理性が働かなければ生じない感覚というものがあって
理性が働かなくなる原因は感覚の欠陥(錯覚)にある
主観的感覚というもの全体を統合的 客観的 俯瞰的に検証する理性に基づいた感覚というものがあり
これもまた主観ではあるのだが その主観にはあくまで論理的客観性が伴う必要性がある
利己的な保身のために組織に迎合することで原発の津波に対する脆弱性は放置されたわけだが これを文化系大衆観念的には「理性」だと解釈し
一方 社会全体の安全性に配慮することは「感覚」だと解釈する
「社会全体の安全性に配慮」している時点で自己客観性が働いているのであって これは「理性が感覚を制御している状態」であり
利己的な保身のために組織に迎合することというのは 利己という本能的欲望に基づいた「理性的判断」に過ぎない
どちらの状態にも理性はあり 感覚も存在しているのだが どちらが優位にあるかで行動は180度異なる
どんなに利己的利益を追求しても 自分や子孫がこれからも生活してゆく社会の安全性が脅かされてしまっては意味がないことに気づけば 利己よりも社会安全性を優先する「感覚」も芽生えるのだが こうした公益的な感覚というものは客観的論理検証性が充分に働いていなければ生ずることはなく
目先の欲望や感情に基づいた「感覚」だけでは人間性や倫理性は発揮されることはない
チンパンジーに倫理を問えないのは チンパンジーの脳には客観的論理検証性など存在していないからである
それなら言語が扱えるゴリラなら客観性が働くかと言えば 手話を用いるゴリラは幼少期から育ての親である研究者に対して観念的恐怖心による服従性を発揮しているだけであって ゴリラ自身が自律的主体的に客観的論理検証を行っているわけではない
社会が崩壊することに対しての「感覚」と 目先の欲望を満たすための「感覚」の どちらを優先するのかを分けるのが客観的論理検証性である
だから私は「理性が大事」って言ってるんだが 同じ「感覚」という言葉を都合良く用いることによって論理検証の苦手な大衆マスコミを騙すのは そう難しいことではないらしい
「〇〇意識」と呼ばれるもののほぼ100%は無意識的行動バイアスを意味するものであるが 養老孟司のように「そうした意識が」などという言い回しを用いることで あたかも「意識には意味がない」かのような錯覚を促すことも簡単である
「そうした意識」とは 一体「どういう意識」なのかを検証する客観的論理性が働かないから 養老の嘘でも簡単に鵜呑みに出来るのである
要するに言葉のレトリックを用いた単純な嘘に過ぎないのだが 文化系大衆マスコミの大多数には それを嘘だと認識する理性はなく 養老の言葉に惑わされて「意識には意味がなく 感覚の方に意味があるんだな」という錯覚によって嘘を嘘だと認識出来なくなるのである
フリードリヒ:ニーチェによる「信念は真理の敵」などという決めつけも ある一面的な側面だけを抽出して「信念の全ては真理の敵」であるかのような錯覚を促しているに過ぎない
信念なくして真理もヘッタクレもありゃしないのに 論理的根拠に乏しい身勝手な実証不能の観念に基づいた大多数の「バカの信念」だけを抽出してきて「信念なんか持つべきではない」と錯覚しているのである
真理を追求する上における信念には 必ず自己客観的論理検証性が不可欠であり それが欠けたまま主観的観念だけを頼りに感情の強度程度だけで行動選択しているからこそヒトは実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
テロや通り魔といった暴力的最終解決に陥るのは そこに自己客観性がないためであり 一般的に社会制度にまでなっている懲罰報復を漫然と鵜呑みにしているからこそ 暴力的解決だけが絶対的解決になってしまうのである
ヒトには暴力性がある
そうでなければ死刑などという野蛮な風習が存在する理由が説明出来ない
殺意というものは誰にでも生ずるものであり それ自体が人間性を否定するものではなく 殺意という感覚が促す行動バイアスが直接行動に直結してしまう短絡性が非人間性の原因となるのであり 死刑や懲罰といった国家権力による暴力の代行で全てが解決したような「感覚」には客観的論理検証性が全く働いていないのである
よく裁判の判決理由に「殺意の有無」が取り沙汰されるのだが 酷い場合には加害者が馬乗りになって包丁で何度も刺していながら「殺意が認められないから傷害致死」などというわけの判らぬ判決を下すこともある
この事案に関しては さすがに最高裁までは通らず殺人として最終判決が下っているのだが
それなら殺人も何もしていない人であっても殺意を抱いたら罪になると言うわけでもないのに なぜ実際に殺人を行った犯罪者のみ殺意の有無が問われることになるのであろうか
本当に重要なのは 殺意が行動に直結するという短絡性の方であって 殺意自体は本来誰でも持ちうるものであり どうでも良い話である
「社会から疎外されている」だのといった主観的感覚自体はどうでも良い話であり 本当に主体的に何を望むのかを自己客観的に検証すれば 「子供が丸焦げにされない社会」を構築するために必要なことは何かを選択すれば 目先の主観的感覚など些細なことであると認識することが出来るのである
「気に入らないからガソリン撒いて火をつけた」などという行為が 社会的に何の意味もないにも関わらず あたかも自分の主観的「感覚」こそが絶対だと錯覚しているからこそ 実証不能の観念に囚われ他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
それでもなを養老が唆す「感覚こそが重要」などという話を疑わないのであれば それは洗脳以外の何ものでもなく
客観的に見れば それは「ただのバカ」に過ぎない
洗脳とは 自らの頭の悪さを認識しなくなることで生ずるのである
ヒトとは そういう先天的欠陥を持った存在であることを認識すべきである
Ende;
理性が働かなくなる原因は感覚の欠陥(錯覚)にある
主観的感覚というもの全体を統合的 客観的 俯瞰的に検証する理性に基づいた感覚というものがあり
これもまた主観ではあるのだが その主観にはあくまで論理的客観性が伴う必要性がある
利己的な保身のために組織に迎合することで原発の津波に対する脆弱性は放置されたわけだが これを文化系大衆観念的には「理性」だと解釈し
一方 社会全体の安全性に配慮することは「感覚」だと解釈する
「社会全体の安全性に配慮」している時点で自己客観性が働いているのであって これは「理性が感覚を制御している状態」であり
利己的な保身のために組織に迎合することというのは 利己という本能的欲望に基づいた「理性的判断」に過ぎない
どちらの状態にも理性はあり 感覚も存在しているのだが どちらが優位にあるかで行動は180度異なる
どんなに利己的利益を追求しても 自分や子孫がこれからも生活してゆく社会の安全性が脅かされてしまっては意味がないことに気づけば 利己よりも社会安全性を優先する「感覚」も芽生えるのだが こうした公益的な感覚というものは客観的論理検証性が充分に働いていなければ生ずることはなく
目先の欲望や感情に基づいた「感覚」だけでは人間性や倫理性は発揮されることはない
チンパンジーに倫理を問えないのは チンパンジーの脳には客観的論理検証性など存在していないからである
それなら言語が扱えるゴリラなら客観性が働くかと言えば 手話を用いるゴリラは幼少期から育ての親である研究者に対して観念的恐怖心による服従性を発揮しているだけであって ゴリラ自身が自律的主体的に客観的論理検証を行っているわけではない
社会が崩壊することに対しての「感覚」と 目先の欲望を満たすための「感覚」の どちらを優先するのかを分けるのが客観的論理検証性である
だから私は「理性が大事」って言ってるんだが 同じ「感覚」という言葉を都合良く用いることによって論理検証の苦手な大衆マスコミを騙すのは そう難しいことではないらしい
「〇〇意識」と呼ばれるもののほぼ100%は無意識的行動バイアスを意味するものであるが 養老孟司のように「そうした意識が」などという言い回しを用いることで あたかも「意識には意味がない」かのような錯覚を促すことも簡単である
「そうした意識」とは 一体「どういう意識」なのかを検証する客観的論理性が働かないから 養老の嘘でも簡単に鵜呑みに出来るのである
要するに言葉のレトリックを用いた単純な嘘に過ぎないのだが 文化系大衆マスコミの大多数には それを嘘だと認識する理性はなく 養老の言葉に惑わされて「意識には意味がなく 感覚の方に意味があるんだな」という錯覚によって嘘を嘘だと認識出来なくなるのである
フリードリヒ:ニーチェによる「信念は真理の敵」などという決めつけも ある一面的な側面だけを抽出して「信念の全ては真理の敵」であるかのような錯覚を促しているに過ぎない
信念なくして真理もヘッタクレもありゃしないのに 論理的根拠に乏しい身勝手な実証不能の観念に基づいた大多数の「バカの信念」だけを抽出してきて「信念なんか持つべきではない」と錯覚しているのである
真理を追求する上における信念には 必ず自己客観的論理検証性が不可欠であり それが欠けたまま主観的観念だけを頼りに感情の強度程度だけで行動選択しているからこそヒトは実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
テロや通り魔といった暴力的最終解決に陥るのは そこに自己客観性がないためであり 一般的に社会制度にまでなっている懲罰報復を漫然と鵜呑みにしているからこそ 暴力的解決だけが絶対的解決になってしまうのである
ヒトには暴力性がある
そうでなければ死刑などという野蛮な風習が存在する理由が説明出来ない
殺意というものは誰にでも生ずるものであり それ自体が人間性を否定するものではなく 殺意という感覚が促す行動バイアスが直接行動に直結してしまう短絡性が非人間性の原因となるのであり 死刑や懲罰といった国家権力による暴力の代行で全てが解決したような「感覚」には客観的論理検証性が全く働いていないのである
よく裁判の判決理由に「殺意の有無」が取り沙汰されるのだが 酷い場合には加害者が馬乗りになって包丁で何度も刺していながら「殺意が認められないから傷害致死」などというわけの判らぬ判決を下すこともある
この事案に関しては さすがに最高裁までは通らず殺人として最終判決が下っているのだが
それなら殺人も何もしていない人であっても殺意を抱いたら罪になると言うわけでもないのに なぜ実際に殺人を行った犯罪者のみ殺意の有無が問われることになるのであろうか
本当に重要なのは 殺意が行動に直結するという短絡性の方であって 殺意自体は本来誰でも持ちうるものであり どうでも良い話である
「社会から疎外されている」だのといった主観的感覚自体はどうでも良い話であり 本当に主体的に何を望むのかを自己客観的に検証すれば 「子供が丸焦げにされない社会」を構築するために必要なことは何かを選択すれば 目先の主観的感覚など些細なことであると認識することが出来るのである
「気に入らないからガソリン撒いて火をつけた」などという行為が 社会的に何の意味もないにも関わらず あたかも自分の主観的「感覚」こそが絶対だと錯覚しているからこそ 実証不能の観念に囚われ他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
それでもなを養老が唆す「感覚こそが重要」などという話を疑わないのであれば それは洗脳以外の何ものでもなく
客観的に見れば それは「ただのバカ」に過ぎない
洗脳とは 自らの頭の悪さを認識しなくなることで生ずるのである
ヒトとは そういう先天的欠陥を持った存在であることを認識すべきである
Ende;