挨拶とは何か。挨拶をすると気分的に「安心。」だから行うのである。それは逆にいえば挨拶をしないと気分的に「不安。」であるということでもある。
挨拶とは儀礼であり。形式である。つまり、表面的ものでしかない。
挨拶と人格性に関連はない。連続殺人犯の多くは挨拶などの表面的な儀礼はきちんとできるものであり。よく逮捕後に「まさか、あの人が。」といった意外性に驚く話は少なくない。
子供が元気に挨拶をすると、「元気があって、よろしい。」などと満足するオヤジがいるが。こんなものは大衆凡民の勝手な観念でしかない。大人の前でだけ調子よく挨拶をしておいて、影でコソコソ悪いことをしているクソガキを、私は幼少期にたくさん見ている。
私のような衝動殺人型の人間は挨拶がヘタクソである。別に挨拶をするなとは言わないが、挨拶の上手下手と人格とは無関係であるということが言いたいだけである。まあ、衝動殺人型の場合、やましい部分があると挨拶である程度雰囲気に出るので、見知らぬ人の場合に挨拶をしてみるのは防犯上有効ではある。だが、連続殺人型の場合はこの限りではない。
公共広告機構のTVCMとかで、挨拶を要求するような社会的雰囲気の強要に意味はない。挨拶などの形式的、儀礼的な行動に固執するのは、むしろ生物学的な社会形成習性に由来する本能的、感情的な強迫観念によるものに過ぎず。ヤクザや暴走族などのバカの集団ほど形式に対する要求が厳しいものなのである。
挨拶がどんなに上手でも、それと人格性、公益倫理的な自律判断力とは無関係である。
挨拶をしたいというのであれば、それは勝手である。しかし、挨拶をしたからといって、それによって安心したからといって、それが「安全。」であることの論理証明にはならないのである。
「人は、見た目が9割。」などという書籍が流行したが、ヒトの意識の9割は無意識であることに由来する結果論であり。単なる結果論自体をどんなに枚挙しても、それが意識的な目的行動としての正当性の論証にはなっていない。
むしろ、見た目だとか、個人的な好き嫌いに関わらず、言っている内容の論理的理解に基づく意識的な判断こそが重要なのであり。それがないから振り込め詐欺に引っ掛かるのである。
ヒトは動物であるため、どうしても行動判断に感情が優先してしまう傾向性がある。嫌いな人間の言うことを無視し、意識から外し、盲目になることで大脳辺縁系を満足させて思考停止に陥ることが気分的に「安心。」なのである。
カルト宗教の信者などに見られる「アスペクト盲。」などの盲目性は、こうした大脳辺縁系が促す情動行動、思考によって促されるのである。
こうした行動への「思考。」というのは、実際には「思い。」込みは存在するが。それが正しいのかどうかを「考え。」るための認識は開かれていない。
一度大脳辺縁系に刷り込み学習されてしまった固定観念、固定的価値観に基づいた行動以外を自律的に選択するためには。それらの観念、価値観が正しいのかどうかを判断するための客観性が必要不可欠であるが。大脳辺縁系が促す行動「学習。」結果というものからは、こうした客観的な視点というものは出てこないのである。
いわば、大脳新皮質を単なる無意識的行動を学習「された。」ストレージとしてしか使っておらず。行動の全てが大脳辺縁系によって刷り込まれた結果的好き嫌い以外に行動選択をすることが一切できなくなってしまうのである。
大脳新皮質が、大脳辺縁系の奴隷、外部記憶としてしか使われていないのである。一度こうしたスパイラルに陥ると、もはや新しい認識など存在しないも同然なので。あらゆる事実は意識の上から排除され、無視されてしまうのである。大脳容積の優位性というものは失われ、新たに学習「する。」ことができなくなってしまうのである。
新たに学習「する。」こと。それこそが認識を変化させ、目的行動のリフレッシュ、更新が可能となるのであるが。既に学習「された。」行動だけしか選択できないということは、機械的条件反射行動しかできないということである。前者が意識機能が働いている状態であり、後者が無意識だけの状態である。
鳥類のヒナなどに見られる「インプリンティング。」すなはち「刷り込み。」行動というものは、鳥の脳には最初から認識更新を行う機能がほとんどないことから、こうした行動を採るのである。
カンザシフウチョウの雌が、雄の踊りに夢中になって「酔う。」というのも。そこに目的意識などがあるのではなく、単に脳の古い領域に組み込まれた結果的行動のままに、機械的条件反射行動として組み込まれた行動結果でしかないのである。こうした無意味な行動の結果として生存に適さない場合に、現在の生物学は「進化の袋小路。」などと言い逃れをするのである。
本能的行動の結果として、それが生存につながれば「目的。」であると言い張り。一方生存につながらなければ「進化の袋小路。」と言い逃れをする。それが現在の生物学のこじつけである。
こんなご都合主義な言い逃ればかりしておいて、当人達はそれを科学的であると勘違いしている。何か統合失調症とかの精神疾患だとしか私には思えないのだが。東大の佐倉統(さくら おさむ)などは、「学界内部で大勢を占めていない。」などという多数決を持ち出すだけで、一切論理的検証も、また、何らかの反証も持ち出さない。こんな無能で怠慢なバカが東大で教授をやっているくらいであるから、そこからは何ら新しい発見も、また、間違いに気付くわけもないのである。東大というのはこういうバカが集団で年功序列体制維持を行っているだけであり。こうした年功序列体制の原因というものは、集団を形成する個人が体制に迎合することによる保身感情しか働いていないからである。
これは体制内部にとっては確かに「利己的。」ではないだろうが。社会全体から見れば極めて利己的な保身行動なのである。
特定の体制内部において利己的でなくとも、体制維持だけを目的とした体制自体の利己主義を振り回すのは、社会全体からみれば充分利己的なのである。(理解してる?。)
養老とかが言っている集団主義、共同体主義というのは。こうした特定体制内部における利己性を正当化するための屁理屈なのである。ナショナリズムの根本的欠陥というのは、共同体内部に対する迎合性を、あたかも普遍的な意識の広さであるかのようにすり替える部分である。
「地球の裏側の人間が何を考えているかなど、私の知ったことではない。」などと言いながら、「共同体と、心を一つにしないのは。心の狭い態度です。」などという意識狭窄性全開なことを言い出すのは、明らかに養老の脳がイカれているからに他ならない。
占い師が「他人の言うことを信じないのは、心の狭い人間だからです。」などと言い張るのと同じことであり。自分に都合の良いことだけを信じ込ませるための詭弁でしかなく。こうしたペテンの手法を養老は取り入れているのである。
論理的に考えられる者であれば、養老に対して「お前の言うことは、わからん。」の一言で一蹴するが。そうでない大衆は簡単に丸め込まれるのである。この「大衆。」の中に東大生物学部が含まれていることが大問題なのである。
少しは理解出来たか、このボンクラ共め。(またそういうことをいうー。)
挨拶とは儀礼であり。形式である。つまり、表面的ものでしかない。
挨拶と人格性に関連はない。連続殺人犯の多くは挨拶などの表面的な儀礼はきちんとできるものであり。よく逮捕後に「まさか、あの人が。」といった意外性に驚く話は少なくない。
子供が元気に挨拶をすると、「元気があって、よろしい。」などと満足するオヤジがいるが。こんなものは大衆凡民の勝手な観念でしかない。大人の前でだけ調子よく挨拶をしておいて、影でコソコソ悪いことをしているクソガキを、私は幼少期にたくさん見ている。
私のような衝動殺人型の人間は挨拶がヘタクソである。別に挨拶をするなとは言わないが、挨拶の上手下手と人格とは無関係であるということが言いたいだけである。まあ、衝動殺人型の場合、やましい部分があると挨拶である程度雰囲気に出るので、見知らぬ人の場合に挨拶をしてみるのは防犯上有効ではある。だが、連続殺人型の場合はこの限りではない。
公共広告機構のTVCMとかで、挨拶を要求するような社会的雰囲気の強要に意味はない。挨拶などの形式的、儀礼的な行動に固執するのは、むしろ生物学的な社会形成習性に由来する本能的、感情的な強迫観念によるものに過ぎず。ヤクザや暴走族などのバカの集団ほど形式に対する要求が厳しいものなのである。
挨拶がどんなに上手でも、それと人格性、公益倫理的な自律判断力とは無関係である。
挨拶をしたいというのであれば、それは勝手である。しかし、挨拶をしたからといって、それによって安心したからといって、それが「安全。」であることの論理証明にはならないのである。
「人は、見た目が9割。」などという書籍が流行したが、ヒトの意識の9割は無意識であることに由来する結果論であり。単なる結果論自体をどんなに枚挙しても、それが意識的な目的行動としての正当性の論証にはなっていない。
むしろ、見た目だとか、個人的な好き嫌いに関わらず、言っている内容の論理的理解に基づく意識的な判断こそが重要なのであり。それがないから振り込め詐欺に引っ掛かるのである。
ヒトは動物であるため、どうしても行動判断に感情が優先してしまう傾向性がある。嫌いな人間の言うことを無視し、意識から外し、盲目になることで大脳辺縁系を満足させて思考停止に陥ることが気分的に「安心。」なのである。
カルト宗教の信者などに見られる「アスペクト盲。」などの盲目性は、こうした大脳辺縁系が促す情動行動、思考によって促されるのである。
こうした行動への「思考。」というのは、実際には「思い。」込みは存在するが。それが正しいのかどうかを「考え。」るための認識は開かれていない。
一度大脳辺縁系に刷り込み学習されてしまった固定観念、固定的価値観に基づいた行動以外を自律的に選択するためには。それらの観念、価値観が正しいのかどうかを判断するための客観性が必要不可欠であるが。大脳辺縁系が促す行動「学習。」結果というものからは、こうした客観的な視点というものは出てこないのである。
いわば、大脳新皮質を単なる無意識的行動を学習「された。」ストレージとしてしか使っておらず。行動の全てが大脳辺縁系によって刷り込まれた結果的好き嫌い以外に行動選択をすることが一切できなくなってしまうのである。
大脳新皮質が、大脳辺縁系の奴隷、外部記憶としてしか使われていないのである。一度こうしたスパイラルに陥ると、もはや新しい認識など存在しないも同然なので。あらゆる事実は意識の上から排除され、無視されてしまうのである。大脳容積の優位性というものは失われ、新たに学習「する。」ことができなくなってしまうのである。
新たに学習「する。」こと。それこそが認識を変化させ、目的行動のリフレッシュ、更新が可能となるのであるが。既に学習「された。」行動だけしか選択できないということは、機械的条件反射行動しかできないということである。前者が意識機能が働いている状態であり、後者が無意識だけの状態である。
鳥類のヒナなどに見られる「インプリンティング。」すなはち「刷り込み。」行動というものは、鳥の脳には最初から認識更新を行う機能がほとんどないことから、こうした行動を採るのである。
カンザシフウチョウの雌が、雄の踊りに夢中になって「酔う。」というのも。そこに目的意識などがあるのではなく、単に脳の古い領域に組み込まれた結果的行動のままに、機械的条件反射行動として組み込まれた行動結果でしかないのである。こうした無意味な行動の結果として生存に適さない場合に、現在の生物学は「進化の袋小路。」などと言い逃れをするのである。
本能的行動の結果として、それが生存につながれば「目的。」であると言い張り。一方生存につながらなければ「進化の袋小路。」と言い逃れをする。それが現在の生物学のこじつけである。
こんなご都合主義な言い逃ればかりしておいて、当人達はそれを科学的であると勘違いしている。何か統合失調症とかの精神疾患だとしか私には思えないのだが。東大の佐倉統(さくら おさむ)などは、「学界内部で大勢を占めていない。」などという多数決を持ち出すだけで、一切論理的検証も、また、何らかの反証も持ち出さない。こんな無能で怠慢なバカが東大で教授をやっているくらいであるから、そこからは何ら新しい発見も、また、間違いに気付くわけもないのである。東大というのはこういうバカが集団で年功序列体制維持を行っているだけであり。こうした年功序列体制の原因というものは、集団を形成する個人が体制に迎合することによる保身感情しか働いていないからである。
これは体制内部にとっては確かに「利己的。」ではないだろうが。社会全体から見れば極めて利己的な保身行動なのである。
特定の体制内部において利己的でなくとも、体制維持だけを目的とした体制自体の利己主義を振り回すのは、社会全体からみれば充分利己的なのである。(理解してる?。)
養老とかが言っている集団主義、共同体主義というのは。こうした特定体制内部における利己性を正当化するための屁理屈なのである。ナショナリズムの根本的欠陥というのは、共同体内部に対する迎合性を、あたかも普遍的な意識の広さであるかのようにすり替える部分である。
「地球の裏側の人間が何を考えているかなど、私の知ったことではない。」などと言いながら、「共同体と、心を一つにしないのは。心の狭い態度です。」などという意識狭窄性全開なことを言い出すのは、明らかに養老の脳がイカれているからに他ならない。
占い師が「他人の言うことを信じないのは、心の狭い人間だからです。」などと言い張るのと同じことであり。自分に都合の良いことだけを信じ込ませるための詭弁でしかなく。こうしたペテンの手法を養老は取り入れているのである。
論理的に考えられる者であれば、養老に対して「お前の言うことは、わからん。」の一言で一蹴するが。そうでない大衆は簡単に丸め込まれるのである。この「大衆。」の中に東大生物学部が含まれていることが大問題なのである。
少しは理解出来たか、このボンクラ共め。(またそういうことをいうー。)