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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

「なかったこと」にはならない

2020年11月09日 15時36分37秒 | 意識論関連

これからも「生き続ける理由」というものは

「何に命をかけるか」「どう死ぬか」と同義である

死ぬことから逆算して人生を考えないことには 目的意識として働かないからである

 

ヒトが生きることに執着するのは 「いままでずっと生きてきた」からに過ぎない

生きていることに安心しているからこそ 生きていないことに対する恐怖も感じるのである

麻薬中毒などの原因となるドーパミンによる常習性というものは 動物の本能的行動習性の根幹を成すものであるが それはあくまで進化の「結果」に過ぎないために 時に暴走破綻への原因となることもある

先天的な習性というものは 進化の過程において生存にとって必然的な「結果」ではあるものの 社会持続可能性や安全性にとっての合理的な「目的」に適するわけではない

死を考えると 反射的に恐怖が先立ってしまいがちだが 子供のことを考えればどうしたって子供を残して親が先に死ななざるを得ないのであって

社会持続可能性なくして安心して死ぬことも出来ないのである

たとえ幼い子供がいるのに病気で余命幾ばくもないとしても 社会(他者)が代わりに子供を守ってくれるのであれば安心して死ぬこともできるのである

病気にならなくても 事故で突然亡くなることもある

人が社会の中で生きていゆく上においては 社会(他者)との助け合いなくして「人間社会」とは言えないのである

イヌの一種は共同で子育てと狩りを分担するものがいるという

一方でペンギンやライオンは他者の子供は平気で殺すのである

先天的本能習性がどうあれ 自分達の社会がどうあるべきかを主体的に「選択」することができるからこその「意識」であり「知性」なのである

ヒトという種の生物は 過酷な自然環境から逃れて文明社会を構築することによって 淘汰圧力からも免れたため 遺伝的な進化をしなくなった

そのため 先天的な行動バイアス習性も多様化はするものの 特定の傾向性への収斂収束はしなくなり 先天的に誰の子供でも大切にしようとする人もいれば 自分の子供だけしか守ろうとしない人もおり 更には子供自体を全く興味を持たない人もいて 多様性が非常に拡大することになった

でも それは「結果」であって 社会にとって何が重要なのかは「目的」意識的に選択することは可能である

自分がどのように育てられたかったのか どう育てられるべきだったのかを 論理客観的に検証し 最適な選択を行うことは可能である

誰も虐待されて育ちたいと思っている奴はいないし 何も考えられないバカになりたいとも思っている奴もいないだろう

それなら 子供をどう扱うべきなのかは自ずから決まってくるのである

「人間」としての観点からは むしろ選択の余地など最初からないのである

 


「洗脳か 洗脳ではないのか」とか

「傲慢なのか そうではないのか」を見極めるために必要なのは論理客観性である

「本当に洗脳ではないのか」 「本当に傲慢なのは誰なのか」を見極めるためには 論理客観的に検証し考えなければ見極め 区別することはできない

 

本論は「これさえやっときゃ全ては解決」みたいな安易な方法論は提供しない

各々個人が普通に信じ込んでいる「常識」に 本当に論理客観的な根拠が存在しているのかどうかを 本人が主体的に検証していただくための本質的な「意識」とは何かを論じているに過ぎない

私が挙げた事例は あくまで一例に過ぎず 失敗例を参考にして自分自身が陥っている頭の悪さを理解し 認識することによってバカに陥らないようにして頂くことこそが重要なのであって 養老孟司や松沢哲郎が嘘つきだと教えられたからといって養老孟司らを悪者として排除差別しても 教えられるまで信じて疑わなかった頭の悪さを「なかったこと」には出来ないのである

 

 

Ende;


スッタクレ

2020年11月09日 13時27分52秒 | 意識論関連

ヒトの多くは自分で自律的に物事を論理客観的に検証し 「その話には根拠があるのか?」どうかを考えずに 主観的に「好き」な相手が言っている「面白い」話や「楽しい」話に同調して満足する

文学芸術やスポーツなどの分野であれば そもそも主観の世界なので論理客観性など不要だが

科学や哲学といった分野では論理客観的検証を抜きにしたらオカルトにしかならない

 

科学や哲学の社会的役割とは 論理客観的な根拠に基づいて「真理(本当のこと)」が何かを見極めることによって 持続可能性や効率を高め 社会の安全性に寄与することである

理性とか効率といった言葉を用いると 大衆の多くは「経済効率」などと称して「利己的金儲けの効率」と結びつけ あたかも冷徹な人間性を欠いた機械的な判断だと勝手に妄想して怖がるが

これこそが論理客観的根拠を欠いた大衆観念というものである

そもそも「経済」とは 「経世済民(世を経て民を救済する)」ことを意味(目的)とするものであって 経済性を短絡的に利己的金儲けに結びつけたのはアダム:スミスの「見えざる神の手」などという根拠のない神話に基づく大衆観念妄想によるものである

 

安全性の話をするためには 危険性の話を避けて通ることは出来ない

航空機の安全性を論ずる時に事故の事例を避けていたのでは安全性の話には全くならないからである

安全性を優先しなければ 人間性も倫理も一切成立することはないのである

大衆の多くは 主観的に安心満足さえして「優しい気持ち」にでもなっておけば人間性か何かだと勝手に勘違いしたがるが それは自分の主観的感覚を絶対的なものだと勝手に勘違いしている傲慢さに他ならない

犯罪や事故が起きた際に 被害者の感情に同調して加害者への厳罰化でも主張しておけば「私は被害者のお気持ちがわかる心優しい人間なんだわ」とでも勝手に妄想して満足するのは簡単である

だが 被害者が深い考えに基づいて「再発防止を優先して欲しい」と主張しても この主張の真意を汲み取って理解する者はほとんどいない

薄っぺらな浅い主観的観念で感情的に「こんな奴は死刑にしちまぇ!」とでも主張し 多数派で同調しておけば安心満足して何も考えなくなるのである

私であっても迷惑な糞DQNに遭遇すれば「死ねよコイツ」としか「思わ」ないが それはその場限りの個人的な主観的感想に過ぎないことを私は理解している

糞DQNなり通り魔やテロリストを死刑にしておけば糞DQNや通り魔事件の類いがなくなるかと言えば 客観的に考えれば「なくなる根拠」が何もないのである

「俺のような奴は死刑になったらええんじゃぁ!」などと自暴自棄になっている通り魔を お望み通りに死刑にしても それは抑止力には全くならないばかりか 自暴自棄になった奴が「通り魔事件でも起こせば死刑にしてもらえる」とばかりに助長してしまう可能性の方が高い

社会の持続可能性や安全性を配慮せずに 自分だけ持続可能性や安全性を求めていたら それは利己的としか言いようがない

自己がこれからも生き続けるに価する社会とはどのようなものであるのかに配慮してこそ人間性や倫理として働くのである

利己的な利益をどんなに追求しても 最終的に誰もが必ず死ぬのであって これは不可避である

「どのように生きるのか」というのは「どのように死ぬのか」と同義であって 目先の「利己的に生存にとって有利な行動」を追求しても それが本当に自分の人生にとって最も優先されるべきものだとは言えないのである

ところが ヒトという種の生物は 目先の「他人との競争(勝ち負け)」に囚われ 個人の存在としての尊厳よりも 目先の他人との比較にばかり意識を奪われ 物質的な欲望ばかりを追求してしまうことで 簡単に倫理も尊厳も見失ってしまうのである

金儲けに成功して資産を増やせば「勝ち組」だと衆生は満足する

物的人的な社会資源を浪費して金儲けすることは そんなに難しいことではない だからこそブラック企業が後を絶たないのである

汚いことをして金儲けをするのはバカでもできる

むしろ バカだからこそ汚いことで金儲けをするのである

しかし どんなに物質的な豊かさを追求しても 汚いことで儲けたことによる深層心理の良心の痛みによって ヒトは本当の満足を得ることにはならないため 結局は薬物に手を出したり 酒に溺れたりして破綻するのである

「悪銭身につかず」と言われるが これは「悪いことで儲けた金は 自らの悪行を紛らわすために浪費しなければならなくなる」という ヒトの性(習性)によるものである

世間の多数派が競う価値観に踊らされ 他人との比較による勝ち負け競争に邁進した結果 人間としての尊厳を忘れ 人間としての「目的」意識もないまま暴走した末路は全て地獄である

幼少期から学力競争に「勝って」きたことで誉められ その安易な満足にそそのかされて学力成績ばかりを追求しても むしろ「学力成績=知能」という大衆観念を鵜呑みにしていた頭の悪さには気付かず 教えられた内容に間違いがあっても誰も気付かないという頭の悪さを発揮するばかりである

養老孟司やマルクス:ガブリエル マイケル:サンデル リチャード:ドーキンス 挙げたらキリがないが 論理客観的根拠のない嘘や誤謬(間違い)を誰も指摘できなかったのは 学力が高いだけで自分自身では何も「考え」ないバカしか大量生産してこなかったからである

茂木健一郎のように「これが脳に良い あれが脳に良い」と根拠もない嘘を陳列しておけば 「人気脳科学者」という薄っぺらな権威性を鵜呑みにした衆愚からの人気だけは得られるであろうが こうした嘘を批判したり反論したりするの「脳科学者」が一人もいないのというのは学界全体が茂木同様のペテン師の集まりであることの証明でもある

 

個人的な好き嫌いがあるのは構わないが 個人的な好き嫌いを社会的安全性や倫理に結びつけてしまったのでは無責任も甚だしい

茂木健一郎の嘘が見抜けないバカなら 振り込め詐欺にも簡単にカモられるであろう

個人的にカモられている分には自己責任の範疇であろうが 集団でカモられていることに気付かず多数で嘘を鵜呑みにしていることによって嘘が蔓延して社会安全性を損なうリスクに配慮しなくても良い理由にはならない

 

リチャード:ドーキンスは 「ヒトという種の生物は進化の過程で人間性を獲得した可能性がある」という予想を立てたが これには科学的根拠はなく あるのは大衆人気だけである

大衆の多くは「自分(ヒトという種の生物)には先天的に人間性が組み込まれた優秀な生物なんだ」という科学的には何の根拠もない妄想観念を与えてしまえば主観的に満足し 安心して鵜呑みにして何も考えなくなる

遺伝的進化というものは あくまで「結果的に死ななかった個体種の形質や習性」への収束であって 偶発的変異と淘汰圧力による「結果」以上の何も介在する力学はない

死にさえしなければ寄生生物であろうと托卵であろうと 凶暴であろうが何だろうが「生存」であり それを「生物」と分類しているに過ぎず そこに選択可能な目的や意図や戦略や合理性があるわけではない

あくまで「生存にとって必然的」だった個体種への淘汰に過ぎず 騙し合いであろうが殺し合いであろうが結果的に絶滅していなければ「生物」なのである

一面的な統率的協調行動の結果が 集団組織内部にとって利他的に働いたとしても それだけで人間性や倫理の論証には全くならない

統率的協調行動というものは差別排除や暴力集団の暴走においても働く習性であって ドーキンスのお伽話というのは大衆ウケの良いこじつけ論証に過ぎないのである

それが40年もの間 大衆から人気を得ているとしても それが社会安全性や持続可能性にとって何かの応用性があるわけではない

バカな衆愚が読んで満足して安心して「好き」になっているだけなのである

個人的な好き嫌いを持つのは勝手だが 個人の主観的好き嫌いを 論理客観的根拠に基づく科学的論証か何かと錯覚して気付かないというのは あまりにバカすぎて社会的に無責任である

バカであることをイノセント(無害)だと思っていることもまた錯覚である

「平均的で多数派に属している」ことが「正常」であることの論証にもならないし 「学力偏差値が高いことが頭が良い」ことの論証にもならない

多数派に迎合することへの主観的安心感は 同時に多数派への批判に対する観念的恐怖心や猜疑心も醸成することによって 多数派の間違いに気づいたとしても傍観放置しておいた方が個人的には安心ではあるが それによって社会安全性が損なわれることによる被害が自分に及んでも文句を言う権利も失うのである

法的権利ではなく 無責任であったことの罪に違いはないのである

 

たかが精々100年程度の生存において 自己が存在した「意味」というものを 他者との比較競争などという時代や社会環境に依存した価値観だけに浪費するのか

それとも社会全体にとって重要な安全性や持続可能性への配慮に費やすのか

その「選択」にこそ人間性や尊厳が介在するのである

何も選択せずに本能習性のままに無意識に流されていて 人間性も倫理もスッタクレもないのである

 

 

Ende;