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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

セシウム風味。

2011年06月02日 23時50分29秒 | 日記
 原発事故の直後に、北東からの風が吹いた時があったんだけど。この時おいらは「太平洋に流れていた放射能が吹き返しているかも。」って書いた記憶がある。

 その翌日NHKでは「デマに惑わされないで。」とか言ってたけど、その後東京の浄水場でセシウムが検出されて、「念のため乳幼児には飲ませないように。」とか言ってた。

 何が「デマ。」だよ、糞NHKめ。室山哲也じゃねえのか。チェルノブイリに詳しいとか書いてあったから。

 そういえば、事故後暫くしてからストロンチウムが検出されたとか言ってたけど。「検出に時間がかかるから、隠蔽してた訳じゃない。」とか言ってた。

 検出できない物質は公表しないって、それは隠蔽ですけどね。検出に時間がかかる物質を調査中であるなら、それは調査中であることを発表するべきなんだけどね。

 ああいうメタボリックな体型の人間というのは、食欲に抑えが効かない本能優先の人間である可能性が高い。茂木健一郎とかもそうでしょ。

 デブが自信タップリに断言している場合は疑った方がいいかもね。傾向性の問題だけど。

 まあ、養老もヒトラーもアイヒマンも太ってなかったけどね。あ、でも酔っ払いであることは共通しているかな。酒呑んで話丸める奴は論理的思考が嫌いな奴だね。

 酒を呑んで意識を早く失いたいってことだからね。


 今、WBSで珪酸ソーダと凝固材の水ガラスの実験してた。凄い。一瞬でカッチカチやぞっ。

 ゼオライトっつう天然材料はセシウムを吸着するんだって。除湿機の材料じゃなかったっけ?。

 トレたまでUSB指輪採り上げてた。繁田と書いて「はんだ。」と読むらしいっす。ずっと「しげたみき。」だと思ってた。


自然回帰。

2011年06月02日 23時08分27秒 | 意識論関連
 原発の暴走によって物理科学への観念的忌避が生じているように思える。

 こうした多数の世間的な「気分。」を利用すれば、生物学的な観念を存続させることも簡単であろう。

 再生可能エネルギーであっても物理学であることに変わりはない。太陽熱スターリングエンジンであっても物理学に基づく機械なのである。

 それに対して生物学というのは、論理的思考の欠落したマスコミ大衆にとって、気分的に安心して「わかった。」ような気分に陥ることが可能な実証不能の観念が未だに存続されているため。物理学を忌避するには恰好の学問なのであろう。

 「人類は絶滅する。」と論ずる学者の論拠は、「生物というのは今までずっと大絶滅を繰り返してきた。」というものである。

 まあ、太陽系自体が寿命を迎えて地球がなくなってまでも生存にこだわる必要性もあるとは考えられないのだが。「いままでずっとそうだった。」ことをどんなに沢山枚挙しても、「これからも永遠にそうなるものである。」という論理証明にはなっておらず。これは科学的に断言できるようなものではないのである。

 今、爆笑学問でそんなことを断言していたバカがいたが、反証主義を無視して一体何を論証した気分になっているのだろうか。

 こいつは何者?。解説委員か何か?。

 室山哲也(むろやまてつや) NHK解説委員

 だそうである。こういうバカが解説委員をやっているからNHKは長谷川眞理子みたいなバカを使い続けるのであろう。

 太陽自体の寿命は現在半分程度であるという。つまり、地球が滅亡するまで46億年くらいあるということになるから、その間に人類がどのようになるのかは全く予測がつかない。

 だが、「絶対に絶滅する。」と言い張るのは科学的でも何でもなく、それを認めないことを「若いな。」などと言っていること自体、全く論理的証明がない観念であるからだ。

 どんなに沢山の白いスワンを抽出サンプリングしてきても、「スワンの全ては絶対に白い。」ことの論理的証明にはならない。

 にも関わらず、生物は今まで大絶滅を繰り返してきたことを根拠に「人類は絶対に絶滅する。」などと断言する室山哲也はオカルトに過ぎない。

 さあ、皆さんで室山をNHKから追い出しましょう。こういう無能な人間を飼い馴らしているNHKなんか要らないですからね。




共生関係。

2011年06月02日 19時44分39秒 | 意識論関連
 生物学上での「共生。」の全ては結果論であって、人間が意識的に選択する「共生。」とは異なるものである。

 本質的な意識に基づいて行動選択された「共生。」関係とは異なり、それ以外のあらゆる生物学上の「共生。」の全ては結果論である。

 これは「生存。」と同様に、結果的に「共生。」していたかどうか、その状態を指して「共生。」関係と呼称しているのであって。それを短絡的に人間の意識的行動選択としての「共生。」と混同するのはトンデモない大間違いである。

 本質的意識に基づいて行動選択された「共生。」関係とは異なり、それ以外の生物学的な「共生。」関係というのは結果であって、目的ではない。

 くどいようだが、特にマスコミは基本文系の者しかいないため、従来の生物学上のこうした観念の間違いを理解することができないらしく、未だに長谷川眞理子みたいなバカが学者扱いされており、呆れるばかりである。

 生物の結果というのは、特に意識的、目的的に「共生。」関係を選択してはいない。だからこそ共生以外の寄生や、一方的な捕食といった暴力的行動結果も存在するのである。どのような関係を成立させるかは意識的に選択されたものではなく、結果的にそうなっただけのことであり、これは正確には「選択。」ですらない。

 生物学というのは、こうした「結果。」であっても「生存戦略。」などと称して、あたかも目的意識的に選択された行動であるかのように言い張る。それが何の害があるのか理解できないのは、読者の意識狭窄によるアスペクト盲である。害については後述する。

 意識的に選択された行動としての共生以外のあらゆる生物行動というのは結果論であり、共生だろうが寄生だろうが捕食だろうが、そこに意識的な行動選択など存在しないのである。

 結果的に共生関係を求める情動行動をするとしても、そうした感情自体を促す大脳辺縁系の構造自体は当人の選択によるものではなく、これは正確には「意思。」ではない。

 どのような情動行動を促されようとも、当人の意識によって責任ある行動を自律的に選択するのは情動自体ではなく理性による論理的思考によるものである。公益倫理的な自律判断というものは情動とは無関係でなくてはならないものであり、本能的な結果とは切り離されなくてはならないのである。

 マスコミなどの文系の観念にとって、「人間は一人では生きられない。」だとかいう話に脳が「酔う。」ため、何が何でも結果論を正当化しなくてはいられないのである。

 正しいことをして「生きられない。」からといって、正しい選択をできないなどという話は正当化されてはならないのである。単に生物的に生存に適したとしても、人間として正しい行動を選択できなければ「生物種としてのヒト。」っであっても「人間。」ではないのである。

 長谷川眞理子などのバカ生物学者というのは、その場限りのこじつけばかりを繰り返しておいて、それを科学的であるなどと言い張るのである。マスコミの方も相変わらずバカなので、多数の権威が言うことを気分的に安心して垂れ流しにし続けるのである。

 人間として、意識的に選択した共生関係というものは。その場限りの観念に依存するような曖昧な行動選択ではなく。社会や時代、共同体や制度に依存しない自律的な合理的判断が必要不可欠なのである。

 東日本大震災をネタにして、あたかも共生こそが絶対であるかのごとく正当化しようとするのはふざけた話である。大災害に乗じてナショナリズムを振り回しておけば大衆の脳は酔うかも知れないが、公益倫理的な自律判断なくして共生もへったくれもあったものではないのである。

 それこそ気分的に安心して600万人のユダヤ人を死体に変換する計画書を、「前向き。」に作成することに邁進しておいて、「人は一人では生きられない。」だとか言っている場合ではないのである。これはバカの論理でしかない。

 たとえ生存に適さないとしても、多数決的な認証が得られないとしても、正しい判断をするのは結果的な気分や情動行動では決してない。「生きられない。」こと自体が無駄であるわけではない。

 生物学者共は、こうした話をすると、「結果的に生き残った。」などというふざけた話でごまかそうとする。単なる種としての「ヒト。」の生存自体が「人間としての価値。」にすりかえられてしまうのである。こんなバカげた話をマスコミ文系の人間の誰も間違いに気付かないというのは、これは「バカ。」という以外に形容のしようがないのである。

 単なる生物種としての「ヒト。」の生存自体に意味があるわけではなく、あくまで人格を伴った「人間。」としての存在にこそ価値を置かなければならないのである。

 単なる「生存。」だけを純粋に追求したからこそ優生学を振り回したのであり。共同体的な社会環境に依存したからこそホロコーストになるのである。そんな観念を正当化しては断じてならない。これは当たり前の話である。異論がどこにある。理論的異論など全く存在せず、ただ単に気分的に従来の生物学の観念を捨てたくないという気分による論理思考の怠慢がそれを促すだけなのである。

 生存も共生も全ては結果である。都合の良い話だけを抽出サンプリングしてきて、その場限りにこじつけていれば大衆凡民マスコミの脳は気分的に満足するのであろう。しかし、実際には生物の行動の全てが生存や共生によって成立しているわけでも何でもないのである。むしろ略奪とか暴力といった行動によって生物は「生存価。」に適していると言っても過言ではなく、共生といったものが成立するのはむしろ略奪や暴力といったものが蔓延しているからこそ稀に成立しうるのである。腸内細菌とヒトの共生関係だけを抽出しても、菌類の多くが人体にとって有害であることの反証になどならないのである。

 「みんなでといった仲良く共生だ。」とでも言っていれば大衆の大脳辺縁系は気持ち良く酔えるのであろう。

 生物学的な「結果。」論と、本質的意識に基づく「目的。」行動選択を混同するということは、犯罪者の行動であっても正当化されてしまう屁理屈なのである。これは犯罪者被害者や遺族に対する侮辱行為以外の何物でもない。

 通り魔が通り魔を行う屁理屈とは、「社会が悪い。」という環境依存性であり。「自分が満足に生きられないのは、社会のせい。」という意味である。これが共同体意識という無意識的な「社会形成習性。」が促す情動行動の結果というものである。こんな話が正当化されて良いわけがないにも関わらず、マスコミの愚かさによって生物学の非論理的観念は放置されているのである。

 多分、マスコミの言い訳は、「良くわからない。」といった極めて消極的な「理由。」であろう。「わかろう。」ともする気、意欲さえないのであろう。それは当然のことである。「気。」とは気分であり、感情であり、大脳辺縁系の促す結果的行動選択に過ぎないからである。それが赦されると思ったら大間違いである。

 つまり、マスコミやそれを消費する大多数の世間の気分によって、犯罪被害者や遺族達の願いは蔑ろにされているということなのである。

 バカ生物学者やマスコミの非論理的観念の振り回しによって、少数である犯罪被害者や遺族の意向は「なかったこと。」にされているのである。

 長谷川眞理子は単なる結果的な生存という価値観に基づく話しかすることはない。従って少数である犯罪被害者や遺族が何を求めていようが、そんなものはヒトという種の存続には影響を及ぼさないので、全く意識は働かないのである。

 現在の生物学のパラダイムにおいて、個人の尊厳などというのはどうでも良いものなのである。だから生物学界は「第二次大戦を経ても種としては遺った。」などとふざけた話を持ち出すのである。現在の生物学にとっては戦争が起こっても無為無策に受け入れる以外に何も対策をする気はない。ましてや犯罪など、もはや些細な特異行動としてしか扱われることはないのである。

 長谷川眞理子は、「将来日本人の犯罪が、増えるかどうか、楽しみ。」などと言っていた奴である。こんなバカを学者として扱い続けて良い訳がないのである。長谷川などの従来の生物学に基づいたパラダイムからは、犯罪の増減といった「結果。」以外の何物も追求するつもりはない。なぜ犯罪が増減するのかといった原因究明や、それに基づく対策といったものへの意識、意欲は全くなく。ただ漫然と結果を枚挙するだけの無為無策な観念を振り回すだけなのである。

 なぜ、こんな怠慢なパラダイムが放置されているのか。私には全く理解できない。

 マスコミというのは政治家の悪口だけを言っていれば「体制に迎合していない。」と気分的に満足するだけで。学術的権威者に対する論理的な検証や、それに基づく批判精神は全く存在しないのである。むしろ多数の生物学者達と同じ観念を共有して安心し、満足するだけである。

 通り魔が出て被害者が出る。それでも生物学上では「種としては絶滅していない。」だとか、「ヒトは概ね暴力的ではない。」などと平気で言う。それらは全て進化生物学的な結果論に過ぎず、概算的な結果論以外に何も言及することはない。

 彼らにとって犯罪などの「些細な。」出来事は、存在しないも同然なのである。

 現在の生物学にとってはホロコーストであっても「些細。」なのである。こんな生物学会の体制が続く限り犯罪の解析といったものは一切行われることはない。

 長谷川眞理子に限らず、養老孟司もそうだが、彼らはその場限りに取り繕うことに関しては天才的能力を発揮するため、バカな記者程度では丸め込まれるのがオチである。その場限りに都合の良い結果を枚挙しておいて、最後には「そういうものである。」と強弁することによって相手の論理的思考を不具にするのである。「なぜ、そういうものであると言えるのか。」といった徹底的な追求をすることが現在のマスコミ記者には誰もできないのである。

 むしろ、そんなことをするつもりも全くない。マスコミが目的としているのは公益倫理ではなく。単なる発行部数とか視聴率といった利益追求だけであるからだ。

 犯罪が減ることはマスコミにとって利益にはつながらない。むしろスクープが減るからだ。それならマスコミが公益倫理だの自律だのに興味を持たないのも当然であろう。

 「うちはボランティアじゃねえんだ。」

 それがマスコミの本音であろう。