路上に新品のニラが落ちてた
ネギとかニラとか長いものが新品の状態で路上に落ちているケースが結構ある
以前にも言ったんだけど エコバッグ的なものにネギポケット的なものがあれば落ちないんじゃないかと思うんだが
折角農家さんが丹精込めて育てたネギやニラを 路上のゴミにしてしまうのはあまりに忍びないので ナントカならんものかと思うのです
いや 別に特許的な権利をオイラは主張しないよ
他の奴はどうだか知らんけど
Ende;
路上に新品のニラが落ちてた
ネギとかニラとか長いものが新品の状態で路上に落ちているケースが結構ある
以前にも言ったんだけど エコバッグ的なものにネギポケット的なものがあれば落ちないんじゃないかと思うんだが
折角農家さんが丹精込めて育てたネギやニラを 路上のゴミにしてしまうのはあまりに忍びないので ナントカならんものかと思うのです
いや 別に特許的な権利をオイラは主張しないよ
他の奴はどうだか知らんけど
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イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が 本当は哲学でも何でもないカントの妄想ファンタジーに過ぎないことを理解しておらず 「道徳律」を鵜呑みにして道徳教育に何の疑問も持っていないバカが教師が 「ハズレ親なら論理科学的に分析すれば良い」などと言い出すのは支離滅裂である
バカというのは自己の頭の悪さを認識していないので 自分にとってその場限りに都合の良い話をこじつけて何かを論証したかのような満足に浸るというバカげたことを平気でやらかすものである
それはもう「教師ガチャ」の大ハズレである
もはやネット上で曝して良いレベルであろう
生徒が「親ガチャハズした」と言うのであれば それは生徒の親を分析する絶好のチャンスであり 生徒が親のどういった部分に不満を持っているのかを詳細に聞き出し 一緒になって「ハズレ親」とはどういったものなのか 論理客観的に分析する方法論を教えることも必要である
何にも論理客観的に分析判断できないバカ教師から「ハズレ親なら分析してみろ」などと言われても 意味がさっぱりわからない
生徒が「ハズレ親」だと認識している場合なら 親が主観的気分で子供に暴力を振るってくる可能性もあることを考えれば 生徒が親に対して持っている不満は親には内緒にしておく必要もある
そういった配慮も含めて生徒の声に耳を傾ける丁寧さが教育には必要なのであって 自分の頭の悪さを棚上げにして都合の良い話だけこじつけていたら生徒は社会に対する不信感や猜疑心ばかりを持つようになってしまい それは社会にとって重大な損失となる
教師も親も社会的責任を負わないバカだらけの中で育った生徒なら そりゃバカにしか育たないのは必然というものである
ただ生活のための金稼ぎで教師をやっているだけで 教育というものの社会的役割を理解していないバカ教師は多い
バカは形式だのマナーだの手続きばかりを押し付け それで気分的に安心満足するだけで 社会の何が問題なのか 教育の何が問題なのかを全く論理客観的に分析理解できていない
論理的に分析判断できていないバカ教師から 「ハズレ親なら分析してみろ」などと言われる筋合いはない
「目上は敬え」だの「家族が悲しむようなことをすべきではない」だのといった道徳の教科書を押し付けてくるようなバカを信用してはならない
誰がバカで 誰がバカではないのかを客観的に区別し 本当のことを言っている者を見つけ出す必要がある
真理とは 本当のことというのは 論理整合性があって 論理的齟齬がない話でなければならない
バカというのは徹底的にバカなので 本能のままにマウントかけて意味のわからぬ屁理屈を押し付けてくるものである
宮台真司のように生徒に対するヘイトスピーチみたいな論説をでっち上げ 大衆から人気を得ているバカも後を絶たないだろう
ヒトとはそういう「残念な生き物」であるという前提で 「自分はそういうバカにはなりたくない」という「意思」選択においてのみ人間性は宿るのである
それは絶望的で不条理な世界だが 安物の絶望に溺れてバカ同士で群れて暴力破壊や差別排除に邁進しても それは「バカの連鎖」にしかならず やっていることは結局バカな大人と一緒なのである
本当の「賢さ」とは 学力成績偏差値のことではなく 教えられた内容の 何が間違いで 何が正しいのかを論理客観的に区別判断できることである
偏差値が低いことを根拠に「自分はバカだから」などと卑下しても それは大人が勝手にでっちあげた「ストーリー」を鵜呑みにしているに過ぎない
ヒトは先天的にバカである
その頭の悪さをどうやって克服したら良いのかは 誰が考えても良い
科学的分析は職業科学者の専売特許ではなく 誰が行っても良い
天文学が天体の分類を一般の天文マニアにも手伝ってもらうように 本来哲学も開かれた議論が必要だが 現状の「哲学者」共は古典を鵜呑み盲信し 些末な枝葉を難解風味に語って煙に巻いているだけで 根本的な論理整合性の欠落を全く認識していない
多分 認識していても ごまかしはぐらかすことしかしないだろう
ごまかしておかなければ自分の頭の悪さを認めることになり失職する可能性が高い
国会原発事故調査委員会報告書において 事故の根本的原因として「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」だと結論づけている
これは あらゆる「人災」に共通して言える原因である
現状の教育というものはあまりにもシステム手続き化が進み過ぎており 教育そのものに対する批判も検証も全く行われない傾向が強い
組織が肥大化し システム化による効率化や手続き化が進み過ぎると 組織の剛直化を招き 問題が生じても改革することが困難になる性質がある
問題に直面した場合には すぐには問題が解決できないかもしれないが 問題点は大切に覚えておいて時間をかけて解決策を探る必要がある
先日亡くなった小柴昌俊氏も 「これは違うんじゃないかなと思ったことがあれば それは大事にとっておく必要がある」と述べていた
社会の問題点を指摘できても それがすぐに改善されるわけではない
なぜならヒトは先天的に人間として欠陥品だからである
重要なのは その欠陥に自分が冒されないことである
もちろん簡単ではないが 簡単なことなら誰でもできるのであって 難しいからこそやる価値がある
世間的評価を求めるのではなく 自分が感じた不条理や絶望を後世の子供たちに味合わせるべきではないという 主体的な強い「意思」に基づいて行動選択をしなければならない
それは主体性のないバカな大人から強制される筋合いのことではない
Ende;