基礎医学だか糞医学だか知らないが、「生きてりゃいいんだろ」的延命治療ばっかり目的にしているからQOLの低い医療ばっかり蔓延する。そんな医療は患者のためではなく医者のための医療でしかない。
組織の利益ばかりを優先しているから患者のための医療にならないのであって、「自分を大切に。」だとか言っている時点で利己性しか発揮していない。 それなら医療組織による不祥事がなくならないのも必然的結果である。
どっかの病理診断医みたいに「権威による査読がない。」だとかいう甘ったれた観念に溺れているから批判精神が欠如する。 そんな奴は科学者としてポンコツでしかない。 自律的判断をしなくて良いのであるならば、そんな仕事は人工知能にでもやらせておけば良いのであって、そこに人間性は必要ない。
原発の運転のみならず、個人が自律的に社会的責任を負わないから社会安全性が低くなる。それはあらゆることにおいて言えることであって、特定技術者だけに倫理を丸投げしておけばどうにかなるようなものではない。
自分の判断の無責任さを棚上げにしておいて、他人の責任ばかりを追求するのは身勝手極まりない。
他人の無責任を追求する前に、刑法懲罰制度自体の不毛さを理解し、本当の意味での論理的な犯罪再発防止策を立てる社会制度作りへのコンセンサスが得られない限り、どんなにその場限りの厳罰化を推し進めても具体的な再発防止にはならない。
酔っ払い運転のような無責任な行動を採る者の心理や思想といったものに言及せず、ただ裁判で「身勝手」だと主張しても、具体的にどこが身勝手なのかや身勝手さの原因究明にもつながらない。
ISILやナチズムのような狂気の集団というのは、「普通の人」が持つ無責任さが凝縮した「結果」であり。普通で平凡な人の異常性を全く認識していないから発生するのである。
ハインリッヒの法則に則れば、一つの重大事象の陰には無数の原因が隠れているのであって。子供のイジメがなぜ起こるのかや、ヘイトスピーチや暴力団の発生原因についての分析研究が全く為されてこなかったからこそ、ISILのような狂気集団の発生を抑止出来なかったのである。
刑法懲罰というのは、いわば暴力で民衆を抑圧するための制度であり。そんなものに依存する以外に何も対策が思い付かないのは、当人達に自律的目的意識が全く存在していないからである。
行き当たり場当たりに厳罰化ばかりに邁進しているという社会的無責任さを棚上げにして、社会安全性が高まらないのは当たり前の話である。
罰ではなく、なぜ犯罪者の多くは無責任な行動を採るのか、自律的に社会的責任を負おうとしないのか。その原因究明をするためには、犯罪者だけでなく、普通一般人にも普遍的に存在する無責任さにも言及する必要性がある。
単に学力偏差値が高いだけで権威になったような高学歴なバカの言っていることを鵜呑みにせず、個人が自律的に論理検証するという本質的な意識を持たないから優生学が70年以上も論理反証されずに温存されたのである。
ヒトは他人との関係性に序列を規定しがちである。 相手を「上」とか権威と見なした場合には、盲目的に服従してしまう性質があるために、言われてみれば誰でもわかるような簡単なことですら誰も考えなくなってしまう。
こうしたヒトの性質があるからこそ、ヒトの多くはバカに陥り。結果的にバカげた迷惑行為にも加担してしまうことに陥るのである。
北海道砂川ひき逃げ事件の古味(こみ)竜一のような無責任な者が、どうして実際に他人に危害を与えるまで放置されたのかと言えば。刑法という実際に被害者が出なければ何のお咎めもない司法制度の無責任さに因るものである。
警察は刑法という制度に従って書類送検をしてこその評価であるから、自分達の評価だけを考えていれば実際に被害者が出ない以前の安全対策などせず、重大事故や重大犯罪でも起きてから検挙した方が「得」なのである。 つまり、その場限りの厳罰化というのは、警察の権益を助長することはあっても、構造的な不具合については全く手付かずなのである。
それは、あたかも「医者のための医療」と同じであり。「警察のための刑法」に過ぎない。
それが実際には社会にとって利益にはならないことを認識していないからこそ、刑法厳罰化などという不毛なことを漫然と、しかも感情的に繰り返すだけのスパイラルに陥るのである。
その社会的無責任さを認識すべきである。
Ende;
組織の利益ばかりを優先しているから患者のための医療にならないのであって、「自分を大切に。」だとか言っている時点で利己性しか発揮していない。 それなら医療組織による不祥事がなくならないのも必然的結果である。
どっかの病理診断医みたいに「権威による査読がない。」だとかいう甘ったれた観念に溺れているから批判精神が欠如する。 そんな奴は科学者としてポンコツでしかない。 自律的判断をしなくて良いのであるならば、そんな仕事は人工知能にでもやらせておけば良いのであって、そこに人間性は必要ない。
原発の運転のみならず、個人が自律的に社会的責任を負わないから社会安全性が低くなる。それはあらゆることにおいて言えることであって、特定技術者だけに倫理を丸投げしておけばどうにかなるようなものではない。
自分の判断の無責任さを棚上げにしておいて、他人の責任ばかりを追求するのは身勝手極まりない。
他人の無責任を追求する前に、刑法懲罰制度自体の不毛さを理解し、本当の意味での論理的な犯罪再発防止策を立てる社会制度作りへのコンセンサスが得られない限り、どんなにその場限りの厳罰化を推し進めても具体的な再発防止にはならない。
酔っ払い運転のような無責任な行動を採る者の心理や思想といったものに言及せず、ただ裁判で「身勝手」だと主張しても、具体的にどこが身勝手なのかや身勝手さの原因究明にもつながらない。
ISILやナチズムのような狂気の集団というのは、「普通の人」が持つ無責任さが凝縮した「結果」であり。普通で平凡な人の異常性を全く認識していないから発生するのである。
ハインリッヒの法則に則れば、一つの重大事象の陰には無数の原因が隠れているのであって。子供のイジメがなぜ起こるのかや、ヘイトスピーチや暴力団の発生原因についての分析研究が全く為されてこなかったからこそ、ISILのような狂気集団の発生を抑止出来なかったのである。
刑法懲罰というのは、いわば暴力で民衆を抑圧するための制度であり。そんなものに依存する以外に何も対策が思い付かないのは、当人達に自律的目的意識が全く存在していないからである。
行き当たり場当たりに厳罰化ばかりに邁進しているという社会的無責任さを棚上げにして、社会安全性が高まらないのは当たり前の話である。
罰ではなく、なぜ犯罪者の多くは無責任な行動を採るのか、自律的に社会的責任を負おうとしないのか。その原因究明をするためには、犯罪者だけでなく、普通一般人にも普遍的に存在する無責任さにも言及する必要性がある。
単に学力偏差値が高いだけで権威になったような高学歴なバカの言っていることを鵜呑みにせず、個人が自律的に論理検証するという本質的な意識を持たないから優生学が70年以上も論理反証されずに温存されたのである。
ヒトは他人との関係性に序列を規定しがちである。 相手を「上」とか権威と見なした場合には、盲目的に服従してしまう性質があるために、言われてみれば誰でもわかるような簡単なことですら誰も考えなくなってしまう。
こうしたヒトの性質があるからこそ、ヒトの多くはバカに陥り。結果的にバカげた迷惑行為にも加担してしまうことに陥るのである。
北海道砂川ひき逃げ事件の古味(こみ)竜一のような無責任な者が、どうして実際に他人に危害を与えるまで放置されたのかと言えば。刑法という実際に被害者が出なければ何のお咎めもない司法制度の無責任さに因るものである。
警察は刑法という制度に従って書類送検をしてこその評価であるから、自分達の評価だけを考えていれば実際に被害者が出ない以前の安全対策などせず、重大事故や重大犯罪でも起きてから検挙した方が「得」なのである。 つまり、その場限りの厳罰化というのは、警察の権益を助長することはあっても、構造的な不具合については全く手付かずなのである。
それは、あたかも「医者のための医療」と同じであり。「警察のための刑法」に過ぎない。
それが実際には社会にとって利益にはならないことを認識していないからこそ、刑法厳罰化などという不毛なことを漫然と、しかも感情的に繰り返すだけのスパイラルに陥るのである。
その社会的無責任さを認識すべきである。
Ende;