goo blog サービス終了のお知らせ 

書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

微力の行使。

2012年07月21日 13時09分26秒 | 意識論関連



 イジメというのは基本的に集団組織的に行われるものであり、個人の目的意図によって作り出されるものではない。

 特定の誰かを標的することによって、それ以外の個体同士での統率的協調性を発揮し集団仲間意識による本能的安心満足を得ることが出来るため。無意識なヒトというのはイジメという排除差別に簡単に陥る習性傾向がある。

 こうした気分的安心満足というものは、本能的に組み込まれた結果的行動であり。普遍的にヒトの行動に見ることができるものである。

 社会を形成する習性というものは、社会を形成することを目的としているのではなく。あくまで無意識感情的な結果として社会を形成「してしまう。」だけのものであって、これは無意識な行動の結果である。

 生物学者達は本能的行動の結果の全てに事後正当化的に意味をこじつけを実証であるとする生物学上のマインドセット(思い込み、集団内部だけの偏った常識)によって、結果と目的の区別を論理的に区別することを観念的に拒絶するのである。

 ヒトの子供のイジメ(排除、差別)行動というものは本能的社会形成性の無意識的行動「結果」以上の意味はないのだが、脳科学も含めた生物学系学界はこれにどのような「目的」をこじつけるつもりであろう。

 イジメに生物学的意味のこじつけを行っている限りは意識的目的行動と無意識的行動結果の区別が出来ないのは当然であり、理論的根拠のない観念にマインドセットされたまま合理的検証判断を行わない生物学系学界は、いうなればイジメを放置許容しているのと同じことであり、極めて悪質である。

 統率的な集団協調性というものは必ずしも人間性を伴うものではなく、環境によってはシエラレオネの少年ゲリラのような凶暴残虐性の発揮の原因とも成りうるものであって。同時に多数に迎合することというのは本能的/気分的に安心満足による思考停止によって、あたかも「協調性=人間性」であるかのような錯覚を促すために、論理検証が苦手な文系大衆観念上では、こうした錯覚自体を認識することを拒絶する。

 多数に迎合したり、権威に服従することは本能的安心を促すのだが。こうした気分的安心をあたかも論理的な安全性の論証であるかのように錯覚する傾向がヒトにはある。

 協調性というものは世間的な成功にとって必要不可欠な能力でもあるが、世間的成功とはあくまで利己的欲望に基づいた価値観に過ぎず、これ自体は自律的な社会的責任判断能力とは無関係なものであって、本質的な人間性の論証にもならない。

 シエラレオネでは残虐なゲリラに迎合服従しておいた方が権力を獲得したり生存に適したりすることは可能であろうが、こうした「協調性」こそが残虐なゲリラ組織を助長する習性でもあるのだ。

 学校におけるイジメにおいても、統率協調的にイジメに加担し、率先してイジメを促す側に迎合しておいた方が、仲間意識(無意識)による気分的安心満足を獲得することが出来るために、生物学的生存には適することにはなる。そこに文系観念による事後正当化的こじつけを行っても、それは言い逃れや取り繕い以上の意味は存在しえない。

 イジメの結果に何らかの意味を後からこじつけても、そこから合理性のある理論的社会安全性や持続可能性を導き出すことは原理的に不可能であり。「イジメられて強くなる。」などという話は文系観念的大衆特有な無能さを正当化するための短絡的言い逃れに過ぎない。イジメを止めることの出来ない自発的意思の弱さ/精神的虚弱こそがイジメを助長するのであって、こうした精神的弱さ/自律の欠落こそが東電幹部などにおける組織的マインドセットをも作り出す原因でもある。

 組織依存のマインドセットというものは、その組織を構成する個人のマインドセットであって、組織腐敗の原因とはあくまで組織を構成する個人の意識の欠落によって作り出されるものなのである。それを組織制度システムや法的規制だけに原因と規定することは、根源的な原因であるヒトに普遍的に見られる行動習性の「結果」の無意識性を無視した身勝手な決め付けに過ぎない。

 問題の原因究明や再発防止策の確立というものは、人間としての社会的責任としての社会持続可能性や安全性を「目的。」としたものである。「航空機や原発だけ安全なら工学として満足。」というのであれば、これは工学者の傲慢な思考停止である。社会安全性に関わることというのは社会的要請として最も優先されるものであり、かつ徹底的な原因究明を行わなければならない。航空機事故や原発事故によって組織的な腐敗のプロセス構造は抽出することも可能なはずであって、それを「工学の範疇ではない。」と称して黙殺することは学者として傲慢である。

 人間性を持たない学者が、どんなに特定の能力の優秀さを立証しても、人間としては出来損ないと言わざるを得ない。

 気分的満足による思考停止こそが、ヒトから論理検証性を奪う根源的原因であり。あらゆるヒトの危険性を放置する原因でもある。

 考えが成立してなきゃ、ただのバカだからな。

 大抵の場合感情的怠慢によってバカを正当化する屁理屈だけしか頭が働かない。

 むしろ考えを停止させることを正当化するための言い訳なら異常に頭が働く癖に、肝心な論理検証は拒絶するのである。

 バカ相手に説明していると吐き気がする。おいらはサルトルではない。

 自分が思い描いている事柄が、従来の固定観念的マインドセットの事後正当化のための言い逃れであるかどうか自体に論理検証が及ばないと、本質的には「考え」たことにはならないのである。

 本論を読んでいると洗脳されるような気分に陥るらしいのだが、本当の洗脳状態では洗脳されている自覚は生じないのである。だからヒトは簡単に洗脳に陥るが、脱洗脳は拒絶するのである。

 本意識論というのは脱洗脳、脱構築可能性を論じているのであって、洗脳だのマインドセットといった構築「された」無意識からの脱出「する」ための思考として論じているのである。


 イジメなどと言うのは、集団依存のマインドセットの結果以外の何物でもない。「どうせ自分一人では何も変えられない。」という思考停止の満足を促す論理的根拠のない観念によって、ヒトは無為無策に簡単に陥ることが出来る。

 イジメという洗脳状態による学校荒廃は、子供個人による意図的目的によって作り出されるものではなく。多数の子供達個人に自発的目的意識が存在しない「結果」である。子供個人自身に意識的で論理検証的な目的意識による行動選択が行われていれば、イジメなどというバカげた集団洗脳状態から脱することは、実は簡単なのである。

 子供は環境に左右されやすいものでもある。シンガポールにはイジメはないというし、オランダの場合はイジメをどうしたら抑止できるか子供自身にディスカッションさせるそうである。

 合理的に考えればイジメなどというものは意味がない動物的行動習性の結果に無意識に流されているだけのバカが行う行為であると認識することは、理論的には簡単である。

 しかし、無意識的観念を事後正当化するヒステリックな拒絶反応によって、ヒトの多くは簡単に思考停止に陥るために、無意識な行動習性の「結果」にしか至ることが出来なくなっているのである。

 もし、イジメを率先して行った首謀者が警察の査察によって特定されれば、その子供は世間的バッシングによって、いうなれば世間的排除差別というイジメを受けることに陥るであろう。それでイジメ自体が社会からなくなると思ったら大間違いである。

 イジメられる方が不特定であるのと同様、実はイジメを率先した首謀者自身も、教室という環境下における結果に過ぎず、当人には何の意図意識も存在しないのである。

 当人に意図意識が存在しないことこそが問題の根源なのであるが、子供の場合は大人が子供の自発的思考意欲を奪っていることが、一種の「連鎖」として行われているのである。

 クソゲーだのイジメだのといった無意味なことに執着するというのは、要するに脳がヒマなのである。自発的に物事を考える能力を失ったバカが、シーケンシャルに無意識に陥るのがクソゲーだのイジメなのである。

 イジメによる仲間意識の共感性、言い換えれば強迫観念的「絆。」というものは。そのまま振り込め詐欺集団の組織的統率性や協調性の原因にも成り得るものでもある。

 あらゆる能力、力といったものを、一体何に用いるのかを選択するのが意識であり、本質的自発性を持った意思である。

 他人を思いやることも、集団の利益だけしか追究しないことも、ヒトの行動の全ては感情によって促されるものであって。理性自体は人畜無害なただの論理性でしかないのである。

 しかし、論理性に基づいて自分の情動行動を選択しなければ、それはヒトの大脳新皮質の容量の大きさが持つ優位性を全く使っていないということでもあり。単なる下等動物と同じなのである。

 憐れなサルの集団に迎合して満足か、それとも自律的に人間としての選択をするか、それは個人の意識次第である。

 多数が意識的に行動選択していれば、無意識的暴走というものに陥る可能性は下がる。だが、多数が無意識的に行動習性に流されていれば、何ら目的のない暴走に陥る以外に、そもそも選択自体が伴わない。

 イジメはなくならないかも知れないが、それを言うなら重大事故だろうが組織腐敗だろうがなくならないことに変わりはない。必要なのは「減らそう。」という個人の意思である。

 誰が言ったか忘れたが、「一人の力は微力だが、無力ではない。」のである。むしろ微力を結集することによって大きな力は発揮されるのである。

 「大きな力。」を一体何に用いるか、その意識的選択を介さないから暴走に陥るのである。無意識な行動であっても個人の力に違いはないのである。感情的ヒステリックな強弁に対して、ヒトの多くは気分的に面倒臭いので諦めて「観念」してしまう性質がある。その「諦め。」こそが組織依存のマインドセット、思い込みの根源なのである。

 本当の無力とは、自己の微力を行使する意思を忘れることである。

 自己の微力を忘れ、多数や権威の力に依存するから自律が失われるのである。それを「甘え」と言う。

 ヒトは哺乳類であるから「甘え」ていた方が気分的に安心であり、こうした本能的社会形成習性に流されているから社会から安全性が失われることに陥るのである。

 組織依存のマインドセットというものは、ヒトの習性的「甘え」によって作り出されるものなのである。


Ende;

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。