○老子。
「老子から、生きるヒントを貰う。」などというのは老子の思想を全く理解していない。
老子は社会全体の持続可能性や安全性について追求しているのであって、個人的な「生存」のための「ヒント」小手先技を述べているのではない。
文科系大衆の多くは、哲学というものからこ個人的生存手法や精神的救済ばかりを求めようとするが。哲学というのはそういった姑息な個人的利益や快楽を求めることではない。
プラトン的に酔っ払い同士で話を丸めて精神的に安心満足しておけば、大衆の多くは哲学だと勝手に妄想しているが。そんなものは哲学(論理的検証の追求)ではない。
ヒトの多くは哲学から個人的利益や気分的安心満足さえ得られれば良いと勘違いしているが。個人的利益や気分的安心満足などという主観的効用を追求することは哲学というものの本質を逸脱している。
哲学というものは個人的利益や気分的安心満足を目的にしているものではなく、あくまで自己を含めた社会全体を俯瞰した統合的論理検証という、意識の広さを追求するものであって、大衆のご機嫌取りや主観的気分のためや生物的生存のためにあるのではない。
個人的利益や気分的安心満足を求めるというのは、極めて主観的な効用を求めているだけであって。こうした個人的効用ばかりを追求しているからこそ、統合的な社会全体への配慮を喪失することに陥るのであり。むしろ思考停止の意識狭窄を促すだけのバカの論理であり、哲学というものの本質である論理検証性の追求という根源を逸脱している。
こういった文科系大衆観念に基づいた身勝手な「解釈」ばかりを求め、論理的「理解」を拒絶しているからこそ原発の暴走や戦争といったあらゆる「人災」への具体的対策が放棄されるのであり。論理的根拠を持たない観念に基づいた身勝手な「解釈」によって論理的「理解」を放棄することこそが、人類の犯してきた最大の罪だと言える。
生物学者達や哲学者の多くは、「生存戦略」などという実証不能の観念を振り回しておいても、気分的には「恐く」はなかろう。多数派で話を丸めて仲間内で気分的に「納得」でもしておけば、論理的「理解」が出来なくても良いものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。こうした気分感情論によって論理的思考を放棄していて学術理論もすったくれもあったものではない。
「生存」というのは自然界における「結果」論以上の意味など存在せず、「戦略」などという意識的目的行動選択の介在する余地など構造原理的に有り得ない。後天的にどのような能力を獲得可能だとしても、先天的に獲得可能な範囲以上の能力は個体には獲得不可能であり、ヤギが二本脚で歩いたからといって遺伝的進化に影響を及ぼすようなものでも何でもないことは明らかである。遺伝的要素は個体自身には選択不可能な「結果」に過ぎず、そこに意識的「目的」論をこじつけようとすること自体に論理科学的根拠が全く存在しない。
ましてや個人個体が「生きるため。」などという断片的で統合性を欠いた目先の個人的利益快楽を絶対的価値であるかのように扱うのは、極めて利己的であり、自分が有限の存在に過ぎない事実を忘れた普遍性を持たない身勝手な屁理屈に他ならない。
目的というものは、人間としての本質的意識によって、統合的に論理検証されることで抽出可能なものであって。ヒトという種の生物でありさえすれば常に可能であるというような短絡的で安易なものではない。
「生きるヒント。」などと称して、生物的生存を絶対価値であるかのように取り上げるNHK教育テレビというのは、文科系大衆観念に基づいた論理検証性の放棄に他ならず。極めて非学術的であり、「バカの観念」の共感ひけらかしに他ならない。
ヒトは必ず死ぬ。この厳然たる事実を無視し、意味もなく永遠に生きようとする無為な観念こそが、社会安全性や持続可能性という統合的な人間性を伴う価値判断を喪失させるのである。
生きるために原発の危険性を放置し、
生きるために高速バスの安全性を無視し、
生きるためにシエラレオネのゲリラに迎合し、
生きるためにナチズムに迎合し、
生きるために「お国の方針」に迎合し、
生きるためにイジメに加わる。
こうした生存絶対主義こそが、社会から安全性を喪失させ崩壊へと導く「暴走」を促すのである。
生存という「結果」を正当化していれば、そこに意識的「目的」選択が介在しなくなるのは必然的結果である。
Ende;
「老子から、生きるヒントを貰う。」などというのは老子の思想を全く理解していない。
老子は社会全体の持続可能性や安全性について追求しているのであって、個人的な「生存」のための「ヒント」小手先技を述べているのではない。
文科系大衆の多くは、哲学というものからこ個人的生存手法や精神的救済ばかりを求めようとするが。哲学というのはそういった姑息な個人的利益や快楽を求めることではない。
プラトン的に酔っ払い同士で話を丸めて精神的に安心満足しておけば、大衆の多くは哲学だと勝手に妄想しているが。そんなものは哲学(論理的検証の追求)ではない。
ヒトの多くは哲学から個人的利益や気分的安心満足さえ得られれば良いと勘違いしているが。個人的利益や気分的安心満足などという主観的効用を追求することは哲学というものの本質を逸脱している。
哲学というものは個人的利益や気分的安心満足を目的にしているものではなく、あくまで自己を含めた社会全体を俯瞰した統合的論理検証という、意識の広さを追求するものであって、大衆のご機嫌取りや主観的気分のためや生物的生存のためにあるのではない。
個人的利益や気分的安心満足を求めるというのは、極めて主観的な効用を求めているだけであって。こうした個人的効用ばかりを追求しているからこそ、統合的な社会全体への配慮を喪失することに陥るのであり。むしろ思考停止の意識狭窄を促すだけのバカの論理であり、哲学というものの本質である論理検証性の追求という根源を逸脱している。
こういった文科系大衆観念に基づいた身勝手な「解釈」ばかりを求め、論理的「理解」を拒絶しているからこそ原発の暴走や戦争といったあらゆる「人災」への具体的対策が放棄されるのであり。論理的根拠を持たない観念に基づいた身勝手な「解釈」によって論理的「理解」を放棄することこそが、人類の犯してきた最大の罪だと言える。
生物学者達や哲学者の多くは、「生存戦略」などという実証不能の観念を振り回しておいても、気分的には「恐く」はなかろう。多数派で話を丸めて仲間内で気分的に「納得」でもしておけば、論理的「理解」が出来なくても良いものであると勝手に勘違いすることも簡単であろう。こうした気分感情論によって論理的思考を放棄していて学術理論もすったくれもあったものではない。
「生存」というのは自然界における「結果」論以上の意味など存在せず、「戦略」などという意識的目的行動選択の介在する余地など構造原理的に有り得ない。後天的にどのような能力を獲得可能だとしても、先天的に獲得可能な範囲以上の能力は個体には獲得不可能であり、ヤギが二本脚で歩いたからといって遺伝的進化に影響を及ぼすようなものでも何でもないことは明らかである。遺伝的要素は個体自身には選択不可能な「結果」に過ぎず、そこに意識的「目的」論をこじつけようとすること自体に論理科学的根拠が全く存在しない。
ましてや個人個体が「生きるため。」などという断片的で統合性を欠いた目先の個人的利益快楽を絶対的価値であるかのように扱うのは、極めて利己的であり、自分が有限の存在に過ぎない事実を忘れた普遍性を持たない身勝手な屁理屈に他ならない。
目的というものは、人間としての本質的意識によって、統合的に論理検証されることで抽出可能なものであって。ヒトという種の生物でありさえすれば常に可能であるというような短絡的で安易なものではない。
「生きるヒント。」などと称して、生物的生存を絶対価値であるかのように取り上げるNHK教育テレビというのは、文科系大衆観念に基づいた論理検証性の放棄に他ならず。極めて非学術的であり、「バカの観念」の共感ひけらかしに他ならない。
ヒトは必ず死ぬ。この厳然たる事実を無視し、意味もなく永遠に生きようとする無為な観念こそが、社会安全性や持続可能性という統合的な人間性を伴う価値判断を喪失させるのである。
生きるために原発の危険性を放置し、
生きるために高速バスの安全性を無視し、
生きるためにシエラレオネのゲリラに迎合し、
生きるためにナチズムに迎合し、
生きるために「お国の方針」に迎合し、
生きるためにイジメに加わる。
こうした生存絶対主義こそが、社会から安全性を喪失させ崩壊へと導く「暴走」を促すのである。
生存という「結果」を正当化していれば、そこに意識的「目的」選択が介在しなくなるのは必然的結果である。
Ende;