺縁系による機械的条件反射に過ぎず。先天的に組み込まれたシーケンスに基づく無意識に過ぎない。
どんなに強く「感じ。」るとしても、むしろ強く「感じ。」るが故に論理検証性を忌避する原因となるのである。
これに現在の生物学的「説明」をこじつければ、先天的本能反射的無意識な「感覚。」に頼っていた方が、結果的に生存に適したという「結果」であると言うこと「も」可能であろう。多数派に迎合しておいた方が差別排除に遭わず、結果的に生存に適する可能性は高いからだ。しかし、こうした偶発的「結果」が常に生存に適していることの論理的証明も、また生物の「目的」であることの証明にもならないのである。たとえその場限りに個体の生存に適したとしても、その集積が社会安全性や持続可能性に確実につながることの論理的相関関係もない。
イジメなどの差別排除に加担したり迎合しておいた方が結果的に「生存」に適しているのであろうが、その「生存」がもたらす社会というのは差別排除の蔓延した社会にしか「暴走」することはない。差別排除を首謀的に行っている者に迎合しておけば、差別排除こそが正義となり、ナチスやポルポトのような虐殺政権を作り出すことの陥るのである。
ドイツ人やカンボジア人だけが特別に異常な民族であるわけではなく、南京や重慶における日本軍の野蛮行為も、広島長崎におけるアメリカ軍による原爆投下といった野蛮行為にも共通な、「ヒトという種に共通の異常暴力性。」であり、こうした異常性は民族国家に関わらず、ヒトという種全般に存在し得る性質習性なのである。
「本能や習性であるなら、仕方がない。」と、バカな生物学者は言うであろう。これこそが無意識性の事後正当化であり、本質的意識による論理検証的目的行動選択の欠落を招く文科系大衆観念の源なのである。
「既に起こったことの全てに意味がある。」という事後正当化の論理の方が、文科系大衆にはウケが良いのかも知れないが。だとすれば通り魔にもテロリズムにも「意味がある。」と言っているのと同じであり、具体性な再発防止などしなくても、全ては無為無策な「結果」だけを受け入れていれば良いという結論に陥るのである。
こうした無意識性こそが、ヒトという種の生物の集団に意識的「目的」のない暴走を醸成させるのである。
それを多数派が異常だと「思わ」なくても、論理検証的に「考え」れば異常であることに異論は何も出て来ないのである。
多数派が論理検証しなければ、多数派は自律的には「判断」を下すことはない。誰も自律的に「判断」せずに、ただ多数派に迎合して気分的安心満足ばかりを追求していれば、これは「烏合の衆。」或は「バカの集団。」に過ぎない。
バカの集団がバカげた異常行動を連鎖的に繰り返すのは必然的「結果」に過ぎず。そこに「目的」が存在しないのも必然なのである。
おいらが述べていることは論理的には極めて簡単な立証であって、何ら難解な方程式など用いてはいない。にも関わらず多くのヒトが理解「したがらない。」のは、それが気分的拒絶反応=本能的習性に由来する忌避に過ぎない。
論理的な展開をしているにも関わらず、「理解したいか、したくないか。」といった気分的判断バイアスを持ち込まれてしまえば、これは論理的結論に至らないのは当たり前である。正直読者の気分など、おいらの知ったことではない。金銭と引き換えに情報を提供しているわけでも、臨床的に「治療」しているわけでもない以上、読者の気分感情論はご自分で何とかして頂く以外にないからだ。
おいらはテレ東のオカルト番組のように、「信じるか、信じないかは、貴方次第。」な話をしているのではなく。あくまで論理的展開による証明をしているのであって、「論理的に理解するか、それとも気分的に信じたくないか。」の問題にすり替えられてしまえば、論理展開などクソの役にも立たなくなるのは必然的結果である。
観念と理論の「すり替え」をしているのはおいらではない。多数派である文科系大衆やマスコミである。その「すり替え」こそが精神の怠慢であるとは、多数のヒトは「思わない。」のであろう。
「思う」というのは、無意識な感情的思考バイアスであり。これこそが論理検証的思考(意識の本質)を不具にするのである。
「直感」というものも科学的検証において必要なものではあるが、これはあくまで日常的に論理検証している上において、短絡直結的に言語的説明が出来ないだけの「直感」でなければ意味がない。「何となくそんな気がする。」とか、「今まで誰もそんなことに言及していない。」といった、観念主体の「直感」には科学的価値は存在しないのである。
時間がかかっても、きちんと論理立てて説明出来ないことには、どんなに強く「思った」直感であっても科学的には全く意味がない。そんな当たり前なことが現在の生物学や哲学界では通用しないのである。
とあるバカ哲学者が述べていた、「自分の考えていることが自分にしかわからないことが不思議だ。」などという直感は、科学的に説明すれば「他人とは脳神経接続が存在しないからだ。」という極めて単純な結論で片付く観念であって。逆に言えば「なぜ、このバカ学者は自分の考えていることが他人にわからないことを不思議がるという観念を科学的疑問だと錯覚するのか。」の方が重要なのである。
こうした観念と理論の区別がつかないからこそ、通り魔とかテロとか原発の危険性放置といった不毛な「人災」が起こるのであって。論理検証出来ないという多数派の頭の悪さを自分自身で認識したがらないことこそが、人類からあらゆる「人災」への具体的対策を喪失させているのである。
Ende;
通り魔の行動に異常もすったくれもないでしょ。通り魔自体が異常なんだから。
「正常な通り魔。」って、どんなの?。NHKは一体何を基準に「通り魔が異常な行動をしていた。」って言っているんだろう。
そもそも通り魔の行動「動機」を聞いて何になるの?。むしろ動機が行動に直結するっていう、あらゆる意図的犯罪者に共通する原因を究明しないと、実効性のある再発防止にはならないです。
それについては司法は何にも関与する仕組みも手続きもないです。どんなに遺族が再発防止を司法システムに求めても無駄なんです。
脳科学者達も、犯罪や事故などの「人災」は大衆ウケが悪いので、一切興味を示さないです。
結局再発防止を求める遺族の願いは誰もマトモに聞いてはくれないんですよ。実際、犯罪被害者自体が社会全体からみれば少数派ですから、無視されることは簡単なことなのです。
大体このことに言及しているのはおいらくらいしかいませんし、多数派は自分達が「異常」だとは思っていないんでしょう。
マスコミは、被害者を憐れむような「演出」を用いて、その場限りに数字(視聴率)を稼ぐことだけが目的であって。被害者の一部が求める再発防止対策など、全く興味がなく。単なる大衆迎合的な垂れ流し報道をするだけであって、具体的に実効性のある再発防止対策には全く言及しないのである。
マスコミはこうした文科系大衆観念に基づいた報道しかしていないことを「異常」とは思っていないんだろう。
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後日グアムの通り魔が犯行動機として「大きなことをしてやりたかった。」などと述べていたそうですが、事象の「大きさ」だけを価値の全てであるかのような短絡的論理崩壊性こそが、文科系大衆観念に基づいたものであり。こうした短絡性自体は多数派である文科系大衆に共通した観念であるがゆえに、その短絡性を異常として扱わないのであろう。
多数派の異常性というのは、気分的に安心なので、これを異常だと認識出来ない錯覚を生じさせるのである。
「学力=知能」という評価基準や、「世間的成功=物質的豊かさ=人間の価値」とか「大きなことをして目立つこと=世間的評価。」という短絡的で無検証な「文科系大衆観念=多数派の思い込み。」に基づいた論理検証性(考え)の欠落こそが、本質的な意識の欠落の根源なのである。
論理性というものに対して、文科系大衆の多く、ヒトの多くは冷徹さを「感じ。」るのであろうが。こうした気分的「感じ」こそが感情気分に由来する忌避性によって、ヒトという種の生物の脳から論理検証性を奪い、バカの連鎖を繰り返させるのである。
「感じ。」というのは本質的意識ではなく、単なる大脳辺縁系による機械的条件反射に過ぎず。先天的に組み込まれたシーケンスに基づく無意識に過ぎない。
どんなに強く「感じ。」るとしても、むしろ強く「感じ。」るが故に論理検証性を忌避する原因となるのである。
これに現在の生物学的「説明」をこじつければ、先天的本能反射的無意識な「感覚。」に頼っていた方が、結果的に生存に適したという「結果」であると言うこと「も」可能であろう。多数派に迎合しておいた方が差別排除に遭わず、結果的に生存に適する可能性は高いからだ。しかし、こうした偶発的「結果」が常に生存に適していることの論理的証明も、また生物の「目的」であることの証明にもならないのである。たとえその場限りに個体の生存に適したとしても、その集積が社会安全性や持続可能性に確実につながることの論理的相関関係もない。
イジメなどの差別排除に加担したり迎合しておいた方が結果的に「生存」に適しているのであろうが、その「生存」がもたらす社会というのは差別排除の蔓延した社会にしか「暴走」することはない。差別排除を首謀的に行っている者に迎合しておけば、差別排除こそが正義となり、ナチスやポルポトのような虐殺政権を作り出すことの陥るのである。
ドイツ人やカンボジア人だけが特別に異常な民族であるわけではなく、南京や重慶における日本軍の野蛮行為も、広島長崎におけるアメリカ軍による原爆投下といった野蛮行為にも共通な、「ヒトという種に共通の異常暴力性。」であり、こうした異常性は民族国家に関わらず、ヒトという種全般に存在し得る性質習性なのである。
「本能や習性であるなら、仕方がない。」と、バカな生物学者は言うであろう。これこそが無意識性の事後正当化であり、本質的意識による論理検証的目的行動選択の欠落を招く文科系大衆観念の源なのである。
「既に起こったことの全てに意味がある。」という事後正当化の論理の方が、文科系大衆にはウケが良いのかも知れないが。だとすれば通り魔にもテロリズムにも「意味がある。」と言っているのと同じであり、具体性な再発防止などしなくても、全ては無為無策な「結果」だけを受け入れていれば良いという結論に陥るのである。
こうした無意識性こそが、ヒトという種の生物の集団に意識的「目的」のない暴走を醸成させるのである。
それを多数派が異常だと「思わ」なくても、論理検証的に「考え」れば異常であることに異論は何も出て来ないのである。
多数派が論理検証しなければ、多数派は自律的には「判断」を下すことはない。誰も自律的に「判断」せずに、ただ多数派に迎合して気分的安心満足ばかりを追求していれば、これは「烏合の衆。」或は「バカの集団。」に過ぎない。
バカの集団がバカげた異常行動を連鎖的に繰り返すのは必然的「結果」に過ぎず。そこに「目的」が存在しないのも必然なのである。
おいらが述べていることは論理的には極めて簡単な立証であって、何ら難解な方程式など用いてはいない。にも関わらず多くのヒトが理解「したがらない。」のは、それが気分的拒絶反応=本能的習性に由来する忌避に過ぎない。
論理的な展開をしているにも関わらず、「理解したいか、したくないか。」といった気分的判断バイアスを持ち込まれてしまえば、これは論理的結論に至らないのは当たり前である。正直読者の気分など、おいらの知ったことではない。金銭と引き換えに情報を提供しているわけでも、臨床的に「治療」しているわけでもない以上、読者の気分感情論はご自分で何とかして頂く以外にないからだ。
おいらはテレ東のオカルト番組のように、「信じるか、信じないかは、貴方次第。」な話をしているのではなく。あくまで論理的展開による証明をしているのであって、「論理的に理解するか、それとも気分的に信じたくないか。」の問題にすり替えられてしまえば、論理展開などクソの役にも立たなくなるのは必然的結果である。
観念と理論の「すり替え」をしているのはおいらではない。多数派である文科系大衆やマスコミである。その「すり替え」こそが精神の怠慢であるとは、多数のヒトは「思わない。」のであろう。
「思う」というのは、無意識な感情的思考バイアスであり。これこそが論理検証的思考(意識の本質)を不具にするのである。
「直感」というものも科学的検証において必要なものではあるが、これはあくまで日常的に論理検証している上において、短絡直結的に言語的説明が出来ないだけの「直感」でなければ意味がない。「何となくそんな気がする。」とか、「今まで誰もそんなことに言及していない。」といった、観念主体の「直感」には科学的価値は存在しないのである。
時間がかかっても、きちんと論理立てて説明出来ないことには、どんなに強く「思った」直感であっても科学的には全く意味がない。そんな当たり前なことが現在の生物学や哲学界では通用しないのである。
とあるバカ哲学者が述べていた、「自分の考えていることが自分にしかわからないことが不思議だ。」などという直感は、科学的に説明すれば「他人とは脳神経接続が存在しないからだ。」という極めて単純な結論で片付く観念であって。逆に言えば「なぜ、このバカ学者は自分の考えていることが他人にわからないことを不思議がるという観念を科学的疑問だと錯覚するのか。」の方が重要なのである。
こうした観念と理論の区別がつかないからこそ、通り魔とかテロとか原発の危険性放置といった不毛な「人災」が起こるのであって。論理検証出来ないという多数派の頭の悪さを自分自身で認識したがらないことこそが、人類からあらゆる「人災」への具体的対策を喪失させているのである。
Ende;