○精神の怠慢。
ヒトは誰も自分自身の意思によってこの世に産まれて来た者はいない。
誰も自分自身の遺伝子を選択していない以上、自分自身の身体的性質傾向といったものは自分自身では選択不可能なものである。
自分自身の脳であっても自分自身では選択不可能であり、その脳から生ずるあらゆる本能欲望感情気分といったものもまた自己自身で選択不可能なものであり。個人による論理検証に基づく主体的選択を介していなければ、それは「意思」ですらない。
文系大衆観念者にこういった論証をすると、「自由意思などない。」などと短絡的に決め付けたがるが。これは文系観念者特有の論理検証思考放棄に他ならない。考えることが嫌いな者というのは観念的拒絶反応によって思考停止をするための屁理屈や論理的根拠のない決め付けをしないと気分的に不安に陥るため、極めて短絡的な最終解答を出したがるためである。
ヒトは誰も自分自身が産まれ育った社会や時代といった環境というものも選択することは出来ない。
従って、産まれ育った社会や時代といった環境によって動物行動学習的に刷り込み学習されたあらゆる固定観念もまた、自分自身の意思を介しおらず、これもまた「意思」ということは出来ない。
「超自我」的な強迫観念的精神抑圧としての集団規範意識だけを人間性として子供に刷り込み学習させようとする大人というのは、当人自身に自律的な社会的責任判断能力が欠如しているため、「自分に不可能なものは、他の誰にも出来ないものである。」という勝手な決め付けによって集団規範意識だけが人間性であると「思って」いるのである。
そもそも自分に不可能なことが他人に可能であることを認めることが気分的に嫌なため、意識から外し、無視し、「なかったこと。」にしておきたいという拒絶反応的思考バイアスが働いているのである。
ヒトの多くは自分の頭の悪さを認識することを拒絶したがるものであり、「自分だけは大丈夫。」などという論理的根拠のない勝手な思い込みによって自分の頭の悪さを放置するのである。
そうしておけば気分的に満足だからである。これを精神の怠慢というのである。
Ende;