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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

実装。

2012年08月12日 18時33分26秒 | 意識論関連

○頭の悪さを実装する。

 論理的根拠のない「意味」を、論理的理解をともなわない「解釈」をしているから、実証不能の「観念」だの「神話」を振り回すことに陥るのである。

 「意味」とは、効果を持つもののことであり、「目的」と同義である。

 現在の脳神経科学を含む生物学全般においては、効果とは「生体にとって好ましい。」という生存価への効果しか論じておらず、生存という動物的な「結果」を「目的」であると勝手に規定してしまっているためであり、「生存こそが絶対的価値である。」という実証不能の観念に基づいている。

 イジメなどの排除差別で命を落とせば、「死んだ者は人間として出来損ないである。」という意味である。

 集団レイプを「元気があってよろしい。」などと述べた国会議員がいたが、動物的な生体として元気で健康で生存に好ましい行動を採ることを、短絡的に人間性であると錯覚しているからである。

 教育者達は集団組織的にイジメを統率的協調行動によって動物本能的に排除差別暴力をすることは、生体として健康だとでも思っているのであろう。それならイジメが発生するのは健康だという意味に「解釈」しているのである。

 そりゃ、イジメは放置されるだろうよ。



 「生存」は意味ではない、自然偶発的な結果として生存していたものを「生物」と分類しているだけであって、分類自体の方が絶対的意味だと錯覚するのは科学的論理思考とは言えないのである。

 人間としての意味とは、常習性というドーパミンが促す報酬系に対する反射的行動バイアスの「結果」を追求することではなく。自律的な統合的論理検証による社会的責任判断のことである。このことは実際に他者による無責任行動のなどの被害を受けなければ感覚的実感を伴わないかも知れない、多くのヒトは生存生体に好ましい行動こそが人間の価値だと勝手に思い込んでいるからである。世間的な評価報酬という「成功」こそが意味であると錯覚しているからこそ、本質的な人間の価値を忘れ、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしてしまうのであり、これなら原発が暴走しようとイジメなどの排除差別や暴力がなくならなくても当然というものである。

 「生存に適していさえすれば人間として優位である。」これが現在の生物学の基本概念である。だからこそ優生学などというオカルトが明確に否定出来ないのである。

 「生物学だから生存だけを意味とするのは当たり前だ。」などという言い逃れは、「役所がお役所仕事をして何が悪い。」と開き直っているのと同じである。生物学や特に脳神経科学は人間も取り扱う学問である、にも関わらず「人間とは何か」の基本概念を無視し、動物本能だけに意味を求めるというのは支離滅裂で科学的とは到底言えないのである。




 「言語=論理思考」という方程式にも論理的根拠はない。占い師や詐欺師、ニーチェだの養老だのプラトンの支離滅裂な話を鵜呑みにして気分的な安心満足をしていて、一体何が論理思考であろうか。

 ドストエフスキーでどんなに感動しても、これも気分的な満足に過ぎず、何ら論理的意味は存在しないのである。感動などというのは大脳辺縁系の報酬系が促す脳内麻薬の反応に過ぎず、感動という脳内麻薬の反応の大きさをどんなに強弁しても論理的意味には全くならない。これは単なる本能的行動バイアスの「結果」を述べているに過ぎないのである。

 ヒトの多くは言語による「文学」によって気分的安心や満足を得ることばかりを優先してしまい、論理的「意味」が何かを簡単に忘却するのである。

 言語というのはヒトという種の生物において特に発達した機能ではあるが、それが短絡的に「人間である所以。」には全くならない。

 どんなに複雑な無意識機能を解析しても意識機能には全く言及されることはない。「言語という無意識機能こそが人間を人間たらしめる。」などという訳のわからぬ話を本気で論じている脳神経科学者というのは、もはやキチガイとしか言いようがなく論外である。




 ヒトという種の生物において、人間たりうるためには。自発的に物事を判断し、自律的に社会的責任判断を行う必要がある。単なる生物的、生体的結果を述べても人間性の論証には全くならないのである。

 個人が自発的に物事を判断しなければ、個人が個人として尊重されうる互換不可能性を持たない。平たく言えば「誰でも良い。」ということである。すなはち機械や動物と全く同じである。

 言語機能を解析することは脳神経科学においての「流行」ではある。全く意味がないとは言えないであろうが、短絡的に「言語機能を解析出来れば、人間とは何かがわかる。」などという話には全くならない。それは「ヒトとはどういうものか。」を分析したことにしかならないのである。



 電子工学界においても、人間が取り扱う抽象的概念を「解釈」できるように、機械学習を用いて論理的根拠のない概念をも取り扱いできることによって、クイズ番組での成績が取れる研究が進んでいる。

 ヒトの自然言語を観念的に解釈し、答の予め用意されているクイズの成績を追求しても、そこから人間としての本質的知能は出てこない。

 クイズ王でどんなに世間的に成功しても、クイズ王は予め正解が用意されていない問題には一切解答できないのである。それは人間としての本質的知能が全く働いていないということである。

 クイズ専用スーパーコンピュータは、クイズの成績だけを報酬とした機械学習しかすることはない。「どうしたら人災を減らすことが可能であるか。」という「予め答が用意されていない問題。」に対して、論理的根拠に基づいた解答を出すことはなく、Web上から「それらしい。」文章を多数派傾向によって拾ってきて繰り返すだけであり、何ら自発的な論理思考は介在することはないのである。

 Web上に正解があるとしても、少数であれば無視されるのである。決して自律的に「何が論理的に正しいのか。」を判断することはない。そういうロジック(機械的論理回路)であるからだ。

 こうした無意味な研究ばかりが追求され、本質的な人間としての知能による倫理や問題解決能力が検証されないのは、一体誰がバカだからであろう。言語やクイズの研究をするのは構わないが、それこそが人間性であるというオカルト観念に基づいて研究費が配分され、本質的な人間としての価値について全く研究が進まないというのは異常である。そこに意識が働いているのは、おそらく危険工学の畑村洋太郎くらいであろう。



 もしかすると機械的論理回路でありさえすれば論理的思考が成立するものであると勘違いしているのかも知れない。多数決を抽出する機械的論理的回路からは多数派しか抽出することは出来ず、それが論理的に正しいのかどうかを「考え」「検証」するわけではない。

 機械的論理回路というのは、無意識である。予め組み込まれたプログラム(思考パタン)に基づいて機械的に演算するだけであって。思考がパタン化している時点で思考自体ではないのである。

 パタンという固定観念、マインドセットに基づいているから無意識なのであり、これが思考を放棄させるのである。

 機械学習というのは、脳の大脳辺縁系における報酬系が促す行動バイアスを真似たものである。従ってヒトという種の生物の動物的な行動を真似ているだけであって、何ら自発的論理検証を行うようには原理的になっていない。

 コンピュータの場合は生物の大脳辺縁系が持つ暴力性までは再現されていないので、報酬が得られなくなったとしても突然無差別殺人などという論理崩壊には至らないであろうが。多数が間違え錯覚していることであっても、それを間違いや錯覚であるとは認識することは出来ない。

 いわば、ヒトの多数派同調バイアスをも正確に再現しているのである。

 すなはち、ヒトの無意識さ、バカさを再現したに過ぎない。

 「バカが何か。」を理解できれば、「バカではないとは何か。」をも理解することは可能である。脳神経科学界自体が自分達の頭の悪さを理解していないのであるから、これは論外である。

 バカが作るものがバカげているのは当たり前である。

 ヒトの大脳辺縁系が促す感情を全て持ち合わせていなければ、ヒトが持つ危険性自体も認識することは出来ず。結局はヒトでなければヒトの問題は解決できないのである。

 仏教における「十界互具」とは、仏という人間の理想を実現するためには、ヒトが持つあらゆる感情の全ても持ち合わせていなければならないことを指す。

 つまり、欠陥を持っているからこそ欠陥の問題点を自己検証し認識可能となるのであって、最初から欠陥を持たない機械を実装しても、ヒトの欠陥は認識できないのである。

 そもそもヒトの脳と全く同じものを実装するのであれば、最初からヒトの脳でも充分なのであり、ヒトの脳を模倣する意味など最初からないのである。

 まあ、でも生体のヒトの脳を生体解剖することは出来ないので、機械でバカを再現することにはそれなりの価値は存在するのかも知れない。

 あくまで「それなりの価値。」以上の意味はない。ヒトがなぜバカに陥るのかは既にわかっていることであるからだ。





 統合的論理検証というのは、単に大量の情報を「知っている。」だけで成立するようなものではない。

 情報の「質」についても、単なる多数派同調では全く保障されることもない。

 重要なのは情報の「質」を統合的に論理検証することであり、これは報酬系を用いた機械学習「だけ」では原理的に実現不可能である。機械の場合、ヒトが行うような純粋自発思考というものを再現する手法は確立していない。今のところ機械に機械学習以外を実装する以外には何も手立てがない。

 だからといって、ヒトの方が純粋自発思考をしなくて良いことの理由には全くならず、むしろ機械で実現不可能な創造的思考こそを率先して行わなければならない。

 ヒトの純粋自発性であっても、ある種の行動バイアスに依存することに違いはないが。環境や本能といった既存の固定概念だけに思考を拘束されることのない自発的思考というものがなければ、創造性というのは発揮されないのであり。当人個人の主体的意欲、意思といったものがなければ、本質的な意識による人間としての知能を発揮することは出来ないのは確かである。

 自発的に物事を考えなければ、自律的に社会的責任判断をすることもないのである。

 自発的に存在するという「実感。」というもの、自発的意欲というものをどう機械に実装するのか、そもそも可能なのかすらわからないが、機械に実装する前にヒトの方が本質的自発性の重要性を認識していなければ話にならない。

 イジメなどの差別排除や無責任さによる「人災」というものが生ずる原因が本能的なバグ(欠陥)にあることを先ず認識しなければならない。本能的欠陥の最大の問題点は自発的思考検証を放棄して固定観念の中に安心満足してしまうことであって、予め決められた報酬系が促す行動バイアスだけに無意識に流されてしまうことが問題なのである。

 自主的に自己の脳を満足させる自己完結的純粋思考というものを、どうやって機械実装するのか。もし可能であるとしてもどうやってヒトの自然言語に要約させるのか。

 結局は同じ種のヒトでなければ説明は困難を増すだけであろう。

 ヒトの多くは自分の気分が悪くなる話を無視して満足する。これはヒトという種の生物に組み込まれた本能的思考バイアスである。自分にとって都合の悪い話を無視するような「仕組み」があるからだ。

 こうした「仕組み」に無為無策に流されるのは、そこに自発的意識、意思がないからである。自分の子供が殺されてから怒鳴り散らしても遅いのである。

 ヒトという種の生物に本質的な知能を発揮させる構造や手法が明確に確立されていない現状において、機械に本質的知能を実装する手法が発見できないのは当たり前である。

 何が本質的な人間としての知能であるのかを、先ず認識すべきである。それを無視しておいて知能もすったくれもあったものではない。




 ヒトの問題というのはヒトでなければ解決できないものであって、ヒト以外の神とか宇宙人とか、ましてや偶発的に組み込まれた本能習性の「結果」の枚挙や、バカが機械実装した「バカの再現」でどうにかなるようなものではない。


Ende;

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