○気持ち。
イジメや体罰への対策として、生徒の「気持ち。」を真摯に聞く態度が必要だという説があるが。これは少し間違いがある。
生徒がどのような「考え」を持っているかを聞くことには意味があるが、論理的根拠のない極めて観念的な「思考バイアス=思い込み」を聞くことには意味がない。
イジメをしている生徒の動機として、「キモい」だとか「ムカつく」などという感情論をどんなに真摯に聞いても、これは通り魔の犯行動機と同じで全く意味がないのである。
動機という気分的行動バイアスが行動に直結してしまう短絡性をなくすためには、自己自身で論理的に自分の行動を検証するという本質的な自発的自己行動検証性が必要なのであって。これは認知行動療法的に「なぜ?。」を問いかけ続けることが効果的である。具体的な方法論に関してはおいらは臨床医ではないので詳しくはないが。
イジメだの体罰といった行動の根源は、必ず途中で論理的説明が出来なくなり、必ず気分感情の問題にすりかえようとしたがる。そこで「気分=行動」という短絡性を指摘することによって、自分の無意識性を自己認識させることになるのである。
つまり、生徒の「気持ち」をただ聞くだけでは問題解決にはならず。きちんと論理的説明をさせることが重要なのである。
ただ、こうした「治療」を行うためには、教師自身が気分的観念と、本質的合理性の追求の区別がついていないと無理である。観念に囚われている者というのは、相手を気分的に丸め込むことに対しては異常な執着も持っているため、観念で丸め込まれない確固たる自発的論理検証的思考を教師が持っていないと、簡単に文科系大衆観念に丸め込まれて、問題点がうやむやにされるだけである。
生徒の観念と教師の観念を互いにどんなにぶつけ合っても、そこには合理性のある論理的結論が構造原理的に出て来くることもない。
認知行動療法的な「治療」の手法を、教師が知っているのみならず。論理検証的に合理性というものを追求する主体的な「意志」を持っていることが、本当の意味での人間教育の最も基礎でなくてはならない。
親や教師が人間としての論理的思考をちゃんと持っていなければ、生徒に対しての論理的説明なんぞ出来るわけがないのである。
だったら、そもそも論理的対策にならない司法制度自体にも言及しなければ、生徒子供だけに論理的思考を求めても無駄なのは当然の結果である。
司法もマスコミも、通り魔事件に対して犯人の動機を明らかにすることだけを「解決策」だと思い込む頭の悪さを維持しておいて。生徒子供にだけ論理検証性を求めている時点で論理が崩壊しているからである。
「法律で決まっているから。」とか、「法律さえ守っておけば良い。」などという文科系大衆観念に依存した「規範意識」に依存している限り、生徒子供に論理的説明なんぞ出来るわけがないのである。
そもそも組織的保身という利己的動機があるからこそ、体罰やイジメといった問題が隠蔽されるのであって。こういったバカ集団に何を要求しても改善なんか期待出来ないんです。
東電の隠蔽体質と同じですよ。組織腐敗というのは組織を構成している個人に本質的意識がないから起こるんです。
「自分だけは、絶対に大丈夫。」だと、そう「思って」いる奴が一番問題なんです。それを当人は「信念」だとか言い張るでしょう。それが本当は身勝手な論理的根拠のない思い込みであることに言及できなければ、本当の意味での「意識を変える。」ことにはつながりません。
Ende;
イジメや体罰への対策として、生徒の「気持ち。」を真摯に聞く態度が必要だという説があるが。これは少し間違いがある。
生徒がどのような「考え」を持っているかを聞くことには意味があるが、論理的根拠のない極めて観念的な「思考バイアス=思い込み」を聞くことには意味がない。
イジメをしている生徒の動機として、「キモい」だとか「ムカつく」などという感情論をどんなに真摯に聞いても、これは通り魔の犯行動機と同じで全く意味がないのである。
動機という気分的行動バイアスが行動に直結してしまう短絡性をなくすためには、自己自身で論理的に自分の行動を検証するという本質的な自発的自己行動検証性が必要なのであって。これは認知行動療法的に「なぜ?。」を問いかけ続けることが効果的である。具体的な方法論に関してはおいらは臨床医ではないので詳しくはないが。
イジメだの体罰といった行動の根源は、必ず途中で論理的説明が出来なくなり、必ず気分感情の問題にすりかえようとしたがる。そこで「気分=行動」という短絡性を指摘することによって、自分の無意識性を自己認識させることになるのである。
つまり、生徒の「気持ち」をただ聞くだけでは問題解決にはならず。きちんと論理的説明をさせることが重要なのである。
ただ、こうした「治療」を行うためには、教師自身が気分的観念と、本質的合理性の追求の区別がついていないと無理である。観念に囚われている者というのは、相手を気分的に丸め込むことに対しては異常な執着も持っているため、観念で丸め込まれない確固たる自発的論理検証的思考を教師が持っていないと、簡単に文科系大衆観念に丸め込まれて、問題点がうやむやにされるだけである。
生徒の観念と教師の観念を互いにどんなにぶつけ合っても、そこには合理性のある論理的結論が構造原理的に出て来くることもない。
認知行動療法的な「治療」の手法を、教師が知っているのみならず。論理検証的に合理性というものを追求する主体的な「意志」を持っていることが、本当の意味での人間教育の最も基礎でなくてはならない。
親や教師が人間としての論理的思考をちゃんと持っていなければ、生徒に対しての論理的説明なんぞ出来るわけがないのである。
だったら、そもそも論理的対策にならない司法制度自体にも言及しなければ、生徒子供だけに論理的思考を求めても無駄なのは当然の結果である。
司法もマスコミも、通り魔事件に対して犯人の動機を明らかにすることだけを「解決策」だと思い込む頭の悪さを維持しておいて。生徒子供にだけ論理検証性を求めている時点で論理が崩壊しているからである。
「法律で決まっているから。」とか、「法律さえ守っておけば良い。」などという文科系大衆観念に依存した「規範意識」に依存している限り、生徒子供に論理的説明なんぞ出来るわけがないのである。
そもそも組織的保身という利己的動機があるからこそ、体罰やイジメといった問題が隠蔽されるのであって。こういったバカ集団に何を要求しても改善なんか期待出来ないんです。
東電の隠蔽体質と同じですよ。組織腐敗というのは組織を構成している個人に本質的意識がないから起こるんです。
「自分だけは、絶対に大丈夫。」だと、そう「思って」いる奴が一番問題なんです。それを当人は「信念」だとか言い張るでしょう。それが本当は身勝手な論理的根拠のない思い込みであることに言及できなければ、本当の意味での「意識を変える。」ことにはつながりません。
Ende;