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総帥 ラボ

総帥(何の総帥かは、秘密)の自己満足ブログ;宗教をベースに世界を騙ります♪

幽霊お化け3

2012年09月12日 | 宗教
まだまだ外は暑いらしいですね。
外に一歩も出なかった総帥の女は、クーラーのありがたみを感じてますよ。

前回から私がお邪魔していますこのブログ、
決して総帥のをハッキングしたわけではないので、
このページや前回投稿を見た方はご安心くださいね。
# 総帥はきっと、監禁などされるようなヘマもしませんし


私は、決してゲーマーではないのですが、
和製ホラーものは大好物で、
幽霊がなぜ怖いかとか、日本人の典型的な幽霊モデルについて考えてしまいます。

零というゲームがあります。
知ってる方もいらっしゃると思うのですが、
ホラーアクションのBIO HAZARDににたゲームシステムの作品の中で、
かなり人気のあるシリーズです。

古い日本家屋を散策して、幽霊を見つけたら写真をとって撃退。
なるべく近づかせて写真を撮るため、
恐怖に耐えれば高得点が狙えます。

でも、人気はそのシステムじゃないと思うのです。
現に、BIOもどきで鳴かず飛ばずなゲームタイトルも結構あります。
# それらがだめなゲームだらけというわけではないのですが。

ホラーアクションが怖い、楽しい、とプレイヤーをどっぷり浸らせるもの。
それは、十分に練られた世界観ではないかと思うのです。


世界観というとざっくりしていますが、
時代背景や舞台、人物などの設定、
あたたかみや冷たさなどのイメージ、
物語全体。
これらを丁寧に組み合わせて、お化け屋敷の様なウォークスルーを完成しているのです。

もう一つだけ大切な要素。
それは、「現実」での知識や経験にリンクしていること。
本当の話が混ざった階段は怖いですよね。
このゲームが面白いのは、きっと、
実際に存在していたり有名だったりする民間伝承や風習が、あちこちに畳み掛ける様に登場するところなんです。
# 民間伝承については後日総帥から、多分。

幽霊がいると思ってる人で、見たことないという人はたくさんいる。
でも、その恐れ・畏れは、自分の伝聞と照合して、あう部分、未知の部分、両方があるからではないでしょうか。
既知の不思議と未知の不思議が織りなすマスキング効果とでも言いましょうか。

何処かで聞いたことのある恐ろしい古い風習、
隠れた未知の部分に、ストーリーを準備すれば、
あとは皆さんの想像力だけで恐怖が完成する。
ホラーゲームの世界観、作ってみたくなりませんか?
そして、幽霊を怖がるその思考こそが、
自分の脳が作り上げる即席世界観なのかも。
本当の本当に幽霊がいるかどうかは別として。


ただいまの執筆は、夏バテ交代要員なので、
# つか、私が夏バテになったようです。
# クーラーバテにも気を付けましょう。
そろそろ総帥に戻ってきていただくとしましょう。
憎たらしいウィットに富んだ表現が恋しいですし。

幽霊お化けの考察の続き

2012年07月12日 | 宗教
昨晩の食卓(笑)に納豆があった。
7月2日期限のものが。
なぜこんなものが家にある?
まぁ食えたけどね。

納豆は期限切れてから旨いと仰る自称納豆通の方がいらっしゃる。
とある大学教授で、今度宗教やら民俗学っぽい話を
大学で一緒にお話しする約束だったんだけど現在病気療養中。
お話はいつでもできるからね、ともかく早く元気になって欲しいのです。

先生の回復を祈って、今回のお話を作成しました。


オカルトな体験には色々あるでしょう。
その中でも代表的なのが「幽霊を見た」というもの。

私に幽霊を見た、という人がいたら 先ず状況を訊く。
できるだけ詳しく。
だって私も見てみたいから。
次に、見たのがつい最近だとか、頻繁に見るという様子だと
病院に行くことを勧める。
眼科か脳外科か精神科か。

気分を害されるのは まぁ解るんですが。
怒らんと、冷静に考えて欲しいんだな。

上にあるものは上に見えます。
下にあるものは下、右なら右、左は左。
おかしいと思いません?
人間の目って簡単に言うと凸レンズ1枚なんですよ。
上下左右逆に情報が入ってきているはずなんです。
それが、上にあるべきものは上に見える。

つまりどういうことかと言うと、
脳内(か中継地点)で情報が変換されているんです。
# 具体的にどこだったのか、半年前くらいの Newton に載ってたけど忘れた(^^;
ということはですね、
入った情報がそのまま見えている(気になっている)わけではないのです。
今、目に見えているものは既に変換された情報なんですよ。

どの時点かでノイズが入ると、「無いところになにか有るように見える」などの
現象は十分に起こり得るわけです。
それが、疲れなど一時的な要因だったら別にいいんでしょうけど
頻発しているのであればちょっと診てもらった方が良いのではないかと。
そういう意味で「病院行け」と言うのですわ。


昔、私がいた大学で研究室を一般公開するイベント等がありました。
X線を出す装置が何台もあるところで、鉛の板が至る所に立ててあるような
部屋を一般の方々にご紹介するんです。
んで、時々「X線を浴びたのか気分が悪くなった」て人が出てきます。
本当に気分悪くなられて大変お気の毒なんですが、
残念ながらX線は出ていません。
放射性物質が部屋にあるわけではなく、装置の電源入れて
無理やりある金属(金とか銅とか)を励起状態にしてやらんと出ません。
公開中は装置の電源入れていません。

私の実家からの最寄り駅は、とある有名な遺跡があります。
#最寄駅と言っても徒歩じゃ無理な距離です(笑)。
結構観光客来ますよ。
これは親に聞いた話ですが。
遺跡を廻った人で、時々というか稀に「取り憑かれた」状態になる人が
いるそうです。
親の知り合いか、知り合いの知り合いの場合、
所謂「狐憑き」などの状態ではなくて、
どうも首の後ろに纏わりついていて、その憑かれた人に
時折ちょっかい出しているとかいないとか。
…それって、上記X線の例と同じじゃない?と思うのですが、いかがでしょうね。


人間の身体の不思議 なのか、
レンズに写っていないものでも“見える”ことがあれば
触れてもいないのに触られた気にもなれます。
存在しない放射線が人体を害する場合だってあるんです。
医学的なことは解らないけれども、
精神や体のバランスがやや歪んだ時に、
「その隙間に作用する感覚」ぽい。と思う。

幽霊を見た、という人は夜遅い時間に見たっぽいけど
話を掘り下げると実は遅くまで仕事した帰りだったりして
疲れがピークの時であったり、ね。
#全く見ない、感じない私は いつも全く疲れていないのか?

ここは出るぞ、とか ここに然々な人が眠っている、とか
言われたら通常無いような緊張を無意識に強いられて
バランス崩れる、とかあるんちゃいますかね。

例を知りませんが、触覚や視覚の他に聴覚もあるかもしれませんね。
呼ぶ声がする、とか。
その時呼ばれた人の体調や精神状態は どんなんなんでしょう。

くどいですが、私は霊やらその類を否定する者ではありませんよ。
幽霊お化け、須らく忌むべき対象になるわけではありませんし。
#これは後日、つーか先生と話したいことですわ。


不思議体験をした場合、自分は平常を保っているのかどうか
疲れていないかどうか、などを考えながら
清めの睡眠 とか
厄除けのためのご馳走 とかを味わって
ストレス無くして体調整えて貰えたら
不思議体験を引き摺る可能性はぐっと減ると思います。


とにかく、できるだけ心身元気でいきましょう。



御霊の杜

2010年11月28日 | 宗教
PCの調子が悪くていかんです。
同僚のTさんオススメの中古PC屋に足を運びましたが、
Tさんが言っていた値段と全然違っていてがっかりしました。
ネットで使用するくらいなら安くて多少古くても問題ないと
思っておりますが、ちょっとこの値段とリスクじゃあ
釣り合いがとれない。
ということで購入を断念。

今日はちょっとお参りを兼ねて餅を食べ
今宮神社へ行ってきました。
何度も訪問している神社ですが、人が多くて中々餅を
食べることができません。
ん?

この神社は厄除けの神社として有名(だと思う)です。
荒ぶる祟り神による災厄に悩む人々が一生懸命
神の怒りを鎮めました。
鎮まった神は、厄除けの神様として人々の畏敬を
集め、今日に至っております。
…どこかで聞いたようなお話ですね。
天神様と同じですよね、経緯が。
祟りをなす荒魂が祀られて恩恵を施す和魂になる、と。

ただしこの神社、厄神は当然菅原道真ではなくて
素盞鳴命(スサノオミコト)です。
高天原(タカノアマハラ)で大暴れして、髪と爪を切られて
追放された天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟。
暴れん坊ですわ。
この神社で面白いのが、メインの御祭神は
この素盞鳴命ではなくて大己貴命(オオナムチノミコト)、
別名大国主命(オオクニヌシノミコト)で、
東に事代主命(コトシロヌシノミコト)、
西に奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)が
祀られています。
出雲ファミリーです(笑)。
この三神が祀られている本社の横に素盞鳴命が祀られています。



大国主は素盞鳴命の子供や子孫という説がありますし
事代主は大国主の子供、奇稲田姫は有名な八岐大蛇
(ヤマタノオロチ)のお話に出てくるお姫様。
生贄にされるところを素盞鳴命に助けられて
素盞鳴のお嫁さんになりました。
漢字から察するに、日本書紀に従っていますから
大国主は素盞鳴の子供でしょうね。
彼らが中心に鎮座して、素盞鳴命の荒ぶる性格を
抑えているという構造も持っている神社です。
相当、素盞鳴命の怒りが恐ろしかったのでしょう。
当時の人々の畏怖が伝わってくるではありませんか。

他にも月読社や織姫社といった、天孫系を祀った
社があります。
二社とも、境内では西の方角(多分)。
これも何か理由があるのでしょうか。
色々と妄想できて楽しいですね。

あとご紹介したいのは、これ。



阿呆賢(アホカシ)さんという奇石です。
お祈りして、この石を撫でる。
んで、石を撫でた手で患部をさすると、
病気が早く治るとか。
「性格を治す(直す)ためには頭をさするべきか、
心臓をさするべきか」と考えてしまいますが、
「こんな名前の石なんて怪しくて
しょうがないだろ」とも考えてしまいます。
でも、結構利用者の方いらっしゃいました。
名前を馬鹿にして、ごめんなさい。

今宮神社の東側には「あぶり餅」という
焙った餅を食わせてくれる店があります。
なんでも、日本最古の和菓子屋だとか。
食いたい時はいつも人一杯で行列までできています。
食欲全くない時は閑散としているのに。
今日も食べることができませんでした。
ま、私はいつでも来れますし、観光で来られた方に
優先的にご堪能していただくということで 退散。


西大寺訪問

2010年11月07日 | 宗教
最近、PCの調子がやたら悪いっす。
昨日も一生懸命ここに投稿記事書き込んでいたのに、
半ば過ぎたあたりでフリーズしやがった!

もうその記事を書く気力なかったんですけど
今日ログインしてみたら復元されていました。
すげー。
そのうち、加筆してUPします。

今日は大徳寺と平城京のどちらかを訪問しようと考えていました。
大徳寺は、アライグマ捕獲が目的(^^)。
平城京は、せっかく電車でふらっと行ける距離だから行ってみようかな、
と思っていただけです。

アライグマが一休さんの肖像画を破ったとニュースになっていましたが、
正直いって信じていません。
内部の者の過失でしょう。
それを暴けないものかな、と思ってお寺とその周りを見て廻ろうと
考えていたんですけどね、なんだか平城京のイベントで今日が最終だという
情報をキャッチしたもんで、今日はそちらへ行きました。

電車に揺られること、1時間半。
普通、こういう時は本を読んで時間を潰すんですが、今日は手ぶら。
景色を見るにも、いつも通っているルートだしなぁ。
退屈しないようにアライグマと格闘するイメージトレーニングという妄想を
やっていたら、アライグマ、木と木を飛び回って逃げる!
いかん、ムササビになってもうた(^^;
そもそもアライグマとか知らんしなぁ。
…とアホなことを考えつつ外を眺める。

昔から在る家、新興住宅地、駅の周りの雑多な建物群…
誰だか言っていた、「日本の住宅は各家ばらばらの建物で秩序がない、
景観として美しくない。」ということについて思ってしまう。
「別に、いいんじゃない」
秩序がある、どこも同じような建物ばっかりだったら今度はきっと
「個性がない」
と言われる。
同じような建物が並んでいるところも通ったけど、
そんなに美しいものには思えなかったし。
美しくない、秩序が無い、と言う人はきっと西欧の建造物をイメージしている
のではないかと勝手に予測してしまうけど、あれは私に言わせれば
都市防衛のための機能美だ。
この日本で同じ建造物を並べたところでこの手の美しさは手に入らないと思う。
ま、私は実験屋だし、やってみたらどうですか?と思います。
京都や奈良の一部で実際に試しても良し、
コンピュータ駆使してシミュレーションしても良し。
面白いと思う。

そんなことを考えていたら、西大寺に着いた。
駅から出てびっくり。
何もない…
腹へっているのに、店も開いていない…
平城京跡へは、徒歩かシャトルバスで行くらしい。
食べ物を供給してくれるところがないかと私は歩いていく。
そういえば、今朝食ったのは
「ジェムシードレス(種なし)」
ってブドウの一種(だと思う)だけだった。
わざわざ種なしと銘打つからには種があるタイプもあるんだろうな、と
何気なくパックのラベルを見たら
「JEM SEEDLES」でした(^^;
種あったらアカンやろ。

夜はバー、昼はカレー屋さんという店に入って牛ミンチカレーを食べた。
真っ黒に焦げたミンチカツと、ルーが少ないご飯いっぱいの
カレーライスで腹を膨らませて平城京跡へ。

平城宮跡(平城京跡ではないらしい)資料館はね、面白かったよ。
あれは残すのかな。
木簡や食器類とか、私は十分楽しめました。
奈良といえば南都六宗が有名ですが(昔、ちょっとご紹介しましたよね)、
陰陽道もこの時代から取り扱っていたご様子でした。
クリスマスも盆も正月も楽しめる日本人のルーツが見えたような気がして
なんか嬉しい。
日本人は宗教に対して節操が無いようなことをよく言われますが、
#以前私もそう思っていました。
そうではなく、大部分の日本人は宗教をテクノロジーやシステムの一つと
考えているんですよね。
幸福を得る、幸福感を味わうための。
「聖(ひじり)」の語源が「日知り」ってことからも分かるように、
暦を読む、天候気候を知る、操れることを古代の為政者は求め、
それができる人ほど尊い存在であり、それができる技術や体制を
為政者は独占して政治(まつりごと)に使おうとしました。
勿論、収穫の向上による政局の安定のためですよ。
時代と共に、一般民衆にも“機能的な”宗教は広がりましたが、
求めることは同じです。
それが宗教本来の役割や存在意義から外れているか、というと
決してそうではないところが面白いと思います。
ま、一神教はどうしても保守的排他的になりますから、
そういう方に対しては気を遣う必要がありますけど
基本的に何でも楽しんだらいいと思います。

閑話休題。

復元された大極殿とかはね、う~ん、いまいち。
パレードなどの催しは多かったのですが、個人的に
期待していた雰囲気とは全く異なっただけに、どうも馴染めませんでした。
カップルで来られた方や、家族連れの方々は楽しめたかもしれません。

見通しの良いところにも関わらず、相変わらず方向間違えて難儀したものの
漸く西大寺の駅まで戻れました。
海外難民救済のための募金活動を、子供達がさせられていました。
お揃いのジャージ着てね、一生懸命なんですよ。
煩くてしょうがない。
全て子供達が発案して実行しているかというとそうではなく、
その証拠に保護者みたいな大人がついている。
何かの罰ゲームかも知れないけど、前面に大人が立たないと格好悪いでしょ。
なんか、いやらしいなぁと非道と言われそうなことを考えながら素通り。

さて、次は地名にもなっている西大寺を見物です。
このお寺、「真言律宗」なる珍奇な宗派を名乗っています。
何が珍奇かというと、顕密混交。
真言宗は、立派な密教。
律宗は、立派な顕教。

わくわくしながら(多分)裏手から入ってみたら…何のイベントだ?



受付をやっていると思われる女性に何をやっているのか尋ねたところ、
表千家の40周年イベントと、奈良の青年会(だったかな)発足のイベントを
併せてここでやっているそうな。
ここは野点で、寺内あちこちで何かやっているんだって。
貸切?観光できないの?と訊いたら、特別立ち入り禁止とか、
そんなことないから一般人も観光していいよ、とやや上から目線のご回答。
ま、言葉のアヤってやつでしょう。
調べたら分かりそうなことだけどちょっと質問してみた。
「あの布のようなものの折り方が違うとか、手前はその程度しか
表と裏の違いを知りませんが、他にどこが違うんですか?」と。
その女性曰く、お茶の点て方が違うと。
「裏さんは泡を立てますが、表はそんなに立てません」
だそうな。
いや~、どうもありがとう。
でも、それで表と裏って別れているのもよう分からんですな。
ついでに、これは別の方から聞いて知っていたけど質問。
「お茶で最後に啜るのはなぜですか?」
ちょっと怪訝な顔をされました。
質問悪かったかな?
「ほら、こうやって飲む時の最後にずずずーって音を立てて飲むでしょう?
あれは、見事なお手前でしたよ、とか飲み終わりましたよ、とか
そんな意味があるんですか?」
しまった、余計なことを喋ってしまった。
「あぁ、そうです。美味しくいただきましたとか、飲み終わりました、という意味です」
…失敗した。

お忙しいところ、ご丁寧にどうもありがとうございました、と
その暇そうな女性に頭を下げて歩く。

途中のお堂で仏像を見る、お花を見る。
秋ですなぁ。

聚宝館に300円払って入る。
おぉ!
仏像がいっぱい!
いいねぇいいねぇ。
版画みたいなものや曼荼羅の厨子もある。
数は少ないかもしれないけど、これは面白すぎてお得だな。

満足して外に出て、うろうろした後に愛染堂へ。
ここでは秘仏である愛染明王を今開帳しているらしい。
じ~~っくりと愛染明王像を眺めていたら、
「それ、違いますよ。こっちが秘仏です」と
観光客らしきお姉さんが教えてくれた。
あ、ども。
ありがとうございます。
一体は外に出されているけれど何故か二体愛染明王が並んでいるから、
私が勘違いしていると思って親切に教えてくださったんでしょう。
#実際勘違いしていましたけど(^^;
仏像のどこがどう素晴らしいのか、全く解説できません。
だけど、楽しいんですよね。
でっかい茶器も見て、ここも満足して外へ。

近代的ではあるけれど、大きな仏像が奥に立てられているのを見つけたから
そこへ向かいました。
手前にテーブルがあり、ここでも表千家さんの催しがあっているご様子でしたが
先ほどのお姉さんの言葉を信じると問題なくこの仏像を見れるはず…
だったけど、そこでは止められた。
ちょっとだけ、腹立った。
千利休が泣くぞ!とは思いませんが、なんだかなあ。
全部見て廻れないと思ったらバカらしくなって帰りたくなった。
また来ればいいさ。

来た道を引き返して歩いていると、壊れた土塀がどうも気になって
しゃがんで中を覗いたり写真撮ったりして遊んでしまった。
いつ作られたのか知らないけど、こんな構造なのね。
なんか弱々しい(^^;



野点の会場では、人もまばらで茶席の掃除を女性がしていました。
その女性と背景になっている赤白の幕が重なる光景を見て
「侘び寂びって何だろうな」
と呟いて西大寺を後にしました、とさ。

おわり

mirror symmetry

2010年10月22日 | 宗教
職場~自宅まで、電車に1時間前後乗って通勤している。
遠いけれど、会社の近所に住んでしまったら何時まで働かされるか、
休日あるのかどうか、ちょっと身の危険を感じているので当面このままで。

それに毎日2時間ほど本を読めると思ったらそんなに悪くはない。
幸い、大混雑になる路線ではないので読書に然程支障はない…と思っていたが。

電車待ちで皆並んでいるのにそれを無視するいい年したオッサン、
注目浴びる程の大声で電話するオバハンに若いおねえさん、
混んでいるのにリュック背負っている人達(不思議と小学生が
ランドセル背負って乗っているのは微笑ましい)、
しゃがみこんで話に夢中の小学生、
降りようとしているのに乗り込んでくるアホ、
酔っ払って足投げ出して寝ているオッサンetc...
ごく一部の、気にしなければ良い対象だと思ってはいるものの、
字義通りの有難い存在は疲れをちょっと増幅させてくれる。

なんだかなぁ、時と場合によっちゃ自分もああなってしまうのかなぁ、と
思いながら本を開く。

今週は紹介してもらった本が日曜日に手に入ったので、それを読んだ。
2冊のうち、薄い方の本。
仮名の無い文章というか漢字の羅列を目で追うのに少々飽きていたから、
楽しみにしていたけどこの本もまた難しそうな(^^;
本というより小論文集の冊子で、ほとんどが医学絡みっぽいぞ?
まぁ紹介してくれた人は医者だし、ある程度予想できたことだが、
まえがきもやけに堅苦しいし、ちょっと敬遠したくなった。
どうやら医学ではなく弁証法を学ぶための本のようだが。

気楽に読みたいんだよ!

と心の中で叫びつつも観念して頭から読み出したら…面白いじゃないですか。
医学の専門用語は完全に読み飛ばして読んでいたけど、
話の作りは上手いし、論旨はしっかりして筋が通っているし、
表現方法も豊富で駄文なぞ、ない。
医学知らなくてもすいすいと読める。
医者か医学者か知らんけど、この人達すごいな、
仕事の片手間にこんな立派な文を書けるんだ、と感心しきり。

なるほどね、
そう思うわ、
難しい漢字使うなぁこの人、
演繹法使っているけど胡散臭いな、
これは詭弁だろ、まぁ後でフォロー入っているけどさ、
そうだったのか、

等など、意外と楽しめた。
それでも、高々2百頁強の冊子に1週間近く要するとは。
それほど深く考えながら読んだわけでもないのに、ちょっと悔しい。
仕方がないとはいえ、こんなにきっちりとしたお堅いものは、読んでいて疲れる。
遊びが欲しい。
それと、これが一番の理由だとおもうが、
きっと、妙な引っかかりというか違和感を覚えながら読み進めていったから
読むのに時間がかかったのだろう。

ここで弁証法というのを私なりに簡単に説明すると、
弁証法とは
「ものごとの本質(首根っこ)を理解する(掴む)方法」
だ。
この本にも書いてあったソクラテスは、ある「ものごと」について人に問いかけ、
その回答に反論してまた疑問をといかけて、それについて回答をもらい、
さらに反論して…を繰り返して「ものごと」を深く掘り下げていった。
これは弁証法の一例だ。
一例、と表現したとおり、本質を掴むことに唯一無二の方法など、ない。

んで、この本の読者には否定されるかもしれないが、
この本(というか冊子)の主旨は
「個々人が弁証法を理解し、それを駆使して医学の体系化を図る」
である。

体系化、大いに結構な事だと思う。
是非実現してもらいたい。
医学以外の科学分野も、細分化されていて包括的に見れる人は少ないと思う。
私自身、そのような目を持つ人間になりたかったが、力及ばず現在大波に揉まれながら
大海を揺蕩うだけの状態だ。
足掻いてはいるけれど。

しかしながら。
著者の皆さんがヘーゲルやマルクスを支持されているのは別段構わないが、
(ヘーゲルは知らんが)マルクスは科学万能主義の唯物論者であるがゆえに、
宗教や空想を否定していることは気に留めておくべきだろう。
この著者達が「“医学”の体系化」を目指している時点で
自ずと範囲を限定している、換言すれば宗教など対象から除外していると
考えれば差し支えないようにも捉えられるが、
そのような立場で専門分野の細分化を嘆きつつ体系化を主張したところで
果たして医学の体系化を彼らは実現できるのか?
と疑問に思う。
確かに、怪しい治癒や輸血の拒否など、問題は多いと思う。
医学に無知な私でさえも。
それでも、(死後の話ではなく現実に)信仰が病に苦しむ人を救った例は、ないの?
あったとしても「免疫が向上して云々」で説明できるの?
今は説明できなくても、医学を体系化できたらそれで全て解明できるというの?
その信仰、というべきか心の拠り所まで医学に取り込めるの?

医者には治せなかった病を何とかという宗教の人(神道系)が治した、
という例を知っていることを一応断っておく。
# 本人から聞いた話だが、本当に医学で治せなかったのかは不明。

しかも、この著者達の主張や目指すもの、考え方が何かにそっくりだ。
それが気になって仕方がない。
この違和感を抱きつつ最後の投稿を読んで、漸く違和感の正体が判明した。

曼荼羅。

宇宙の理、理の本質を絵で表したもの(例外あり)。
特に密教では、言葉では表現できない真の理として扱う。
この本の著者達が作りたかったのは、
「医学界の曼荼羅」
なんだな。

仏教では悟りの境地に辿りつく方法は、一通りではない。
様々な方法があって、それぞれの道標が経典である。
その中の一つの経典に沿って悟りを目指す派閥が、いわゆる「宗派」だ。
「宗派」を著者達が言う細分化された、病院で言うところの「~科」と置き換え、
「曼荼羅」を「体系化された医学の図」と置き換えてみたら、どうだろう。
鏡面対称ではないか?
少なくとも私には、同じ構造をしているように見える。

最澄は、あらゆる経典に精通して真理を理解しようとした。
それに対して空海は、経典は所詮池に映った月だ、
経典を読んだだけで真理という月を掴めるものか、と最澄の姿勢を批判した。
経典にて表されるのが顕、言葉で表せるものではないのが密。
これが顕教と密教の違い。
大雑把な説明だけど。

どちらが正しいのかなんて私には分からない。
ただ、これを弁証法、特にマルクスやヘーゲルの唯物論的弁証法と対比して
眺めてみるとなかなか面白い。

「はじめにロゴスありき」はキリスト教。
一神教(てかキリスト教)はロゴス(ことば)と神が同一。
神を否定して宗教を阿片と喝破したマルクスは、科学万能主義。
このマルクスの武器は唯物論的弁証法。
ギリシャ哲学では、ロゴスは真理を構成することば。
それと、曼荼羅。
面白いよね。
神というか宗教と言うか信仰というか、そういうのに目を逸らしても、
見ているものは鏡に映った自分の姿であり宗教の映った姿。



突然話変わるけど、写真の花、イヌタデと言うらしい。
「蓼食う虫も好き好き」の蓼の一種。
こういうのに詳しい人がいるのよ。
植物や動物、昆虫に非常に詳しい人が。
専門的に学んだわけでもないのに。
ひょっとしたら、私がどうしようもない無知なだけかもしれないけど、
このような細かい分野の知識を持つ人は敬うべきだ。
宇宙の理なんて関係なく、興味があるから調べたい、知りたい。
そんな動機で動く人もいれば、体系化を優先させる人もいる。
それでいいんじゃないのかな。

この本の著者達の意図するところと全く外れたことだし、
同列に語られたら怒り狂う人もいると思うけど、
狭い範囲だろうが細かい分野だろうが興味持って手を出しても
宇宙を構成する一要因として…と考えながら手を出しても、
掴んだ花は同じ花だ。
掴んだ人も、同じ宇宙を構成する一要因だ。
ただ、掴んだ箇所や見方、心情が違うだけで。
それぞれが、どうやって掴んでいるか、眺めているかの“違い”の認識は重要だ。
心情を無視したら、同じ花を見ているとは一生気付かないかもしれないよ。

そう思うから、面白く読ませてもらったけれど、
彼ら(著者達)とは仲良くなれそうにないな。
てか、歯牙にもかけられないか(笑)。
だけどお医者さん医学者さん達には、自分達の立ち位置を認識しあって
敬い合っていってほしい、と思う。



幽霊お化けの考察

2010年03月18日 | 宗教
さっきシャワー浴びる時に自分の顔を鏡で見たらすごかった。
思わず笑ってしまった。
こういう顔、見る人が見たら「憑かれている」と言うのだろう。

ついでに。
得意気に話しているから、ここでも以前書いたかも知れないが、
勝負事などで「ツイている」「ツキがある」とされる表現の
「ツキ」は「憑き」であって、“何か”が乗り移っている状態をいう。
だから、自虐的もしくは言訳ぽく「ついてない」というのは何も
憑いていない状態だから、普通というか正常な状態なわけで、
「ツイていなかったから負けた」と言ってしまうと「実力で負けた」と
本来解釈すべきである。
まぁ一般的には、こんな重箱の隅をつつくようなことは考えもせず、
優しさを以って慰めの表現としてくれていて それで機能しているからそれでいい、と思う。

さてさて。

オカルトな話が好きで、某巨大掲示板に投稿された怖い話のまとめサイトなどを
放浪して読み漁っている。
# 現実逃避のために。

皆、語るの上手いね。
時々、もの凄く面白い話を提供してくれるストーリーテラーがいて、こういうのを
無料で読めるのは嬉しい。
一気に読んでしまう。
個人的に、師匠シリーズの「先生」が好き。
細かいことはいい。面白い。
暇やったら、「師匠シリーズ」「先生」で検索して読んでみてください。
#怖くないけど、オカルトですので自己責任で。

んで。
こういう話を読んでいると、ストーリーとしては面白いから良しとしても
気になることが出てくる。
簡単に言うと、
「物理の常識に反する」
である。
オカルトだから当たり前でしょ、と言われたら実も蓋もないんだけど
だがちょっと考えてみてほしい。

「重力」は古来から常識だったとしても、「万有引力」は時代が時代ならオカルトである。
「金縛り」や「人魂」はオカルトでも、一応現在は説明可能である。
「神隠し」は「口減らし」の暗喩だとしても、それだけでなく「パラレルワールドへの
移動」を示すかもしれない。

つまり、オカルトは現在物理というか科学で説明できないだけであって、
「オカルトだから」で完結させるのではなく、物理的に解釈する努力をする
のは非常に有意義なことである。
…苦しいか。

というわけで。
実際にそういうことをやっている人がいて、二番煎じになっているかもしれないけど
(二番煎じにすらなっていないかもしれない)、考察というか こじつけ に
チャレンジしてみたい。

いわゆる「オカルト的怖い話」を見聞きした場合、よく出てくるモノは
・幽霊(亡霊、悪霊)
・お化け(九十九神)
・妖怪
・鬼
・荒魂、和魂
・生霊(超能力)

かな。
# UFOや宇宙人、UMAは勝手ながら除外してます。
扱いに厄介なのが妖怪で、これは幽霊以外の他のを全部カバーしてしまう万能の言葉、
つまり「お化けや鬼類の総称」とする。とりあえず。

で、幽霊。
Yahoo!辞書の大辞泉では

ゆう‐れい〔イウ‐〕【幽霊】
1 死者のたましい。亡魂。
2 死後さまよっている霊魂。恨みや未練を訴えるために、この世に姿を現すとされるもの。
亡霊。また、ばけもの。おばけ。「―が出る」「―屋敷」

となっているが、「おばけ」を含んでしまうと(私が)困るので、都合よく
1の意味、即ち「死者の魂。亡魂」と定義する。

亡魂と定義された幽霊は、人魂と共に墓場によく出てくるのが代表格、というかイメージしやすい。
朧で実体がなく、死装束で足が無くて浮いているやつね。
私の場合、太鼓と笛の音、それに「うらめしや~~」という幽霊さんの声がセットになって
頭に浮かぶけど、多分実際に出会ったら楽器の音は、ない。
声は、どうやろ?

実体がないけど見えるってことは、何らかの物質なのだろうか。
タイトル忘れたけど、ある映画や、最近読んだ小説では、人間の死の直前直後では
体重(質量)が若干異なる。
実際のところ本当かどうかは知らないけど、仮に事実だとしたら、魂は「質量を持つ」。
質量はエネルギーに変換できる(特殊相対性理論)ので、幽霊は何らかの
物質かもしれないし、非物質(エネルギー)かもしれない。
どちらかは不明だが、「存在」し得るものと言える。

また、幽霊については、墓場だけでなく
「金縛りにあって目を開けたらら、いた」
という体験談がある。

私の場合「うっ、体が動かない…息苦しい…なんだこれは」という体験をしたことがあるが、
薄目開けてよく見たら、私の腹の上に猫が二匹仲良く寝てただけだった。
猫かわいい。

話を戻すと、えーと、いつの間にか部屋に幽霊さんがいる。
戸締りをしっかりしてて窓も閉めていたとすると、この幽霊さんは
1.鍵開けてドア(窓)開けて侵入した
2.扉か壁を破壊して侵入した
3.鍵もドアも窓も開けずに侵入した
4.湧いて出てきた
のいずれかである。
多分。

1の場合、(こじつけだが)幽霊はドアや壁に「作用する」存在と言える。
そう考えると、幽霊とは物質のように思える。
でも、ドアノブを回してドアを押す力ってどっから出てくるんだろう?
窓だとしても、一点に力を集中させたら開けられるの?
分からん。
磁力のような力で引けます?押せます?
窓やドアより(多分)ものすごく軽い幽霊さんには無理っぽい。

では2の場合、熱(非物質)で融かした(これも破壊ね)と考えられる。
仮に幽霊の質量を 1mg とすると、
E=mc²
から20t相当のTNT(トリニトロトルエン)の熱量と同等のエネルギーが得られるらしい。
これだと十分破壊できるし、侵入して人に目撃されることが可能だ。
だが、悲しいことに このような目撃談の場合、得てして壁や窓は壊れていない。

3の場合、考えられることは「透過」かな。
人間だって、壁に体当たりしてたら1億回に1回くらいの確率ですり抜けることが
できるらしい。
#その場合、かなりの確率ですり抜け途中で壁と一体化するはずだが。
この例が透過かどうかは別として、幽霊を物質と考えても…まぁあり得る話かな、と。
透過に拘って考えると、幽霊は宇宙線のような放射線、てか電磁波の一種であって、
窓や壁を透過し、都合よく回折して像を結ぶ…難しい。
考えていて頭が痛くなってきた。
現実的というか、私でも(無理やりこじつけだが)説明できそうなのは、
「幽霊という電磁波の一種が壁(窓)を透過し、空間に揺らぎを作って観察者に虚像を見せる」
いわば蜃気楼のような現象を起こす、と。
仮にそれができたとしても、人型というか幽霊型の虚像を見せるのは困難だな。

4の場合だと「無から有をつくりだす」ことを考えて、小説「「天使」と「悪魔」」の
反物質を連想してしまうが反物質は「無から有」ではない。
小難しい話だが、反物質と物質を作用させて 有⇒無 にはなるけど、
無の状態から有にはならない。
(映画は知らんけど)小説で言ってるのは、上記の E=mc² で
「エネルギーを質量に変換した」ようなものだ。
# だから小説読んでて違和感あるんだよね。
だからなんやねん、と言われると…湧いて出てきたという場合は「幻覚」ではないかと。
つまり、ここで定義した幽霊ではない、と思う。

以上、無理やり乏しい知識で幽霊を考察した。
「魂は質量を持つ」という仮定から出発したので、やたらと苦労した。
# だけど他に根拠を見出すことができないんだよね。
部屋に現れる幽霊は、テレポートや幻覚ではない限り、3のパターンが有力かと。
それもかなり怪しいけど。
だけど、部屋以外の場所なら、まぁ有り得るんじゃないかという気がしてくる。
ある質量を持った魂が、質量をちょっとずつエネルギーに変換していったとしたら…
見えてもいいよね。
というわけで、幽霊というか地縛霊というのは存在してもいいんじゃないかな。
この無理矢理な屁理屈では。

質量は有限であるから、やがてそれは存在しなくなる。
怖い体験談で、太古の人間の幽霊を見た例がない(少なくとも私は知らない)のは、
「有限だから」で説明できる。
動物の幽霊って例も私は知らないし、虫の霊も知らないというか多分存在しないのは、
人間よりも相対的に魂の質量が軽いから、と言える。
「じゃあ象とかキリン、恐竜の幽霊はどうやねん」と反論されたら…ごめんなさい。

今回の屁理屈の大きな欠点は、「魂の『意思』」を無視したこと。
これをうまくこじつけできたら、恐竜やら大きな動物の幽霊を見たという例が無い(少ない)
ことを説明できるかもね。


…あぁ疲れた。
思いつきでこんなことやるんじゃなかった。
後悔した(^^;

送り火

2009年08月16日 | 宗教
さてさてお盆も過ぎちゃいました。

皆さんは盆休み夏休みを満喫した/されたんでしょうか?

私は…何故か風邪をひいてしまいました(^^;
原因は分かりません。
まぁ仕方ないから寝てましたよ、はい。

そういや風邪とはちょっと異なりますが、インフルエンザが流行っているみたいですね。
気をつけようがないかも知れませんが、気をつけましょう。

今日は8月16日。
五山の送り火ってのが京都では有名です。
実は今まで見たことがありませんでしたが、今住んでいるところのベランダから
よく見えるんですよ(これがここに住む決め手だったりして)。
体調も悪いし、スイカでも齧りながら送り火を眺めようかとスーパー行きましたが、
高いね、スイカ。1/6か1/8だかのサイズに切られたスイカが4~5百円でした。
アホらし、と思って桃っぽい「紅りょうぜん」という初めて存在を知った果物を購入、
これが結構旨かったのは良しとして、え~と送り火、そろそろかとベランダに出たら
点火されてました。

携帯で撮れなかったのが非常に残念ですが、鮮やかでしたよ。
ウチから見えるのは東山如意が嶽の大文字(多分一番メジャーなの)ですが、
それをのんびりと眺めていたら…あらあら、もう消えちゃいました。

花火ほどではありませんが、儚いものですね。

この送り火ははっきりしたことは分からないみたいですが、盂蘭盆会(うらぼんえ)、
つまりお盆の行事の一つとして行われていたようですね。
この「大」の文字は弘法大師が書いた、という説もあるとおり、密教絡みかと
思っていましたが保存会はウィキペディアによると浄土院の(元?)檀家さん
らしいですから密教とか、そういうのは関係ないっぽいですな。
そういや「妙法」って送り火もありますからね、「送り火」というイベントは
一応仏教みたいですけど、そんな厳密なものではなくて日本的宗教観に基づく
行事であるか、比叡山の影響が大きいのか、どちらかなんでしょう。
#どちらも、というのもありえますが。

何を言いたいかさっぱり分からんと言われそうですが、まぁこういう伝統行事といいますか
宗教絡みの行事は非常に興味深いので色々あれこれ考えてしまうんですよ。
それに、空海が関係しているとなると、ひょっとしたら何か載っているかも
しれないなぁ、とちょっとだけ期待してなぜか手元にある古今和歌集を
見ていたんですけどね、徒労に終わった感があります
(時代的にちょっと被るから、というだけの理由でしたが)。


何はともあれ、送り火で精霊さんをお送りした、と。
皆さんはご先祖様に会えましたか?
お墓参りされましたか?


私は帰省していないので墓参りできていませんが、せめて護国神社には行きたかった。
あと古本市にも(^^)。
残念な盆休みでした。


古代現代

2009年08月06日 | 宗教
昨日の話なんですが。
厚さ2mmくらいの折れ曲がった金属板、蝶番くらいの大きさのを切断する必要が
あったんですが、手作業はしんどいってことで倉庫みたいなところに放置されていた
回転鋸で切ったんですけどね、2枚。
固定できないから手で持って回転刃に板を押し込んでいく、ちょっと熱そうだから
手袋、防爆眼鏡つけて準備万端…のはずが袖を捲り上げてたことを忘れていました。
あっついですね~飛び散る焼けた金属屑。
熱くて痛いけど、面倒だったんでそのままやっちゃったんですが。
両腕にぶつぶつとデキモノのような火傷の痕ができて、めちゃ痒かったっす。
今は大分治まりました。
最近、こんな訳分からん作業が多い気がする…

さてさて。
これも会社での出来事ですが。
今の会社、月の始めに全校集会みたいなもんがあります。
#以前紹介したと思います、多分きっと。
そこで、とある部長さんがスピーチしました。

梅雨明けが遅い、やっぱ異常気象なんですかねぇ…と続いて予想通りの
環境問題、二酸化炭素、エコ。

期待通りすぎて私の思考は別のところへ飛んでいきました。

その、飛んだ話の前に、簡単な今年の天候予想について説明します。
#まぁ復習みたいなもんですのでお気楽に。
気象庁が、マスコミやお役所が何を言うか知りませんが、
今は太陽活動が極小期なので気温は前年より低くなると予想できます。
太陽活動が小さいから直截的に地球を暖めるエネルギーが低くなるという話ではありません。
太陽活動が小さいと「太陽風」も弱くなってしまいます。
この太陽風は、宇宙から飛んでくる宇宙線を吹き飛ばす(誇大表現)役割を果たしています。
宇宙線が地球にたくさん降り注ぐと、雲が発生しやすくなります(端折りすぎ)。
従って、今年は雲が多い天候になると予想されます。
雲が多いと日光が反射・遮蔽されてしまいますので、地球の地表付近は
暖まり難くなってしまいます。

つまり

太陽活動⇒宇宙線の地球への飛来⇒雲の発生⇒気温
  大   ⇒      小     ⇒  小  ⇒ 高
  小   ⇒      大     ⇒  大  ⇒ 低

ということ。
この宇宙線の影響ってのは恥ずかしながら最近知ったことで、あんまり偉そうな
ことは言えませんが、これを知ってしまうと今年の天候はそれほど異常だとは思えません。
マスコミさん達は異常気象だとか、またまた温暖化してしまった!とか地球が危ない!!とか
言うかもしれませんし、怪しいデータを出してくるかも知れません。
できればそういうのは一切信用せずに、他に目を向けて御自身で判断されることを
お勧めします。
農作物の出来具合だとか、日焼け具合だとか。

太陽活動や宇宙線の影響ってのも完全に証明されたわけではないので、
こちらが間違いかも知れない。
今年、それが判明するんで個人的には興味深く天候や気温に目を向けています。
ただ、何度も言いますけど、あんまり公表される「気温」などの数値に
騙されないようにしてくださいね。あんなもん、いくらでも変えることができますから。
それよりご自身の感覚で判断して欲しいと思っています。
#あくまで希望。

それで、ええと。
太陽活動が「風が吹いたら桶屋が儲かる」的に気候変動をもたらす、
という説(一応実験では証明されています)を信用したとして。

・今年7月に日食がありました。
・もう8月なのに、快晴の日が少ない。というより雨ばっかり降っている。

特別恐れることはありませんね。

でも、仮に
日食がどうやって起こるのか知らない。
太陽活動の影響も知らない。
だったら、どうでしょう??

神話に出てくる「天岩戸隠れ」は皆既日食のことだろう、と過去日本で起こった
皆既日食を調べてみたら(私じゃありませんよ)卑弥呼の年代と重なった…という
興味深い話がありました。
古代のシャーマンというか統治者は天候予測ができる者、という説は
私から見ても非常に有力です。

多分、彼ら彼女らの一番の仕事は倉の中にある食べ物の管理かと。
豊作ならいいけど不作になりそうだったら断固として節約させないといけません。
冬を越せませんから。
洋の東西を問わず、天候の予測というのは古代為政者の特権と言うか特殊能力と
いうか義務と言うか、政治そのものだったと思われます。
民衆は、ある程度予想できる人がいたとしてもこのような為政者を畏れて
従っていたのではないでしょうか。
しかし、今年のように例外的に(特に古代では)予測が難しい事態が起こってしまうと
民衆の不満というより不安が大きくなります。
日食で驚愕して、雨続きで秋への不安が高まる…為政者は何をやっているんだ?!
となって為政者への造反が起こる、と。
卑弥呼も似たような状況で殺害されてしまったのかなぁ…などと部長さんの話から
飛んで古代に想いを馳せていました(^^;

さらに。
現代は古代と違って科学が発達した、とは言うものの。
情報を自分で掴まないでただ流れてくる情報に身を任せているだけだったら
古代も現代も大して変わらんなぁ、矛先が卑弥呼じゃなくて二酸化炭素に
なっているだけやん。
…と現代人を上から目線で眺めていました。

あちらさんから見たら私が馬鹿者なんでしょうけどね。



畏れ

2009年06月04日 | 宗教
昨日は会社を休んで一日寝ていました。
展示会の疲れがあったのか、ふらふらでしたんで。
もし、疲れだとしたら…自分の脆弱さが情けない(TT)

んで、その展示会の準備段階で「客寄せに何か作ろう」ということになって
私が選んだのが仏像みたいなの(^^)
お土産やさんで高さ20cm程度の安っぽい仏像(のミニチュア)を複数購入して、
ちょっと苦手な先輩の下に付けられてストレス溜まっていた新人君に加工を依頼。

その新人君、先輩社員に教えてもらいながら一生懸命やってたんですけどね、
さすがに難儀だったようで、うまく加工できない。
首んとこポキッと折ったり(^^;

それでその新人君、真面目な顔して私に言うんです、
「バチ当たりますかね…」
言われて暫く、彼が何を考えて発言したのかさっぱり分かりませんでした。
ですから私は眉根を寄せて、怪訝な顔していたと思います。
あぁ仏さんが怒るってことか、と納得した(多分正解でしょう)私は
「大丈夫、仏さんは優しいから。こんなんで怒ったりしない」
と回答しときました(^^)
仏に似ている(?)と言っても、所詮物は物。
第一、あんなの仏像たる基準を満たしていないし。
物を蔑ろにして良いというわけではありませんが、壊そうと思って壊したんじゃ
ないし、失敗も含めて彼の勉強になったのなら良いではありませんか。

私には彼の気持ちが簡単に理解できなかったとしても、多くの日本人の方は
彼の気持ちを理解できるのではないかと推測します。
ですから、ズレている自分が内心可笑しくて思わずにやけてしまいました。

自分がズレているといっても、こういった感覚を持つ人‐多分日本人ばっかりだと
思いますが‐、私は好きですよ。
一つの宗教や宗派に帰依しているわけではないけれど、神でも仏でも、神や仏に
似たモノにでさえも畏れと敬いの気持ちを抱けるというのは、その人の持つ
普遍的な(と言ったら言い過ぎですが)優しさの顕れだと思っています。

一神教の信者さんから見たら節操が無いと映るかもしれませんが、
なんというか、キリスト教徒も元々“太陽の復活祭”だったクリスマスを
我が物として祝っていますからね、それよりは可愛いもんだと私は思いますね。
#日本ではクリスマスがスペシャルイベントになっているところは未だに理解できませんが。

壊れたミニチュアを見て、笑いながら「バチ当たるんちゃう?」とか言っている
おじさんもいました。
なんだか依頼したのが悪かったような気分になりましたが、なんとか2体、
それなりに加工してくれました。

それで、展示会開催前日に会場に行って準備するわけですが…
やっとこさ新人君が加工してくれたミニチュアの1体、
私が落として壊しちゃいました(T_T)
無理やりくっつけて(目玉のはずが)目立たぬように飾っておきましたよ、ええ。
「縁起でもない…」
「不吉な…」
と散々言われましたとも、えぇ。

壊した身分でこんなこというのもなんですが、面白いですね。
「せっかく彼が苦労して作ったのに…」って言葉は出ないんですよね。
私はそればっかり、気にしていたんですが。
多分、そう思っていても不吉云々が先に言葉になるんでしょうね。
勿論、新人君には謝りましたけど、彼の苦労が展示会で報われなかったのが
残念でした。
気泡に帰したのは仏さんじゃなくて私なんですが(^^;
いや~本当に申し訳なかった。

だけど、面白い人間観察させてもらいました。(しつこい?)


ことあげ

2007年04月20日 | 宗教
あれれ?
なんだか思い入れ…ではなくて苦い記憶を蘇らせるものが…

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0704/20/news069.html

売ったのかなぁ。
私が発案した特許を結構使ってんじゃないの、これ。
何かと引き換えにしたんですかねぇ。
ちょっと悔しいものがありますけど…分解して調べて、使ってたら文句言おう。
# 多分明日にゃ忘れていると思われ。


今日、フランケンは某企業の最終面接だったそうで昨日はさっさと帰宅して備えていたらしい。
それを聞いて、ススキノに
「フランケンにメール送っていい?」
と聞いたら
「いいですよ」
と。
「『落ちろ!』って送っていい?」
と再度聞いたら
「それは止めてあげてください」
と。

言葉にはものを動かす力がある、という信仰が日本には残っていて、これを
“言霊”といいます。
昨日のフランケンの場合は、単に気分を悪くするだけにしかならないから
やめとけ、ってことなんでしょうけど。
私が「落ちろ!」と願って言葉にすれば、それが実現される方向に世界が動きます、言霊では。
この、実際に言葉にすることを言挙(ことあげ)といいます。

良かれと願って言挙すれば、それは「祝い」になって(祝詞ね)、
悪しかれと願えばそれは「呪い」になります(呪詛、か)。
呪文とか呪術の類、てか本家だと思ってます。

ただし最近は祝いも呪いも効かなくなったんじゃないでしょうか。
信仰が薄くなったというのではなく、言葉の氾濫がすさまじいというか
「使える言葉」が減ってきたためにある一言にあらゆる意味を込めて使うように
なってしまったからか、
同じ日本語でも「真の意味」は受け手と話し手それぞれ微妙に違ってしまって
「言葉の作用・反作用」というのが働かなくなったんじゃないかと。

…分かり難いかな。
お化けに「ナンマンダブ…」と言っても通じないように、同じ日本語の言葉でも
使い手によってニュアンスが違うから言挙しても作用しない、ただ反作用のみって
いう状態じゃないかなぁ、と思うんですよね。

何が言いたいかというと、別に何もないんですが(^^;
同じ言葉使って会話しても「ずれ」っていうのを感じると、これがストレスというか
胃が痛くなってしまうんですよ。
# 年ですかね。
自分の言葉にも限界があって、中々自在に使えないけれども。

十人十色というように、そういうのは許容というか納得の上でコミュニケーションが
成り立っているはずなのに、「それが社会」だと重々承知しているはずなのに、
時々、自分が取り残されたような錯覚を感じてしまう。

この、言葉のやりとりが面白いのにね。

言葉の無い世界っていうのにちょっと憧れを抱いてしまう、今日この頃。
…いい歳して。


P.S. 先ほど、フランケンから電話があって、内定もらったそうです。
   何故かとっても私に感謝してくれてます。

   フランケン、おめでとう!

                           …ちっ