規範意識を人間性や倫理と結びつけるのはトンデモナイ大間違いである
規範意識というのは無意識であり行動バイアスに過ぎず 間違った規範意識を植え付けられることでユダヤ人絶滅計画や毒ガステロにも疑いを一切持たない暴走を引き起こす原因でもある
太平洋戦争時の無謀なインパール作戦や特攻といったものも規範意識という無意識的条件反射行動バイアスが引き起こしたものであり
そもそも左脳に領野として特定可能な時点で条件反射的無意識であることの証明でもある
また 言語というものを理性と短絡的に解釈するのも大間違いで オカルト観念や詐欺であろうとも言語を用いていることに違いはない
真偽を判断するのは言語そのものではなく 客観的論理検証性である
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理性か感情か そのどちらか一方に人間性や倫理が働いているわけではなく あくまで理性が感情を制御している状態にこそ人間性が宿るのである
大脳辺縁系を損傷した患者が何も決められないからといって いきなり「理性は悪だ」などと決めつけるのはバカの発想である
理性 すなはち論理思考というものは人畜無害なものであって 大脳辺縁系を損傷した患者は意思決定が困難ではあるものの 決して人間性自体に問題を生ずるものではない
人間性に問題を生ずるのはむしろ理性の欠如であり フィニアス:ゲイジを例に挙げるまでもなく理性こそが人間性の形成に重要な役割を果たすことに間違いはない
感情というものは動物的な無意識条件反射行動バイアスを作り出すものであり ユダヤ人絶滅計画や無謀な特攻作戦というものは規範意識という実証不能の観念によって生み出されたものでもある
感情というものは環境によって左右される性質があり これを利用したのが振り込め詐欺などの特殊詐欺(もはや一般化しているので「特殊」ではないが)である
恐怖心や損得感情(勘定)を用いて相手の思考を都合よくコントロールすることによって大金を振り込ませたりキャッシュカードの暗証番号を聞き出したりすることができるのである
「勘定」という「数値計算」が入ると理性だと勘違いしがちだが 高所恐怖症の人がエレベーターの階数表示だけで恐怖を感じるのと同様 特定の数値計算自体は理性ではなく むしろ数字に対する感情や観念に過ぎない
組織の利益(損得)を優先して社会的な責任を後回しにすることは決して「理性」ではないのである
感情というものは環境依存性があり 規範意識というものも感情に直結しているが故にナチス政権下などの「環境」に左右されてしまうのである
人間性や倫理というものは 自己が置かれた「環境」に左右されずに「自律的に社会的責任を負う」ことを指すのであって これに必要なのは自己の規範意識をも疑う客観的な論理検証性(理性)が必要不可欠である
「東電社内の風土の中では原発の津波に対する脆弱性を放置してしまうのもやむなし」というのでは人間性も倫理もスッタクレもあったものではない
「風土」だの「空気」だの「体質」に迎合するというのは規範意識による恐怖心であって 規範意識というのは主観的感情と直結しているものである
規範意識を徹底してもイジメがなくならないのは イジメそのものを自覚する意識が働いておらず 主観的には「怖くない」のが原因である
怖いか怖くないかといった主観的感情によって行動が決定している状態こそが無意識であり 機械手続き的条件反射行動なのである
ナチズムの勃興や無謀な特攻に多くの国民が邁進してしまったのは「目先の多数派に同調迎合しなければならない」という観念(非合理な規範意識)こそが原因である
シンドラーや杉原千畝によるユダヤ人救出というのは自律的判断によるものであって 決して規範意識のような迎合性が作り出した行動ではない
ノーベル賞受賞者の野依良治(理研理事)は「主観が重要」と述べたが これは著しい間違いである
野依良治が「主観が重要」と述べた際には怒りの感情が伴っており 冷静さを欠いた短絡的判断に陥っていると言える
これは振り込め詐欺に騙されている被害者の状況と同じで 怒りなどの特定の感情を伴うことによって冷静な論理検証が阻害され 論理的根拠を伴わぬ間違った判断に陥る典型である
野依良治は有機化学が専門であって脳生理学や心理学や哲学については素人同然であろう
将棋棋士の羽生善治の直感が将棋の対戦において直感が有利に働くからといって 何でもかんでも直感(主観)が重要だと解釈するのは痴呆老人の発想である
主観というものは あくまで動物的な行動バイアスを生み出すものであって 祖先が生存にとって有利な行動を採った「結果」に過ぎず そこに合理性のある「目的」が存在するわけではない
私は「哺乳類の一種として赤ん坊が丸焦げにされることが最も耐えられない」と述べたことはあるが これはあくまで私個人の主観であって 私個人の主観は決して常に必ずしも人間性や倫理が伴うものではなく バカな哲学者や生物学者相手にクソしょうもない説明を続けさせられてウンザリして「お前ら死ね」と思っていることも また私の主観である
バカな痴呆老人達やマスコミ大衆相手に懇切丁寧に噛んで含めるよう説明を尽くすことは 主観的にはバカらしく 終わりが見えない絶望的なものである
だからといって説明をやめないのは社会安全性にとって重要であるという理性(客観)に基づく行動判断であり 「バカらしい」という個人的主観には意味がないことを私は理解認識しているからである
「善悪の判断が主観や感情の方にある」などと述べているバカ共が後を絶たないが これもまた一種の「失敗例」であって そのメカニズム構造を分析することによって同じ間違いを繰り返さないようにすることの方が人類全体にとっては重要な財産となる
それはとても面倒臭いややこしい事であるが 面倒でややこしいことをしないからこそ 同じような失敗が何度も繰り返すのである
「理解できないバカは殺してしまえ」と短絡的に「最終解決」することの方が気分的には楽であり 満足感を簡単に得ることができるのだが それこそがヒトという種の生物の先天的な「人間としての欠陥」なのである
相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺の植松聖のようなバカ相手に懇切丁寧にどこが間違っているのかを説明説得して 果たして植松が自分の何が間違っていたのかを理解出来るとは「思え」ないが 死刑にしたからといって同じような不条理な虐殺事件への再発防止には全くならない
本論(意識論)の目的は 意識の本質とは何かを認識理解することであり 何が無意識なのかを理解することによって本質的な人間としての意識を知ることが出来るのである
東大の哲学教授だの ノーベル賞受賞者といった権威の多数派が「主観が人間性を作り出す」と述べているからといって それが短絡的に科学的論証になるわけではない
科学は多数決ではないのである
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