○恐い。
犯罪者の逮捕直前でのインタビューなどで、時折犯罪者自身が「恐くない。」というキーワードを発することがある。
「恐い」かどうかは気分の問題であって、社会的に迷惑で「悪い」かどうかとは無関係であり、個人の主観的感想に過ぎない気分感情を優先しているからこそ「恐くない。」などと述べているのであって、これこそが自律的な社会的責任意識の働いていない証拠である。
不正をやらかすことは、社会全体にとって損失であり。自分が社会の一員としての責任を放棄しているということにまで配慮(意識/論理検証性)が働いていないからこそ、主観的感想に過ぎない「恐くない。」かどうかを優先的に主張すると考えられる。
個人の主観的気分感情が、行動と直結しているからこそ社会的には迷惑で、「自己中心的」だと言えるのであり。気分感情という大脳辺縁系が促す行動バイアスに無意識に流されているというのは本質的には自己抑制制御をする「自分」がないことを意味する。故に「自己中心的な者には、自分がない。」と形容されるのである。
犯罪行為が「恐い」かどうかは個人の主観的気分の感想であって、自分の行為が自分を含む社会全体にとって損失であるかどうかへの検証によって、迷惑で「悪い」行為かどうかを自律的には検証せず、国家権力などからの外的抑圧でしか行動が抑制されていない状態こそが、「自律がない。」と言える。
自律の有無というのは外見的には全くわからない。糞チンピラ風味な外見であっても社会的責任判断を下す者もいれば、弁護士免許や一級建築士免許を持っていても自律のない奴は少なくない。
文科系大衆観念的には、「理性というものは環境と深く結び付いているもの。」であり。個人がおかれている環境や状況によってのみ理性が働くかどうかが決定するものであると錯覚されている。
確かにヒトという種の生物の行動習性的には、論理思考は環境からの影響を受けやすい傾向性は否めないが。論理性というものが環境や状況によってでしか発揮されることが構造原理的に不可能であることの証明はない。
ヒト以外の動物であれば、先天的な本能習性に抗うことは極めて困難であり。イヌなどを人為的に訓練することで外的行動抑圧を刷り込み「学習」させることくらいしか出来ないが。ヒトの場合、極端な知的障害でもない限りは自分の本能習性や、成育環境によって刷り込み学習された無意識行動の自律制御が絶対に不可能であることの論理的証明は存在しない。
いつ、如何なる状況や条件下であろうとも、自律的に社会的責任判断を行うという主体的な自律判断というものは。個人の自発性の中にしか存在し得ない。
「社会に生かされている。」などと卑屈な態度を取っておけば、卑屈な文科系大衆観念的多数派の内部においては「謙虚」だと錯覚させることが可能であるため。主体的自発性というものはなくても良いと勘違いさせることは簡単である。
「存外、人間とは簡単なものだ。」などという主張は、言うなれば「自分を含めてヒトなんてどうせバカなんだから、その場限りにご機嫌取りをしておけば安心で満足だ。」という単なる無責任性の事後正当化のための屁理屈に過ぎない。
多くの「ヒト」は、その先天的本能習性のままに、多数派に迎合しておけば気分的には安心で満足を得られ、何が論理的根拠のある普遍性を持った話かを、自律的には判断することが出来ない。
「ヒト」の先天的行動習性として、自律的に社会全体の安全性や持続可能への配慮を行うようには出来ておらず。目先の利己的利益や快楽安心ばかりを追求する傾向がある。
こうした無意識性というのは、自閉症同様スペクトラム(連続的傾向性)があるため。自律判断の困難さにおいては個人差が存在することは確かであろう。故に「困難なこと=不可能。」と短絡的に「思って」いる程、無意識性が強い証明でもある。
「思い。」という主観的な気分感情と、「考え。」という客観的思考を混同しているからこそ。環境や状況に意識や思考が奪われ、自律的判断力が喪失するのである。
「思い。」という大脳辺縁系が促す行動バイアスを、あたかも主体的意欲であると勘違いしていれば。論理検証的「考え。」が働くなるのは必然的結果である。
ヒトによっては、否、ヒトの多くにとっては、気分感情が促す「思い」の強度に依存した行動バイアスに逆らうことは「困難」かも知れないが。「困難さ。」を根拠に不可能の証明であるかのように言い張るのは、無責任極まりない詐欺行為である。
スポーツ競技だの大学入試だの金儲けビジネスにばかり困難さを要求しておいて、社会にとって最も優先されるべき安全性や持続可能性については、困難であることを根拠に拒絶や否定するのは支離滅裂というものであり。本質的な合理性が全く追求されていない。
それは多くのヒトにとって「恐く」はないのであろうが、こうした先天的本能由来の気分感情による行動バイアスこそが、合理性ある社会安全性を喪失させているのである。
「恐い」かどうかだけで行動判断しているということは、言うなれば犯罪者の行動心理と全く同じものであり。法律には触れていなくても、人間としての道義的社会責任を果たしていないことになるのである。
Ende;
犯罪者の逮捕直前でのインタビューなどで、時折犯罪者自身が「恐くない。」というキーワードを発することがある。
「恐い」かどうかは気分の問題であって、社会的に迷惑で「悪い」かどうかとは無関係であり、個人の主観的感想に過ぎない気分感情を優先しているからこそ「恐くない。」などと述べているのであって、これこそが自律的な社会的責任意識の働いていない証拠である。
不正をやらかすことは、社会全体にとって損失であり。自分が社会の一員としての責任を放棄しているということにまで配慮(意識/論理検証性)が働いていないからこそ、主観的感想に過ぎない「恐くない。」かどうかを優先的に主張すると考えられる。
個人の主観的気分感情が、行動と直結しているからこそ社会的には迷惑で、「自己中心的」だと言えるのであり。気分感情という大脳辺縁系が促す行動バイアスに無意識に流されているというのは本質的には自己抑制制御をする「自分」がないことを意味する。故に「自己中心的な者には、自分がない。」と形容されるのである。
犯罪行為が「恐い」かどうかは個人の主観的気分の感想であって、自分の行為が自分を含む社会全体にとって損失であるかどうかへの検証によって、迷惑で「悪い」行為かどうかを自律的には検証せず、国家権力などからの外的抑圧でしか行動が抑制されていない状態こそが、「自律がない。」と言える。
自律の有無というのは外見的には全くわからない。糞チンピラ風味な外見であっても社会的責任判断を下す者もいれば、弁護士免許や一級建築士免許を持っていても自律のない奴は少なくない。
文科系大衆観念的には、「理性というものは環境と深く結び付いているもの。」であり。個人がおかれている環境や状況によってのみ理性が働くかどうかが決定するものであると錯覚されている。
確かにヒトという種の生物の行動習性的には、論理思考は環境からの影響を受けやすい傾向性は否めないが。論理性というものが環境や状況によってでしか発揮されることが構造原理的に不可能であることの証明はない。
ヒト以外の動物であれば、先天的な本能習性に抗うことは極めて困難であり。イヌなどを人為的に訓練することで外的行動抑圧を刷り込み「学習」させることくらいしか出来ないが。ヒトの場合、極端な知的障害でもない限りは自分の本能習性や、成育環境によって刷り込み学習された無意識行動の自律制御が絶対に不可能であることの論理的証明は存在しない。
いつ、如何なる状況や条件下であろうとも、自律的に社会的責任判断を行うという主体的な自律判断というものは。個人の自発性の中にしか存在し得ない。
「社会に生かされている。」などと卑屈な態度を取っておけば、卑屈な文科系大衆観念的多数派の内部においては「謙虚」だと錯覚させることが可能であるため。主体的自発性というものはなくても良いと勘違いさせることは簡単である。
「存外、人間とは簡単なものだ。」などという主張は、言うなれば「自分を含めてヒトなんてどうせバカなんだから、その場限りにご機嫌取りをしておけば安心で満足だ。」という単なる無責任性の事後正当化のための屁理屈に過ぎない。
多くの「ヒト」は、その先天的本能習性のままに、多数派に迎合しておけば気分的には安心で満足を得られ、何が論理的根拠のある普遍性を持った話かを、自律的には判断することが出来ない。
「ヒト」の先天的行動習性として、自律的に社会全体の安全性や持続可能への配慮を行うようには出来ておらず。目先の利己的利益や快楽安心ばかりを追求する傾向がある。
こうした無意識性というのは、自閉症同様スペクトラム(連続的傾向性)があるため。自律判断の困難さにおいては個人差が存在することは確かであろう。故に「困難なこと=不可能。」と短絡的に「思って」いる程、無意識性が強い証明でもある。
「思い。」という主観的な気分感情と、「考え。」という客観的思考を混同しているからこそ。環境や状況に意識や思考が奪われ、自律的判断力が喪失するのである。
「思い。」という大脳辺縁系が促す行動バイアスを、あたかも主体的意欲であると勘違いしていれば。論理検証的「考え。」が働くなるのは必然的結果である。
ヒトによっては、否、ヒトの多くにとっては、気分感情が促す「思い」の強度に依存した行動バイアスに逆らうことは「困難」かも知れないが。「困難さ。」を根拠に不可能の証明であるかのように言い張るのは、無責任極まりない詐欺行為である。
スポーツ競技だの大学入試だの金儲けビジネスにばかり困難さを要求しておいて、社会にとって最も優先されるべき安全性や持続可能性については、困難であることを根拠に拒絶や否定するのは支離滅裂というものであり。本質的な合理性が全く追求されていない。
それは多くのヒトにとって「恐く」はないのであろうが、こうした先天的本能由来の気分感情による行動バイアスこそが、合理性ある社会安全性を喪失させているのである。
「恐い」かどうかだけで行動判断しているということは、言うなれば犯罪者の行動心理と全く同じものであり。法律には触れていなくても、人間としての道義的社会責任を果たしていないことになるのである。
Ende;