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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

目的論。

2013年09月13日 17時24分32秒 | 意識論関連
○目的論

 論理検証的に予測された目的行動選択以外の全ては、目的とは言えない。

 先天的本能習性がたまたま生存だの種の保存に適した結果だけを集めてきても、それが論理検証的に予測されたものである証明がない以上、これは目的とは呼べない。

 生存の種の保存も全ては「結果」であって、結果的に生存していたり種が保存されたりしているものを「生物」と分類しているに過ぎないのである。

 ヤギが二本脚で立ち上がっても、そんなものはヤギの本能的行動の結果に過ぎず。それが何らかの特定結果に適しているとしても、ヤギの行動の全てが常に何らかの特定結果に適していることの論理的証明には全くならない。

 アメリカ人が食物を過剰摂取することで肥満に陥ることは、生存に適さない本能の暴走結果に過ぎず。本能の全てが必ずしも生存だの種の保存といった何らかの目的に常に適することの科学的論証にはならず。従って本能に由来する行動習性の結果がどんなに何らかの結果に適することを陳列枚挙しても、それは全て「結果」以上の何物でもなく、論理検証的に選択した「目的」行動であることの論証にはならない。

 血栓が脳や心臓に梗塞を及ぼすことを、どんなに多数抽出枚挙しても、「血液の目的は脳梗塞や心筋梗塞を引き起こすことである。」ことの論証にならないのと同じことである。

 何がしかの「結果」に適した「結果」をどんなにたくさん抽出枚挙しても、それが短絡的に「目的」であることの科学的証明には全くならない。



 また、振り込め詐欺師が金を騙し取ることを目的とした行動であっても、これは「金を騙し取る。」という先天的欲望という「結果」的行動の結果に過ぎず。また、東京電力社内における個人的な地位権益を守るために福島第一原子力発電所の危険性を放置したことにおいても、個人的保身を目的とした「結果」に過ぎず。個人が主体的に論理検証的に選択した人間としての目的行動選択とは言えない。

 本能的欲望自体が自己の主体的選択ではない以上、欲望満たすための行動の全ては人間としての目的行動選択の論証には全くならない。

 単なる結果的な欲望の大きさ強度に流される形で選択されたあらゆる行動選択は、全て「結果」であって本質的には「目的」ではない。

 人間としての本質的「目的」とは、あらゆる欲望の中から、自己が存在するに価する社会のあるべき姿に基づいた論理検証的選択に基づくものを指すのであって。それこそが本質的な人間としての意識であり知能であると言えるのである。

 それ以外のあらゆる特定能力の高さや無意識行動の結果を陳列枚挙しても、それが人間としての「目的」行動選択の論証にはならない。

 自己の内部における、あらゆる固定観念の全てを論理的に検証することは簡単ではない。あらゆる欲望が作り出す思考バイアスや思考拘束性の全てを脱構築するためには、日々の地道な注意力(意識)が必要であり、一朝一夕に叶うものではない。

 漫然と現状世間の多数が作り出す価値観に惑わされ、呆然と目先の満足安心だけを追求しておく方が圧倒的に簡単である。そこにどんなに強い観念が働いていようとも、それらは無意識であって意識ではない。

 自律的に主体的判断選択をしないのであれば、これは他者との互換不可能な個人としての尊厳も存在し得ない。

 何にも自律的には社会的責任判断を行わないのであれば、これは「誰でも良い。」からである。そういうバカなら掃いて棄てる程うじゃうじゃいる。東京電力にも西武グループにも大王製紙にもオリンパスにも生物学にも霞ヶ関にもマスコミにも、そういうバカは枚挙にいとまがない。

 本質的な意識がなければ知能も目的も人間性も構造原理的に有り得ない。




Ende;

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