○心。
他人を気遣う「心。」とは、単なる本能的情動を指すものではない。
他人を気遣う「心。」が失われるのは、多数世間における外見的な評価に意識を奪われ、他人を気遣うだけの精神的余裕が失われているためである。
ヒトには他人を気遣う本能的性質/習性も組み込まれてはいる。しかし、同時に他人を蔑ろにしてまで多数他人からの外見的評価を求めようとする本能的性質/習性も組み込まれており、これらの本能を単なる感情のバイアスだけで無意識に選択している限りは環境や先天的傾向に左右され、本質的には「自己自身の意識的選択。」にはならない。
日本の学校では、「個人の能力向上ばかりが要求され、他人を気遣うことが求められていないからイジメが発生する。」という説があるが、そうではない。
同じ教育を受けていても他人を気遣う人と、そうでないヒトに分かれるからである。
多数他人からの外見的評価ばかりを求めるヒトは他人を気遣う精神的余裕がなく、自発的に社会的責任判断も行わない。多数他人からの外見的評価自体が本質的には主体的で自発的行動動機ではなく、あくまで多数他人という環境依存的な「結果。」的基準でしかない。
それを無意識に鵜呑みにするか、そうでないかによってヒトは単なる動物的ヒトか人間かに分かれる。
他人を気遣う行動も本能である、従って「大人から求められていない。」からやらないというのは本質的な自発的行動選択を無視した話である。
「教えられていないことは、出来ない。」「教えられたことしか出来ない。」というのは、本質的な知能自体が存在していないことの論証である。
どうするべきか、それを自発的主体的に選択することによって、目先の利己的欲望に流されることなく自律的に社会的責任選択をおこなうようになるのである。それが出来ないのは本質的な「意思。」自体が最初から欠落しているためである。
世界全体を見渡し、統合的な「目的。」意識に基づいた徹底した合理性追究を行えば、自ずと社会的責任判断は可能となる。
カントが糾弾しようとしていた「純粋理性。」とは実際には理性そのものではなく、利己的本能欲望が根源の理性的行動選択のことであって。本質的合理性の追究こそが人間性を持った「心。」を作り出すのである。
これを文系観念者達は理論的理解も検証もせずに、観念的拒絶反応によって漫然と疑い続けるのである。理論的検証による批判精神を持つことは重要であるが、観念的拒絶反応による漫然とした疑念というものはマインドセット(思い込み、偏った常識)に過ぎない。
Ende;