○概ね。
結果的生存の結果として残され組み込まれることになった本能というものは、概ね生体にとって好ましい行動を促すということは言えるとしても、絶対に生体にとって好ましい結果しか導き出さないことの保証や論理的証明があるわけではない。
あくまで概ね生体にとって好ましい傾向性を導き出すとしても、傾向性という概ねの結果しか導き出すことはなく。絶対的に生体にとって好ましい行動結果だけを常に導き出すことの論理的証明も保証もないのである。
そもそも生存というもの自体が結果であって、生存という結果にさえ適した行動を選択していれば「学習だ。」「知能だ。」などというのは、結果に対する事後正当化のこじつけでしかない。
報酬系という本能が促す行動整理というものは、報酬系という気分感情によって作り出される先天的なシーケンスに過ぎず、個人の主体的意思目的とは無関係なものである。
本能が促す行動というものには、論理的根拠が伴うわけではなく、あくまで偶発的生存の結果として促される行動でしかない。論理的根拠に基づく行動選択をするのは気分感情に基づく固定観念やマインドセットや予め組み込まれたシーケンシャルな行動バイアスではなく、あくまで個人による主体的な論理検証によってもたらされるものであって、論理検証という個人の「考え」、本質的意識が必要不可欠である。
予め運命論的に決定しているシーケンスに流されていて、個人の個性とは言うことが出来ない。それは単なる個体差でしかなく、サルなどの動物にでも存在し、個人が個人であることの論証にもならない。
たとえどんなに高度な特定能力を獲得したとしても、それによってたとえ現状世間的に論理根拠も伴わぬ評価や報酬を受けているとしても、本質的には人間としての知能の論証には一切ならない。
文系大衆観念上においては、個人の世間的成功というものによってもたらされる名声だの報酬こそが人間の絶対的価値であると錯覚されがちであるが。これは合理的根拠がなく、単なる現状世間上での断片的評価に過ぎない。
クソゲープログラミングで金儲けが出来たからといって、そいつが自律的に社会的責任判断可能性を持ち合わせていることの論理的根拠には全くならないからである。ましてや振り込め詐欺師の金儲けなどむしろ非人間性の論証にしかならない。
大衆迎合によって占い師が世間的に金儲けに成功しても、何ら人間性としての価値の証明にはならない。
人間としての知能とは、自律的な合理性のある社会的責任判断能力であって、これなくして他のいかなる能力も人間としての知能とは言えないのである。人間としての知能なくして人間としての価値などあろうはずもない。
Ende;