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らしさ。

2012年07月25日 12時15分31秒 | 意識論関連

○人間らしさ。

 前回のサイエンスZeroのサブタイトルが「人間らしさの科学。」だった。

 人間「らしい。」なんていう、雰囲気もので科学もすったくれもあったものではない。

 科学というのは理論検証性に基づいた厳格なものでなくてはならず、「らしさ。」なんていう文系大衆観念的な解釈に基づいているのでは科学としての社会的役割を果たしていない。

 「らしい。」などという表面的でふんわりした基準で人間とは何かを科学的に検証することは出来るわけがない。外見上「らしい。」だけでどうして論理的人間性の論証が出来るであろうか。

 「らしい。」などという外見上の雰囲気を判断基準にしても、ヒトという種の生物の論理的安全性の証明には全くならない。外見上の雰囲気を判断基準にしても気分的な安心の追究をしているだけであって、このような気分的安心満足ばかりを追究しているから合理的な安全性が蔑ろにされるのである。

 「らしい。」という外見ばかりを論じても、本質ははぐらかされるだけである。

 文系観念者というのは、外見上「人間らしい。」ことを抽出枚挙して気分的に安心することばかりを追究しており。何ら科学的合理性のある「人間性とは何か」については全く考えようとはしない。 

 生物学者等は気分的に安心し、精神的に満足することによって、論理的思考検証性を放棄することばかりを追究しているのである。それは哲学者がドストエフスキーやニーチェに精神的救済ばかりを追究して論理的人間性とは何かを無視しているのと同じ怠慢である。

 ヒトの多くは「気分=行動」という短絡的行動原理しか選択できないからといって、気分的安心満足ばかりを優先して自律的に自己の情動を抑制することを放棄する言い逃れにすりかえるべきではない。

 それこそが人間性の放棄であるからだ。

 ヒトという種の生物は、既存の動物本能的行動習性に無為に流されることなく、本質的合理性追究によって自律的に社会的責任判断を下すことによって、はじめて「人間」ということができるのである。それを「難しい。」だの「やりたくない。」だの気分や傾向だけで放棄するのはヒトの傲慢に過ぎない。

 哲学者の多くがバカで、本質的合理性追究こそが人間性の論証であることを認識できず、「大勢を占めていない。」から無視するというのは、単に多くの哲学者達が自律的に論理検証が出来ないバカなだけであり。文系大衆観念による気分的安心や精神的満足/救済ばかりを追究して思考停止している現状を放置するというのは「バカの多数決。」に過ぎず、何ら論理的思考が働いていない。

 臨床心理医学的に精神が崩壊しており、理論的思考が困難な「患者。」の治療であるなら精神の救済も必要な場合もあるだろう。しかし、患者でもないのに精神的満足だけしか追究出来ないというのは許されるものではない。

 東電幹部達にとって、組織の利益を追究し、社会の安全性を無視することは「精神の救済。」なのである。それはオウム教団が毒ガステロにまで暴走したのと同じ精神の怠慢である。

 論理検証という「考え」を放棄し、自律的判断を放棄し、気分的安心精神的満足ばかりを追究しているから無意識が促す暴走を誰も止めることが出来ないのである。

 オウムや東電といった暴走の「結果」だけを糾弾しておけば気分的に満足であろう。しかし、彼らが犯した暴走の構造を理解し、今後の自己の行動における暴走性の抑制に活用できなければ、ヒトが起こす暴走「人災」は一切減らないであろう。減る合理的根拠が全くないからだ。

 ハインリッヒの法則では、一つの重大事象の陰には多数の予兆が隠されているという。実際に暴走の結果的に発生した重大事象を糾弾しているだけでは、本質的な予防「想定」には生かされることはない。

 ヒトの多くは権力や金に服従し、自律的に社会的責任判断をしたがらない。東電の暴走というものも、東電を構成する圧倒的多数の社員達による集団主義、集団迎合性によって問題が隠蔽放置されていたのである。幹部だけを糾弾しておけば良いという短絡的な大衆観念では本質を見失うだけである。

 責任者への服従迎合によって、多くのヒトは自分の自律的責任判断を放棄できるものであると簡単に錯覚する習性傾向がある。多数派同調バイアスというのは、言い換えれば目先の多数派に迎合するヒトの行動習性なのである。

 だから文系大衆観念ばかりが優先温存され、自律的論理検証が全く進まないのである。

 多数派同調バイアスや正常性バイアスというものは、災害避難の時だけの問題ではなく。あらゆるヒトの行動選択において自律的判断を阻害する本能的無意識行動バイアスである。

 何が意識で、何が無意識なのか、その区別をするのは固定観念的な気分感情による拒絶や満足ではなく。あくまで論理検証に基づいた判断でなければならない。純粋理性批判をどんなに多数同調しても論理的証明には全くならないのである。

 「○○意識」と言われるものの大半は無意識行動バイアスを指すものである。無意識的条件反射行動を、それと認識せずに本能気分的に無意識行動バイアスに流されていた方が、気分的に安心で満足なのは当たり前である。

 だから多くのヒトは論理検証を放棄するのである。

 話を丸めて気分的な安心を与えておけば、多くのヒトは観念的に迎合し、論理検証や批判精神を放棄する習性傾向がある。逆に問題提起をして不安になるようなことを述べれば多くのヒトは観念的拒絶反応を示し、無視し、意識から外し、「なかったこと。」にする。「ことなかれ主義」というのはこうしたヒトの普遍的行動バイアスによって作り出されるものであって、そこに本質的意識、検証性が失われているから「ことなかれ主義」に陥るのである。

 オウム信者にとっては、教団の異常性を無視しておくことこそが「ことなかれ主義」なのである。それと同じで文系大衆観念者達にとっては自分達の異常性を無視し、論理検証性に基づく自律的社会安全性判断を放棄無視しておいた方が安心で満足できるのである。それを傲慢怠慢と言わずに何と言う。

 バカならこう反論するであろう、「だって、にんげんだもの。」と。それは人間性の論証ではなく、単なる生物種としてのヒトの傾向習性に同調して安心満足しているだけである。

 バカ同士で多数派同調していれば安心であろう。「赤信号、皆で渡れば恐くない。」のと一緒で、気分的に「恐くない。」からこそ原発の危険性を放置し、毒ガステロは実行されたのである。あらゆる「人災」ヒトが引き起こす問題行動の裏には、こうした多数派同調バイアスという無意識行動習性傾向が作用しているのである。

 「だって、みなさんお金が欲しいでしょ。」を正当化するなら、原発を暴走させたことも、粉飾決済も、あらゆる利己的行動の全ては許されることになるのである。

 それはただのバカでしょうが。

 世の中にバカしかいないのであれば、世の中が崩壊するのは必然的結果である。ヒトの多くは「誰がが何とかしてくれる。」などと、英雄天才神仏に責任を丸投げしておけば自律的責任判断を放棄出来ると錯覚し、安心満足することができる。こうした権威依存性バイアスこそが、個人の自律的社会的責任判断を誰もしなくなる根源的原因なのである。


 文系大衆観念に迎合することしか頭にない生物学や哲学、人文諸科学の無責任性を放置すべきではない。大衆迎合というのはバラエティー番組とか占い師とか無責任な人生相談の仕事である。単なる気晴らしによる満足と、社会安全性に関わる判断を混同して良い合理的根拠など全くないからである。




Ende;

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