○死んだらそれで全てお終い。
文科系大衆観念上では、「死んだらそれで全てお終い。」という話をしたがる傾向があるが。「死ぬ」かどうかは個人的な結果に過ぎず、人間としての行動選択の正当性の論証とは無関係な話であり。
ベンヤミンがナチズムに反対して命を落としたことが間違いであったことの論証にもならないし、東京電力の原子炉安全担当者が組織や自己の地位権益保身のために原発の危険性を放置したことが正当化されるわけでもない。
むしろ、「死ぬかどうか。」という個人的な結果論を持ち出して、自分が存在するに価する社会の姿に適さない行動に誘導するのが文科系大衆観念のオカルト性の源である。
ヒトは必ず死にます。ヒトの死亡率は100%であることを忘れ、その場限りの利己的生存維持のために社会を崩壊に導くような判断をしていて、人間性もすったくれもあったものではありません。
多くのヒトにとっては、「死ぬ」かどうかは「個人にとっては一大事。」なのかも知れませんが、それは生物医学的結果としての重大性に過ぎず。社会の中における自己というものの存在価値としての、他者との互換不可能性な個人の自律的社会的責任に伴う人間としての尊厳とは関係がありません。
尊厳を棄ててまで生存することに何の価値があるでしょうか。尊厳を放棄して生存だけを求めるというのは、ヒトという種の生物としては「生存」していても、人間としては死んでいるのと同じことです。
生物学であることを根拠に、生存に適すること以外何もを考えなくて良い理由はありません。
生存だけを優先するというのは、いわば「サルの正義」に過ぎず。「サルの正義」が人間としての科学的検証よりも優先されて良い理由なんぞ有り得ないからです。
ましてや哲学や経済学が目先の効用利益快楽満足ばかりを追求するというのは、もはや「ふざけている。」としか形容出来ません。
「皆さん、お金が欲しいでしょ。」とはホリエモンの言葉ですが、「皆さん、死にたくはないでしょう。」とは生物学や哲学が大衆の思考を停止させる時に用いる常套句なのです。
個体、個人の生存云々というものは、あくまで個人的主観的価値観に過ぎず。社会全体の安全性や持続可能性とは関係がありません。個人的生存よりも、自分が死んだ後の世界に希望が持てないような選択をしておいて、人間であるとは言えないのです。
「死んだらそれで全てお終い。」という主観的で短絡的結果論に意識を奪われ、自分が死んだ後の世界のあるべき姿を基準とした判断を停止しているから、「洗脳」なのです。
今の世の中、自律的に社会的責任判断を優先していれば、生活に困窮して生存に適さないかもしれませんが。だからといって自律的な社会的責任判断を誰もしない社会に持続可能性や安全性が成立しないのは必然的結果というものです。
一人一人が自律的な社会的責任判断を下すことによって、今のような腐敗した世間を変えることは不可能ではありません。
それがどんなに「困難」であるかは想像に難くありませんが、論理的に不可能性の証明が存在するわけでも、やらなくて良いことの道義的根拠も存在しないのです。
世の中の大半が賢い正直者ならば、「正直者の多くがバカを見ない社会。」が作れる可能性はあります。東電社員が取締役幹部の言いなりに原発の危険性を放置しなくても済めば、原発は暴走せずに済んだかも知れません。
その実現可能性が低いかどうかを論ずることに意味などありません。「あるべき姿」という理想を論じているのであって、これこそが人間としての「目的」でなければならないことに、可能性云々の議論は意味を成さないからです。
理想を持たずに目先の満足を追求するのは人間としてポンコツです。どんなに大脳新皮質の容量があっても、社会の中における一人の人間として糞の役にも立たないということです。
文科系大衆の多くは、理想というものを実現不可能なお伽話か何かと分類整理したがる傾向がありますが。それなら現状世間の根源的問題点を放置し、社会が破綻暴走するのを放置することの方が「現実的」で正当だとでも言うのでしょうか。それはすなはち、東電社員が取締役幹部の言いなりに原発の危険性を放置することの正当性を論じているのと同義なのです。
こうした現状迎合主義というのは、論理的根拠のない保守的固定観念であって。これこそが人類の進歩を妨げる最も根源的なヒトという種の生物の先天的習性であると言えるのです。
ヒトという種の生物は、既存物に対する根拠のない観念的執着というものがあります。今まで存在していた刑法や司法システムへの論理的根拠のない安心感というのも、こうしたヒトの執着心の結果であり。それが社会安全性において大きな障害になっている以上、これは脱構築しなければならないことを認識する必要があります。
放射能まみれにされた土地への執着というものも、観念であることに違いはありませんが。それなら「どうせ安い田舎の土地なんだから、執着する方が合理的ではない。」などと言い出すことの方が人間として異常なのです。個人にとっての価値観というものは、単なる経済学上の価格数値とは直接関係のないものであり。「安い」かどうかで個人の価値観を蔑ろにしている時点で、既に個人の主体的意思を尊重しない多数派迎合主義に基づいているのであって。これはむしろ本質的な自己としての主体性を持たないからこそ、他者の個人的主体性をも蔑ろにしているのである。
経済的価値、金額数値というのは経済における手段であって、目的ではありません。価値というのは本来主観的なものであって、経済価値的数値で割り出せるような民事訴訟判断のようなものではありません。
個人が大切にしているものを、他者が蔑ろにしない社会とは。個人が他者の価値観を経済原理で勝手に決め付けたりしない社会です。
本質的な自己としての価値観を持たない者にとっては、他人の個人的価値観も尊重することはありません。自分の中にかけがえのないものを持たないものが、他人にとってかけがえのないものが何かを知ることは構造原理的にないからです。
本質的な合理性の追求とは。その場限りの機械的経済価値への換算のような短絡的で、他者の個人的価値観を蔑ろにするような安易なものではありません。それは何ら合理的なのではなく、単に手続き上短絡安易なだけに過ぎません。
市民同士が互いの主観的な価値観を尊重し、安全で持続可能な社会のために個人が主体的に選択をすること。それによって個人が他者と互換不能な社会的価値としての尊厳を全うして、初めて「合理性の追求。」となるのです。
何が主観的な価値観で、何が社会的価値観なのかを区別するのもまた、理性です。その場限りの感情気分の強度程度問題で決定するようなものではありません。
本能的な気分感情という大脳辺縁系の反射反応は、そもそも個人の意志選択を介さない「結果」に過ぎません。ですから気分感情というものを大局的に客観視し、論理的に優先順位をつけることこそが、人間としての「心」だと言えるのです。
多くのヒトは死を怖れます。これはドーパミンが作り出す最も基本的な動物としての本能ですが、死を最も嫌うことは大脳辺縁系が作り出した「結果」に過ぎません。
こうした先天的な思考バイアスを用いて思考を停止させることこそが、人間としての合理的思考探求性を喪失させ、目先の物質数値的利益効用の追求へと多くのヒト達を誘導するのです。
土地への執着心というものもまた思考バイアスではありますが、そもそも個人所有地の安全を剥奪すること自体が合理的ではなく、これを単なる多数決的な経済価値に置き換えてしまうことの方が非合理的なのであって、個人の主観的価値観の全てが無意味だと言っているわけではありません。
個人が主観的に大切にしているものと、社会的に有害なものとを自律的に区別認識出来ないのは、そこに客観性を伴った主体的論理検証性が働いていないからに他なりません。
「お前が大切にしている価値観なんぞ、俺の知ったことじゃねぇ。」などという身勝手な言い分は、人間としての社会性を欠いた、「チンパンジーの価値観。」に過ぎないのです。
他人の主観的価値観を尊重しない社会が、合理的だと思うのは大間違いです。それはとても非合理的で機械手続き的な短絡性でこそあれ、合理的でも何でもないことを。論理的に理解することをしなくてはなりません。
ヒトの多くは論理的理解をすっ飛ばし、観念的に「わかったような気分。」に陥ったり、単に難解だったり判定不能なことに「悩む」ことを「考え」だと勘違いする習性があります。こうした錯覚勘違いを放置しているから、非合理的観念を鵜呑みにし、「経済価値の追求。」のようなものを合理性追求だと「解釈」してしまうのです。
しかし、社会を暴走破綻に陥れる可能性を持った実証不能の観念としての思考停止バイアスを、主観的価値として認めるわけにはいきません。
現行司法制度などにおける問題点や、生物学や哲学における無責任な実証不能の観念を、単に気分的拒絶反応だけを根拠に放置しておいて良いことにはならないからです。
Ende;
文科系大衆観念上では、「死んだらそれで全てお終い。」という話をしたがる傾向があるが。「死ぬ」かどうかは個人的な結果に過ぎず、人間としての行動選択の正当性の論証とは無関係な話であり。
ベンヤミンがナチズムに反対して命を落としたことが間違いであったことの論証にもならないし、東京電力の原子炉安全担当者が組織や自己の地位権益保身のために原発の危険性を放置したことが正当化されるわけでもない。
むしろ、「死ぬかどうか。」という個人的な結果論を持ち出して、自分が存在するに価する社会の姿に適さない行動に誘導するのが文科系大衆観念のオカルト性の源である。
ヒトは必ず死にます。ヒトの死亡率は100%であることを忘れ、その場限りの利己的生存維持のために社会を崩壊に導くような判断をしていて、人間性もすったくれもあったものではありません。
多くのヒトにとっては、「死ぬ」かどうかは「個人にとっては一大事。」なのかも知れませんが、それは生物医学的結果としての重大性に過ぎず。社会の中における自己というものの存在価値としての、他者との互換不可能性な個人の自律的社会的責任に伴う人間としての尊厳とは関係がありません。
尊厳を棄ててまで生存することに何の価値があるでしょうか。尊厳を放棄して生存だけを求めるというのは、ヒトという種の生物としては「生存」していても、人間としては死んでいるのと同じことです。
生物学であることを根拠に、生存に適すること以外何もを考えなくて良い理由はありません。
生存だけを優先するというのは、いわば「サルの正義」に過ぎず。「サルの正義」が人間としての科学的検証よりも優先されて良い理由なんぞ有り得ないからです。
ましてや哲学や経済学が目先の効用利益快楽満足ばかりを追求するというのは、もはや「ふざけている。」としか形容出来ません。
「皆さん、お金が欲しいでしょ。」とはホリエモンの言葉ですが、「皆さん、死にたくはないでしょう。」とは生物学や哲学が大衆の思考を停止させる時に用いる常套句なのです。
個体、個人の生存云々というものは、あくまで個人的主観的価値観に過ぎず。社会全体の安全性や持続可能性とは関係がありません。個人的生存よりも、自分が死んだ後の世界に希望が持てないような選択をしておいて、人間であるとは言えないのです。
「死んだらそれで全てお終い。」という主観的で短絡的結果論に意識を奪われ、自分が死んだ後の世界のあるべき姿を基準とした判断を停止しているから、「洗脳」なのです。
今の世の中、自律的に社会的責任判断を優先していれば、生活に困窮して生存に適さないかもしれませんが。だからといって自律的な社会的責任判断を誰もしない社会に持続可能性や安全性が成立しないのは必然的結果というものです。
一人一人が自律的な社会的責任判断を下すことによって、今のような腐敗した世間を変えることは不可能ではありません。
それがどんなに「困難」であるかは想像に難くありませんが、論理的に不可能性の証明が存在するわけでも、やらなくて良いことの道義的根拠も存在しないのです。
世の中の大半が賢い正直者ならば、「正直者の多くがバカを見ない社会。」が作れる可能性はあります。東電社員が取締役幹部の言いなりに原発の危険性を放置しなくても済めば、原発は暴走せずに済んだかも知れません。
その実現可能性が低いかどうかを論ずることに意味などありません。「あるべき姿」という理想を論じているのであって、これこそが人間としての「目的」でなければならないことに、可能性云々の議論は意味を成さないからです。
理想を持たずに目先の満足を追求するのは人間としてポンコツです。どんなに大脳新皮質の容量があっても、社会の中における一人の人間として糞の役にも立たないということです。
文科系大衆の多くは、理想というものを実現不可能なお伽話か何かと分類整理したがる傾向がありますが。それなら現状世間の根源的問題点を放置し、社会が破綻暴走するのを放置することの方が「現実的」で正当だとでも言うのでしょうか。それはすなはち、東電社員が取締役幹部の言いなりに原発の危険性を放置することの正当性を論じているのと同義なのです。
こうした現状迎合主義というのは、論理的根拠のない保守的固定観念であって。これこそが人類の進歩を妨げる最も根源的なヒトという種の生物の先天的習性であると言えるのです。
ヒトという種の生物は、既存物に対する根拠のない観念的執着というものがあります。今まで存在していた刑法や司法システムへの論理的根拠のない安心感というのも、こうしたヒトの執着心の結果であり。それが社会安全性において大きな障害になっている以上、これは脱構築しなければならないことを認識する必要があります。
放射能まみれにされた土地への執着というものも、観念であることに違いはありませんが。それなら「どうせ安い田舎の土地なんだから、執着する方が合理的ではない。」などと言い出すことの方が人間として異常なのです。個人にとっての価値観というものは、単なる経済学上の価格数値とは直接関係のないものであり。「安い」かどうかで個人の価値観を蔑ろにしている時点で、既に個人の主体的意思を尊重しない多数派迎合主義に基づいているのであって。これはむしろ本質的な自己としての主体性を持たないからこそ、他者の個人的主体性をも蔑ろにしているのである。
経済的価値、金額数値というのは経済における手段であって、目的ではありません。価値というのは本来主観的なものであって、経済価値的数値で割り出せるような民事訴訟判断のようなものではありません。
個人が大切にしているものを、他者が蔑ろにしない社会とは。個人が他者の価値観を経済原理で勝手に決め付けたりしない社会です。
本質的な自己としての価値観を持たない者にとっては、他人の個人的価値観も尊重することはありません。自分の中にかけがえのないものを持たないものが、他人にとってかけがえのないものが何かを知ることは構造原理的にないからです。
本質的な合理性の追求とは。その場限りの機械的経済価値への換算のような短絡的で、他者の個人的価値観を蔑ろにするような安易なものではありません。それは何ら合理的なのではなく、単に手続き上短絡安易なだけに過ぎません。
市民同士が互いの主観的な価値観を尊重し、安全で持続可能な社会のために個人が主体的に選択をすること。それによって個人が他者と互換不能な社会的価値としての尊厳を全うして、初めて「合理性の追求。」となるのです。
何が主観的な価値観で、何が社会的価値観なのかを区別するのもまた、理性です。その場限りの感情気分の強度程度問題で決定するようなものではありません。
本能的な気分感情という大脳辺縁系の反射反応は、そもそも個人の意志選択を介さない「結果」に過ぎません。ですから気分感情というものを大局的に客観視し、論理的に優先順位をつけることこそが、人間としての「心」だと言えるのです。
多くのヒトは死を怖れます。これはドーパミンが作り出す最も基本的な動物としての本能ですが、死を最も嫌うことは大脳辺縁系が作り出した「結果」に過ぎません。
こうした先天的な思考バイアスを用いて思考を停止させることこそが、人間としての合理的思考探求性を喪失させ、目先の物質数値的利益効用の追求へと多くのヒト達を誘導するのです。
土地への執着心というものもまた思考バイアスではありますが、そもそも個人所有地の安全を剥奪すること自体が合理的ではなく、これを単なる多数決的な経済価値に置き換えてしまうことの方が非合理的なのであって、個人の主観的価値観の全てが無意味だと言っているわけではありません。
個人が主観的に大切にしているものと、社会的に有害なものとを自律的に区別認識出来ないのは、そこに客観性を伴った主体的論理検証性が働いていないからに他なりません。
「お前が大切にしている価値観なんぞ、俺の知ったことじゃねぇ。」などという身勝手な言い分は、人間としての社会性を欠いた、「チンパンジーの価値観。」に過ぎないのです。
他人の主観的価値観を尊重しない社会が、合理的だと思うのは大間違いです。それはとても非合理的で機械手続き的な短絡性でこそあれ、合理的でも何でもないことを。論理的に理解することをしなくてはなりません。
ヒトの多くは論理的理解をすっ飛ばし、観念的に「わかったような気分。」に陥ったり、単に難解だったり判定不能なことに「悩む」ことを「考え」だと勘違いする習性があります。こうした錯覚勘違いを放置しているから、非合理的観念を鵜呑みにし、「経済価値の追求。」のようなものを合理性追求だと「解釈」してしまうのです。
しかし、社会を暴走破綻に陥れる可能性を持った実証不能の観念としての思考停止バイアスを、主観的価値として認めるわけにはいきません。
現行司法制度などにおける問題点や、生物学や哲学における無責任な実証不能の観念を、単に気分的拒絶反応だけを根拠に放置しておいて良いことにはならないからです。
Ende;