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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

人肉。

2011年03月24日 14時59分57秒 | 意識論関連
 共食い云々の話になると、時折出てくるのがアンデス山中での航空機事故の話。

 でも、この事故の場合。食べられた人の同意の基に食べているので、これを共食いであるとするのはちょっとおかしい。

 チンパンジーとかの共食いの場合は、相手の同意なんぞ一切得てないし。極めて野蛮な動物の行動の結果なので。これをアンデス山中の状況と同列に扱うのは間違いだろう。

 おいらだって、致命傷を負ってしまって、もう自分は助からないとなれば。別に誰かに食べられても構わないって思う。それを野蛮だなんて一切思わない。ちょっと形式の異なる臓器移植だと思えば、別に野蛮だなんて結論にはならない。

 単に「人肉食。」云々だけを抽出して「共食い。」だなんていうのはおかしい。歌手のCoccoとかが、自分の子供が死んじゃったら、食って自分の血肉にして、ウンコにして出す。って言ってたけど、「死んじゃった。」のなら、それも間違いではないのかなって思う。そういう弔い形式もあるのかなって。だって、箱に詰めて燃やしちゃうとか、石の下に封じ込めることが残酷でないかどうかなんて、もはや個人の価値観の問題じゃん。幼い子供であるなら、母親のお腹に戻れるなら、それもまたその子供の幸福なのかも知れないって、おいらは思うのさ。

 葬儀の形式だって、いろいろあるでしょ。因習に囚われて墓石の下に封じ込められることが「正しい。」なんて言えないじゃない。おいらだったら散骨とかの方が潔くっていいなって思う。石の下に封じ込められるなんて、「俺は妖怪じゃねぇ。」って思うもの。

 幼女誘拐殺人犯の宮崎勤とかの野蛮な「共食い。」と、アンデス山中の事故と同列に語るのは間違い。別に食べたいから食べたんじゃなくて、他に生き残る手段がなくて、仕方なく食べたんだから。それを単に欲望のおもむくままに健康な少女を食っちゃったのと同じにはできないよ。

 おいらの意識論においては、「生存自体に意味はない。」って言ってるけど。それは例えば死んじゃった人から誰からも「食べていいよ。」っつう同意が得られていない場合は諦めろってことであって。何か人肉食であるということだけを論じるのは議論がトンチンカンな気がする。

 いわば物理的な「献身。」的行為は悪だって言っておいて、それじゃ原子炉冷却のために献身的に働いている消防士さんたちを評価するってのは、何かおかしいじゃない。「英雄だ。」って持ち上げておいてさえすれば、原子炉の暴走を止められるっつうのは。言うなれば消防士さん達を「食い物。」にしているのと同じじゃん。

 物理的に消防士さんの肉を食ってないから、それは良いことで。物理的に食ったから悪いことだなんて、なんか都合が良すぎる。おかしい。

 アンデス山中でヒトの肉を食べた人達のことを悪くいうのはおかしい。食べられた人からすれば、食べた人が元気に生き延びてくれることを願っていたんだから。それをいわば部外者でである他人がとやかく言うようなことではない。

 むしろ、彼らの悪口を言うっていうのは。自分の肉体を提供した人の意思に反する卑劣な言動だとさえ思う。そんなことのために提供したはずじゃないじゃんよ。提供した人がうかばれないよ。失礼だよ。違うか?。



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