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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

外見上の自発性。

2012年07月25日 13時17分59秒 | 意識論関連

 松岡修造のように煽り立てて「やる気。」を出させても、それは環境依存性のものであって本質的な自発性ではない。

 いちいち煽り立てなければ発揮されない「やる気。」の場合、「煽り立てる。」他人がいなければ発揮されないものであって、学力競争においても環境依存的な外見上の自発性による、成績評価を動機とした学習学力では教えたこと以外何も出来ない学力バカを生産するだけである。


Ende;

放置プレイ。

2012年07月25日 13時16分33秒 | 意識論関連

○ポンコツ。

 イチローのヤンキース入団を、茂木健一郎が「運命論」と断言するのは、科学者としての分析ではない。

 運命論を持ち出すのは論理検証性の欠落であり、科学者としてポンコツである。

 明らかに世間的ウケ狙いが目的であって、スポーツ選手の世間的成功というものは社会安全性や持続可能性とは無関係な世間的成功でしかない。世間的成功を人間の価値にすりかえる文系大衆観念に迎合している時点で、茂木には「人間とは何か。」についての意識、意欲は全くない。

 茂木に脳科学的な事故原因究明においては無能である。スポーツなどにおける無意識機能しか論じておらず、むしろ本質的意識や論理検証性を「無駄。」だの「邪魔。」と論じているからである。

 養老孟司に疑問も反論もせず、迎合しておいて科学者もすったくれもあったものではない。論外である。

 茂木のように興奮するような奴には冷静な論理分析は不可能である。脳の数理モデルの評価においても、業界内部でのウケ狙いに過ぎない。実際それ以外には何の業績もないのである。

 そもそも生物学における「結果」と「目的」の区別も満足に出来ないポンコツ集団内部での評価に意味などない。

 生物学全体における体制腐敗、問題意識の欠落を改善しないことにはあらゆるヒトが引き起こす問題行動の原因も対策も得ることは出来ない。

 わかっているのかな、畑村洋太郎とか柳田邦夫は。






Ende;

安全文化。

2012年07月25日 12時19分21秒 | 意識論関連


○「安全文化を作り上げることが大切。」:柳田邦夫

 安全文化というものは、運営する側の本質的自発性がなければ築かれるものではなく、単なる金儲けという動物本能的動機の原発では原理的に築かれることはない。新幹線における安全文化というのは当人達の自発的な意欲によって保守されるからこそのものであり。金儲け以外に原発運営の動機など存在するわけがない。

 「なぜ、ヒトがこうした考えをするのか。」その傾向性も追究する必要がある。本来なら社会心理学の領域であるが、現実には大衆迎合「空気を読む。」ことばかりに意識を奪われ、全く言及すらしないではないか。心理学者の香山リカなどは「他に仕事がなかった。」などと述べており、本質的な自発性も問題意識も全くない。

 当人に自発的問題意識がない心理学者達が、他人の問題意識について検証することなど原理的に不可能である。本質的自発性がないのが当然だと思っている者同士が共通の観念を共有して気分的に満足するだけであるからだ。

 世の中無能なデクノボウが多過ぎる。だからこそ原発の暴走を許したのである、柳田邦夫は「専門家が必ず厳格な検証をしてくれるものだ。」と勘違いしている。これもまた一種の「神話」に過ぎない。生物学、哲学、社会心理学、脳科学などにおける論理検証性の低さを抜本的に改善しないことには厳格な検証など一切されることはない。

 本質的な自発性のない、問題意識のない研究者を排除するなどの構造改革が必要不可欠である。



 「一面的視点からだけ見ていることは非常に危険。」:畑村洋太郎

 工学の視点からだけ見ていることも危険。社会心理学や脳科学、あらゆる英知を集結して検証すべきであるが、現実には問題意識も論理検証性もないバカ研究者が多過ぎる。



 「空気を読む」相手のご機嫌を取っているから、結果的に自律的な社会的責任判断を放棄するのである。実質的効果が存在しないことが科学的に立証された脳トレ類の権益に執着しているような脳科学者では、何も真実は解明されるわけがない。




 イジメを放置する教育者達も、「他に仕事がなかった。」程度の動機しかないという、本質的自発性の欠落の結果である。

 ムラ的体質であっても、体質自体を作り出しているのは組織を構成する個人の無意識性である。意識がない原因というのは、当人の意欲自体の希薄性の結果である。

 当人に自発的な「かくあるべき。」という理想がなければ、組織に迎合して手抜きをすることにしか意識が働かないのは必然であるからだ。意欲がなければ厳密に追究するわけもなく、動物的な行動選択の結果しか導き出されることはない。

 あらゆるヒトの意識の欠落は、本質的自発性の欠落の結果である。

 畑村洋太郎にとって、自発的意欲がない研究者というのは考えられないであろうが。現実には世間からの評価報酬に迎合しているだけのウケ狙いしかしない者というのは非常に多い。

 意欲のない研究者を組織から排除する抜本的改革なくして、真実は闇に葬られるだけである。



 「日本人は規則は守るがマナーはない。」と言われる。

 規則というのは他律強制的強迫観念への迎合であるが、マナーとは当人の自発的行動選択である。

 つまり、日本人には自発的自律がないのである。養老孟司がやたらと社会制度だの法律に依存したがるのも、それを多数で共有して安心満足して思考停止している大衆にも、誰にも自律というものがないのである。

 そりゃ原発が暴走すんのも、イジメで子供が自殺すんのも必然じゃないのかね。


 自律のない大衆に対して、自律を促せば嫌われるのも必然であろう。むしろ自律的な判断を放棄させ、大衆観念に寄り添ったウケ狙いをしておいた方が人気も得られるだろうし、世間的にも成功出来るであろう。

 だから自律的に人間性を持つことは日本においては報われないため、他律的強制性を多数で共有して満足したがるのである。

 脳科学者も生物学者も哲学者も、世間大衆への迎合ウケ狙いにばかり執着していて、何ら「本質的人間性とは何か。」についての考えすら表明しないのである。議論が全く進まないのも当然である。

 ヒトという種の生物が、なぜ自律的に社会的責任判断を行わなくなるのか、それは多数大衆に迎合して、本能的安心や快楽ばかりが優先され、論理検証性が失われるからである。

 ヒトは脅迫されると気分的に嫌なので、当たり障りのないよう、ことなかれ主義に徹しようとする本能的行動習性傾向がある。その結果、ヒステリックに感情を表す相手に対して迎合し、結果的に統率的協調性を無意識に発揮してしまうことに陥る。

 一旦統率的協調性を発揮し始めた集団や組織には、多数という気分的安心、集団心理を発揮し、誰も自律的に反論批判することをしなくなってしまうのである。

 ナチズムにせよ、オウム教団にせよ、東電、オリンパス、大王製紙、挙げたらキリがないが集団組織内部の個人が自律的に社会的責任判断をしなくなるのは、こうした生物本能的な社会形成習性が促す無意識行動の「結果。」なのである。

 一見集団組織とは無関係に見える通り魔などの単独犯罪においても、「バスジャックをやらかしたら、凄い。」などという、集団内部の偏見に対して自律的批判精神が全く存在しないために、本能習性に基づいた大衆観念的な「勝ち負け」基準を鵜呑みにし、「大量に殺せば英雄。」だと勝手に思い込んだ「結果。」に過ぎず。

 結局は集団組織への迎合の「結果」なのである。

 「結果」とは無意識に本能習性に流された「結果。」であって、本能習性の「結果。」に対して後から事後正当化のこじつけを行う生物学者のほとんど全員は、自律的な論理検証性が欠落しているのである。

 こうした生物学における非科学的観念の蔓延を許しておいて、ヒトという種の生物についての科学的検証など一切されるわけもなく、断片的立証から「人間らしさ。」などというあやふやな基準に基づいた科学的には全く意味を成さない論証しか行われない。

 大衆観念というものは、動物本能的行動習性の「結果」しか促さず、利己的本能の正当化を平気で行うため。結果的に社会安全性や持続可能性といった、統合的合理判断が一切されなくなってしまうのである。

 断片的論証を並べているだけなら論理整合性は無用であり、その場限りに取り繕っておけば「勝った。」ような錯覚に陥り、多数で同じ観念を共有しておけば「安心満足」でもある。考えの浅い者の多数決を枚挙しても、決して深い考えには到達することは出来ない。

 脳科学を含む生物学界は、既に集団的な洗脳状態に陥っており、自律的には科学的論理検証性が働かなくなっているのである。「ヒトにどのような本能があるのか。」を枚挙しても、それは「結果」以外何も論証したことにはならず、何ら意識的目的や自発的論理検証性の価値には言及されることがない。

 生物学や脳科学はアイヒマン実験や監獄実験といった、「人間らしさ。」のない実証を無視し、なかったことにし、大衆ウケ狙いに都合の良い話ばかりを取り上げようとする。これは原発関係者達における危機意識の低さを作り出した「正常性バイアス」などによる観念的楽観視傾向によるものであり、極めて悪質なのである。

 生物学者達が自分達の危機意識を認識していない限り、あらゆるヒトが引き起こす「人災」の危険性も放置されるのである。

 「ヒトという種の生物が持つ危険性。」に言及することは、大衆からの人気、ウケ狙いにはならない。それは原発が暴走する以前の東電の体質と全く同質のものであり、「気分的に嫌な話を無視する、意識から外す。」といった子供じみた思考の結果である。

 「嫌な話を無視する、意識から外す。」ことで人間関係を円滑にすることが出来ると論じたのは養老孟司である。こんなキチガイを東大では名誉教授扱いしているのであり、東大自体にも責任がある。

 こうした責任を誰も負いたくないために、本論は隠蔽無視され続けているのである。



Ende;

現場の判断。

2012年07月25日 12時18分01秒 | 意識論関連

○現場の判断。

 東電幹部の誰に状況を聞いても「わかりません。」の一点張りの状況下において、「それじゃ、専門家にお任せします。」などと言うのが首相の責任を果たしていると言えるのか。

 結果的には政府が介在によって混乱を招いたのは事実であるが、それは「結果」である。

 予め制度法律といったシステムがなかったことにより、政府の介在による現場の混乱という「結果」を招いたからといって、菅元首相の現場の判断自体が間違いであったことの論証にはならない。

 そもそも首相が恐くて自律的に正しい判断が出来なくなるような、東電の権威依存性、服従迎合性こそが根本的問題であって。そもそも誰にも自律的に正しい判断が出来ないバカさこそが最も根源的な問題なのである。

 「制度法律システムがなかったから、自律的に正しい判断が出来なかった。」などという、ふざけた話を鵜呑みにするわけにはいかない。

 それじゃただのバカじゃねぇか。

 自律的責任判断を誰もしないからこそ「人災」だったのである。自律的責任判断を最も重要視しないというのであれば、もはやあらゆる犯罪は社会環境という制度法律の問題にすりかえられてしまう。

 制度法律システムというのは、対処療法的パッチであって、根源的問題解決にはつながらない。制度法律システムに依存せず、個人が誰も自律的に社会的責任判断を下さないことこそが最も根源的問題なのである。

 制度法律の整備ももちろん大切ではあるが、制度法律というものはあくまで二次的補佐的な対策であって、根本的には個人が自律的に社会的責任判断を下すことが大前提であることに異論などなかろう。あるとすれば自律的には責任を一切取りたくない無責任な者の言い逃れだけであろう。

 予め予防対策的想定を活かすには、封建的トップダウンによる統率統制ではなく、「現場の気付き。」や「外部からの指摘。」も活かせるよう組織を透明化しておくことも大切であり。封建的閉鎖性こそが隠蔽体質を助長する要因の一つである。

 「専門家にお任せ。」しておいた結果が電源喪失水素爆発という結果を導いたにも関わらず、それでも無為無策に「専門家にお任せしておけ。」というのは現場においては判断放棄でしかなかろう。

 万が一の際にも「専門家にお任せ。」出来るような体制を整えておくことは必要であり、そうした体制が全く準備されておらず、破綻状況に陥るまで放置した無責任性こそが根本的問題なのである。

 本店幹部が誰も状況把握を出来ておらず、「わかりません。」の一点張り状況における管元首相の現場の判断を、後から糾弾して満足するのは間違いである。「わかりません。」の一点張り状況を作り出した東電体制こそが間違っていた「結果」として、結果的に不適切な対応に「陥った」のであって。現場の判断を一切放棄しろというのであれば警官に拳銃を所持させる根拠はなくなる。

 車で轍き殺そうとしてくる相手に対して、無抵抗に殺され取り逃がすことが正しいわけがなかろう。

 管元首相が事故当時どういう状況だったのかは詳しく知らないけど、他に最適な行動選択が存在していて、具体的に「こうするべきだった。」って言えない限りは、感情的バッシングを共有して満足する方が無責任。

 記録が全く残っていないというのも問題だけれど、ハイテク日本において小型ビデオもオーディオ記録装置も予め準備しておけば良かった。何にも記録証拠が残っていなければ今後の対策に活かすこともできない。

 政府事故調査委員会も保安院による「再臨界の可能性を明確に否定しなかった。」ことも要因だとしている。集団で個人をバッシングして満足するのはイジメを行うバカガキの心理と同じであり、こうした無意識的満足の追究ばかりに意識を奪われているから、あらゆる人災が減らないのである。

 自分達がイジメを平気でやらかしておいて、「何でイジメがなくならないんだろう。」などと言うのは、バカとしか言いようがない。

 ヒトの多くは自分の過ちは少なく見積もる傾向があり、逆に他人の過ちを異常に過大視したがるのである。それは自己自身への論理検証性がないからだ。

 多くのヒトは個人の悪口を多数で共有しておけば満足であろうが、その満足こそが論理検証性の欠落を招いていることにまで意識が回らない。



 解雇された東電幹部達は、この就職難の時代にも関わらず全員再就職したそうじゃないですか。再就職を受け入れた企業との癒着や利害関係があるとしか考えられない、こっちの方を追究すべきでしょうが。マスコミは何やってんですか、スポンサーの顔色うかがっているなら、結局「組織の利益を優先し、社会の安全性を無視。」した東電幹部達と一緒でしょうが。

 金と権利ばかりを優先し、動物的な馴れ合いでしか物事を運べない日本企業全体の腐敗した体質を変えるためにも、企業を構成している個人の主体的自律的選択というものが重要なのである。それは制度法律システムでは逃げ道を作り出すだけでどうにもならない。

 誰にも人間性のない、自律的に社会的責任判断を行わない組織において、どんなに制度法律を整備しても無駄である。天下りを誰も止めることが出来ないのも、これが理由。

 危険学者は個々の現象に対するその場限りの対策に終始するのではなく、ヒトという種の生物が引き起こす人災共通の原因にまで踏み込む必要性がある。「想定外」も「検証範囲」も許すべきではない、そんな言い訳こそが責任放棄の言い逃れを作り出すからである。

 理論的厳密検証を放置して、気分的な満足で思考停止しているから、人災が全然減らない。人災ってのはバカが引き起こすもののことを指すんですよ、わかってんですかね。

 自分達のバカさを無視しておいて、他人にだけ賢さを求めるのは奴隷根性っつうんじゃないっすかね。



Ende;

ことなかれ。

2012年07月25日 12時17分12秒 | 意識論関連


○ことなかれ主義。

 安全神話によって思考を停止するヒトの習性を解明しないと、重大事故も犯罪も根源的対策にはならない。

 保安院 広瀬研吉による「寝た子を起こすな。」などというのは「ことなかれ主義」であり傲慢である。

 原発避難者達が「何でこんなことになってしまったのか、最後まで調べて欲しい。」と述べているように、事故調査検証委員会はヒトの行動習性的な思考停止性にまで踏み込む必要性/社会的責任がある。

 事故調が「ことなかれ主義」を発揮してどうする。政府事故調査委員会は最後まで調べ尽くすべきである。

 ヒトがなぜ身勝手な安全神話に満足し、社会安全性を意識から外すのか。その動物習性的メカニズム構造から再発防止策を確立しなければ、「最後まで調べた。」ことにはならない。

 多数派同調バイアスや正常性バイアスは、ヒトに普遍的に見られる情動バイアスであり、本能によって導かれる気分的な傾向である。

 ヒトは目先の多数に同調しておけばヒトは安心満足し、何も考えることをしなくなる性質がある。この根本的なヒトの思考パタンはあらゆる人災における普遍的原因である。

 論理的思考、「考え」というものこそがヒトが人間たりうる所以である。


 社会安全性を保つためには、自己の生存や保身のために自律的な社会的責任判断を放棄してはならない。それは気分的行動バイアスによる無意識な行動選択では原理的に選択されることはない。それなら本能的行動バイアスだけでヒトの人間性を立証しようとする生物学の怠慢を許すべきではない。

 論理的反証を全くしないまま、ただ漫然と論理的根拠のない観念を繰り返す生物学は極めて閉鎖的であり、傲慢である。それを東大名誉教授でもある畑村洋太郎が放置するのも同罪である。論理検証という科学的判断を放棄しておいて、一体何のための権威性であろう。



Ende;

らしさ。

2012年07月25日 12時15分31秒 | 意識論関連

○人間らしさ。

 前回のサイエンスZeroのサブタイトルが「人間らしさの科学。」だった。

 人間「らしい。」なんていう、雰囲気もので科学もすったくれもあったものではない。

 科学というのは理論検証性に基づいた厳格なものでなくてはならず、「らしさ。」なんていう文系大衆観念的な解釈に基づいているのでは科学としての社会的役割を果たしていない。

 「らしい。」などという表面的でふんわりした基準で人間とは何かを科学的に検証することは出来るわけがない。外見上「らしい。」だけでどうして論理的人間性の論証が出来るであろうか。

 「らしい。」などという外見上の雰囲気を判断基準にしても、ヒトという種の生物の論理的安全性の証明には全くならない。外見上の雰囲気を判断基準にしても気分的な安心の追究をしているだけであって、このような気分的安心満足ばかりを追究しているから合理的な安全性が蔑ろにされるのである。

 「らしい。」という外見ばかりを論じても、本質ははぐらかされるだけである。

 文系観念者というのは、外見上「人間らしい。」ことを抽出枚挙して気分的に安心することばかりを追究しており。何ら科学的合理性のある「人間性とは何か」については全く考えようとはしない。 

 生物学者等は気分的に安心し、精神的に満足することによって、論理的思考検証性を放棄することばかりを追究しているのである。それは哲学者がドストエフスキーやニーチェに精神的救済ばかりを追究して論理的人間性とは何かを無視しているのと同じ怠慢である。

 ヒトの多くは「気分=行動」という短絡的行動原理しか選択できないからといって、気分的安心満足ばかりを優先して自律的に自己の情動を抑制することを放棄する言い逃れにすりかえるべきではない。

 それこそが人間性の放棄であるからだ。

 ヒトという種の生物は、既存の動物本能的行動習性に無為に流されることなく、本質的合理性追究によって自律的に社会的責任判断を下すことによって、はじめて「人間」ということができるのである。それを「難しい。」だの「やりたくない。」だの気分や傾向だけで放棄するのはヒトの傲慢に過ぎない。

 哲学者の多くがバカで、本質的合理性追究こそが人間性の論証であることを認識できず、「大勢を占めていない。」から無視するというのは、単に多くの哲学者達が自律的に論理検証が出来ないバカなだけであり。文系大衆観念による気分的安心や精神的満足/救済ばかりを追究して思考停止している現状を放置するというのは「バカの多数決。」に過ぎず、何ら論理的思考が働いていない。

 臨床心理医学的に精神が崩壊しており、理論的思考が困難な「患者。」の治療であるなら精神の救済も必要な場合もあるだろう。しかし、患者でもないのに精神的満足だけしか追究出来ないというのは許されるものではない。

 東電幹部達にとって、組織の利益を追究し、社会の安全性を無視することは「精神の救済。」なのである。それはオウム教団が毒ガステロにまで暴走したのと同じ精神の怠慢である。

 論理検証という「考え」を放棄し、自律的判断を放棄し、気分的安心精神的満足ばかりを追究しているから無意識が促す暴走を誰も止めることが出来ないのである。

 オウムや東電といった暴走の「結果」だけを糾弾しておけば気分的に満足であろう。しかし、彼らが犯した暴走の構造を理解し、今後の自己の行動における暴走性の抑制に活用できなければ、ヒトが起こす暴走「人災」は一切減らないであろう。減る合理的根拠が全くないからだ。

 ハインリッヒの法則では、一つの重大事象の陰には多数の予兆が隠されているという。実際に暴走の結果的に発生した重大事象を糾弾しているだけでは、本質的な予防「想定」には生かされることはない。

 ヒトの多くは権力や金に服従し、自律的に社会的責任判断をしたがらない。東電の暴走というものも、東電を構成する圧倒的多数の社員達による集団主義、集団迎合性によって問題が隠蔽放置されていたのである。幹部だけを糾弾しておけば良いという短絡的な大衆観念では本質を見失うだけである。

 責任者への服従迎合によって、多くのヒトは自分の自律的責任判断を放棄できるものであると簡単に錯覚する習性傾向がある。多数派同調バイアスというのは、言い換えれば目先の多数派に迎合するヒトの行動習性なのである。

 だから文系大衆観念ばかりが優先温存され、自律的論理検証が全く進まないのである。

 多数派同調バイアスや正常性バイアスというものは、災害避難の時だけの問題ではなく。あらゆるヒトの行動選択において自律的判断を阻害する本能的無意識行動バイアスである。

 何が意識で、何が無意識なのか、その区別をするのは固定観念的な気分感情による拒絶や満足ではなく。あくまで論理検証に基づいた判断でなければならない。純粋理性批判をどんなに多数同調しても論理的証明には全くならないのである。

 「○○意識」と言われるものの大半は無意識行動バイアスを指すものである。無意識的条件反射行動を、それと認識せずに本能気分的に無意識行動バイアスに流されていた方が、気分的に安心で満足なのは当たり前である。

 だから多くのヒトは論理検証を放棄するのである。

 話を丸めて気分的な安心を与えておけば、多くのヒトは観念的に迎合し、論理検証や批判精神を放棄する習性傾向がある。逆に問題提起をして不安になるようなことを述べれば多くのヒトは観念的拒絶反応を示し、無視し、意識から外し、「なかったこと。」にする。「ことなかれ主義」というのはこうしたヒトの普遍的行動バイアスによって作り出されるものであって、そこに本質的意識、検証性が失われているから「ことなかれ主義」に陥るのである。

 オウム信者にとっては、教団の異常性を無視しておくことこそが「ことなかれ主義」なのである。それと同じで文系大衆観念者達にとっては自分達の異常性を無視し、論理検証性に基づく自律的社会安全性判断を放棄無視しておいた方が安心で満足できるのである。それを傲慢怠慢と言わずに何と言う。

 バカならこう反論するであろう、「だって、にんげんだもの。」と。それは人間性の論証ではなく、単なる生物種としてのヒトの傾向習性に同調して安心満足しているだけである。

 バカ同士で多数派同調していれば安心であろう。「赤信号、皆で渡れば恐くない。」のと一緒で、気分的に「恐くない。」からこそ原発の危険性を放置し、毒ガステロは実行されたのである。あらゆる「人災」ヒトが引き起こす問題行動の裏には、こうした多数派同調バイアスという無意識行動習性傾向が作用しているのである。

 「だって、みなさんお金が欲しいでしょ。」を正当化するなら、原発を暴走させたことも、粉飾決済も、あらゆる利己的行動の全ては許されることになるのである。

 それはただのバカでしょうが。

 世の中にバカしかいないのであれば、世の中が崩壊するのは必然的結果である。ヒトの多くは「誰がが何とかしてくれる。」などと、英雄天才神仏に責任を丸投げしておけば自律的責任判断を放棄出来ると錯覚し、安心満足することができる。こうした権威依存性バイアスこそが、個人の自律的社会的責任判断を誰もしなくなる根源的原因なのである。


 文系大衆観念に迎合することしか頭にない生物学や哲学、人文諸科学の無責任性を放置すべきではない。大衆迎合というのはバラエティー番組とか占い師とか無責任な人生相談の仕事である。単なる気晴らしによる満足と、社会安全性に関わる判断を混同して良い合理的根拠など全くないからである。




Ende;