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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

信仰とは何か、どのように信仰を持つようになるか

2019-04-20 12:24:04 | 賛美の心

   信仰とは何でしょうか?主にある多くの兄弟姉妹たちは、神様の御名を認め、根気よく聖書を読み、集会に参加し、祈り、更にはすべてを犠牲にして勤めさえできれば、自分は神様への信仰をもつ信者であると思っています。しかし、これは一面的な解釈です。実際、神様への真の信仰とは、私たちの精神と身体が精錬や逆境の中で大きな苦難に耐えるとき、それでも神様を誤解したり、神様について文句を言ったりせず、その代わりに神様に服従し、たゆまずに神様を信じ、神様に従えることを意味します。

  聖書の記録から私たちは次のことを知ることができます。ヨブがサタンによって誘惑されたとき、ヨブの家畜は盗賊に強奪され、使用人たちは殺され、子供たちは惨事にみまわれ、彼自身は体中に痛い腫物ができ、ヨブの妻は彼をあざ笑い、神様の御名に背くように言いました。これらの突然の災難に直面したとき、彼は心身ともに痛みに耐えました。しかし、ヤーウェ神様が彼から奪われたことについて文句を言わず、ヨブは「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)と言いました。彼は神様に関する強く顕著な証しを立てたので、これがサタンに恥をかかせ、サタンを負かせたのです。ヨブの神様への信仰を見て、神様は二倍にヨブを祝福し、更なる牛や羊と美しい子供たちを彼に授けました。そして最終的にヨブは年老いて死にました。ヨブは信仰の模範であり、主を信じる私たち一人ひとりが見習うに値する人物です。

  ヨブの証しからわかるのは、神様が彼を祝福したとき、ヨブは人の持っているものはすべて神様の祝福によるものであると信じていたので、彼は神様に感謝し、神様を礼拝し、また彼が神様の試練にあったときも、たとえそれを理解できず、心の中で痛みを感じても、彼はまだ神様に服従し、文句を言わなかったことです。これこそが神様への真の信仰であり、神様への人間の誠実な心なのです。「信仰とは何を指すのであろうか。信仰とは、あるものを人間が見たり触れたり出來ない時、神の業が人間の観念と一致しない時、また、それが人間の手に屆かない時に、人間が持つべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。人々は、苦難や精錬の時、信仰を必要とする。そして信仰には精錬が伴う。これらは切り離せない。」と神様の御言葉にあるとおりです。

  それでは、私たちはどうしたら神様への真の信仰を育てることができるのでしょうか?このためには、私たちは日々の暮らしの中で神様の御働きを実践的に経験し、その価値を十分に認識することが必要です。私たちの人生のための神様の支配と指揮と采配、また神様の権威と御業を見ることができ、それらを通して神様についての本物の認識をもつことができたとき、どれほど神様の御働きが私たちの観念に沿わなくても、それにもかかわらず私たちは神様への信仰を保つことができます。これはヨブと全く同じです。彼は神様について聞いたことはあっても、神様を見たことはありませんでした。しかし、彼は神様の権威を知り、すべての物事において神様の義を見ることができました。例えば、人間の運や不運、どれほどのお金を人が手に入れるか、生涯で何人の子供ができるか等、これらすべては、人間自身の計画や計算に関わらず、神様の権威の下にあることをヨブは知っていました。誰が邪悪で神様によって罰せられ、誰が心が優しく神様の恵みと祝福を授かるか等を、彼は見ていました。神様に関するこれらの認識があったため、彼は神様への真の信仰を育てたのです。ですからサタンの誘惑にあったとき、惨めではありながらも、彼はその享受していたものすべてが神様から与えられたものであり、彼自身の勤勉な働きにより手に入れたものではなく、また神様がそれらを取り上げられるのであれば、彼は神様について文句を言ったり、神様を誤解したりするべきではなく、神様に服従するべきであることを知っていたのです。ですから彼は神様に対して一切の要求をせず、神様の指揮と采配を受け入れて服従し、サタンの前で神様への顕著な証を立て、神様に受け入れられたのです。もう一つの例はモーセです。彼は四十年間荒野にいました。そこには誰もいなく、友人は昼は羊、夜は星だけでした。しかし神様に頼ることで、このつらい四十年間をモーセはついに乗りきりました。この経験を通して、神様の御手によってすべてが指揮され、神様にできないことは何もないと、彼は本当に実感しました。このような神様についての認識が、神様への真の信仰を育てる助けとなったのです。ですから、神様が彼にイスラエルの民をエジプトから導き出すように言ったとき、彼は神様の御前にひれ伏し、その任務をためらわず受け入れたのです。彼はどうしてエジプトの軍隊を一人で打ち負かすかなど心配せず、ただ単純に服従しました。これはすべての物事が神様の御手の中にあり、神様によって指揮されていると彼は信じていたからです。最終的に、神様への真の信仰に頼ることにより、彼はイスラエルの民をエジプトから導き出すことに成功したのです。

  ですから、もし私たちが神様への真の信仰をヨブとモーセのように育てたいのであれば、私たちの日常生活において神様の御働きを実践的に経験しなければなりません。特に何らかの苦労や悲惨な状況にみまわれたとき、私たちはまず初めに意図的に服従するべきであり、それから神様を仰ぎ、神様に祈り、神様の御旨を求めるべきです。これらを通して神様への真の従順を達成できたとき、私たちは必ず神様の素晴らしい御業を見、神様への真の信仰を育てることでしょう。この時点で、私はある新しい姉妹の経験を思い起こします。彼女が神様の新しい御働きを受け入れて間もなく、彼女は病気になりました。その後、病状はだんだんと悪くなり、顔面神経麻痺になる危険さえありました。そのころ彼女はとても弱く、酷い痛みに悩まされていました。しかし、祈りと神様の御言葉を読むことを通して、彼女はサタンが病気を利用して彼女をかき乱そうとしていることを理解するようになりました。この病気はサタンの誘惑であり、また神様の試みだったのです。神様の御意向を理解した後、彼女は神様に祈り、自分のすべてを神様に委ねて証しを立てる決意があると言いました。その後、彼女は驚くほど速く回復しました。このようにして、彼女はその病気のために神様から離れなかっただけではなく、神様の素晴らしい御業を見たことによって、神様に従う決意をいっそう強めたのです。また、一人の兄弟がいました。彼は最初に神様を信じ始めたとき、とても情熱的でした。しかし、その後彼は神様への信仰のせいで中国共産党に追われたので、家を離れて放浪者のようなホームレスの暮らしを余儀なくされました。これは非常に苦しく、彼は弱ってしまいました。後に、神様の御言葉を読むことを通してのみ、彼は自分の神様への信仰の不純に、その信仰が神様の祝福と恵みを授かるためだけのものであったことに気付いたのです。ですから彼は自分の神様への信仰についての間違った見方を正しました。その後、彼は厳しい状況の中において絶えず神様に頼り、福音を述べ伝えるその本分を尽くしたので、何度も中国共産党の追っ手から逃れることができました。このことを通して、彼は神様の素晴らしい御加護を身をもって体験し、神様の全能性と知恵も見ることができました。そして彼の神様への信仰はますます育ったのです。

  このような実践的な経験は、私たちが実際の状況において神様の導き、支え、助け、または懲らしめや鍛錬をしっかりと経験する限り、神様が私たちの中でなさることはすべて私たちへの神様の愛と救いであると理解できる、と教えています。そうすれば私たちは神様について真の認識を得、その全能性と知恵の偉大さを実感し、神様の義なる御性質が人間によっては不可侵であることをよりよく知ることができます。その時がきたら、私たちは神様を畏れる心を持ち、それによって私たちは神様への真の信仰を育てることでしょう。

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キリスト教讃美歌「神が人に授ける最高の祝福」

2019-04-19 23:37:12 | 賛美の心

キリスト教讃美歌「神が人に授ける最高の祝福」


神のことばの完成により神の国が形成する
人が正常に戻るとともに
神の国がここにある
神の国の民は正常な生活を取り戻し
今日は神の前に生き
明日は神の国で生きる
全地は喜びと温かい心で満ちる
神の国がこの地上にある
神の国がこの地上にある


凍える冬は常春の世界となり
人は悲惨なめに遭うことも凍えることもない
人の間に争いも国の間に戦争もなく
殺りくや流血もない
明日は神の国で生きる
全地は喜びと温かい心で満ちる
神の国がこの地上にある
神の国がこの地上にある


神は世界をくまなく巡り
その玉座から楽しむ
神は星の間に住み
天使は神のために歌い踊る
天使はもはや弱さのゆえに泣き叫ばない
天使は神のために歌い踊る
天使は神のために歌い踊る
神は天使の嘆きを決して聞くことはない
天使は神のために歌い踊る
天使は神のために歌い踊る


誰も労苦を訴えなくなる
今日は神の前に生き
明日は神の国で生きる
これは神が人に与えた最高の祝福ではないか?
神の国の民は正常な生活を取り戻し
今日は神の前に生き
明日は神の国で生きる
全地は喜びと温かい心で満ちる
神の国がこの地上にある
神の国がこの地上にある
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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人間生存のために神が作った最も基本的条件から、神が人類に与えるものが分かります

2019-04-18 22:30:25 | 日記

        人間の生存のためのこれら五つの基本的条件を神が取り扱った方法から、神が人類に与えるものが分かりますか。(はい。)つまり、神は人間生存のための最も基本的条件を作ったのです。同時に、神はこれらを管理し、制御し、人間が存在するようになって数千年を経た今も、依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人類にとって最善かつ最適な生活環境を与え、人間の生活が普通に維持されることができるようにしています。これはいつまで維持されるでしょうか。言い換えるなら、どれくらいのあいだ神はそうした環境を与えるでしょうか。神がその経営(救い)の働きを完了するまでです。その後は、神は人類の生活環境を変化させます。それは同様の方法によるかもしれませんし、あるいは異なる方法によるかもしれませんが、今人間が真に知る必要のある事は、神は人類に必要なものを与え続け、人類の生活環境を管理し、保存し、保護し、維持しているということです。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることができるのは、こうした環境のゆえです。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けています。

      たった今わたしが話をした部分は、あなたがたに何か新たな考えをもたらしましたか。あなたがたは、今では神と人類の最大の違いを感じますか。それでは、万物の支配者は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)それでは、万物の取り扱い方における神と人間の相違が何かを知っていますか。(神様は万物を支配して取り決められ、人間はそのすべてを享受します。)あなたがたはこの意見に賛成ですか。(はい。)神と人類の最大の相違点は、神は万物を支配し、すべてを与えるということです。神は万物の源であり、人間は神が与える万物を享受します。つまり、神が万物に与えるいのちを人間が受け入れる時、人間は万物を享受するということです。人類は神の万物創造の成果を享受するのに対し、神は主です。それでは、万物の立場から見ると、神と人類の相違点は何ですか。神は万物の成長様式を明瞭に見ることができ、万物の成長様式を制御し、支配します。すなわち、万物は神の目の中にあり、神の監視範囲内にあります。人間には万物が見えますか。人間に見えるものには制限があります。それを「万物」と呼ぶことはできません。それはただ人間の目に見えるものに過ぎません。もし人間が山に登ると、人間に見えるのは、その山です。その山の反対側にあるものは見えません。人間が海岸へ行くと、人間に見えるのは目の前にある海ですが、その対岸の海がどのようであるかは知りません。人間が森に辿り着くと、人間には自分の周囲と目の前にある植物が見えますが、その先に何があるかは見えません。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることができません。人間に見えるものは、目の前にあるものと、視野の中にあるものだけです。人間が一年間の四季の様式や万物の成長様式を知っていたとしても、万物を管理したり支配したりすることはできません。その一方、神の万物の見方は、あたかも神が自ら製作した機械を見るようなものです。神はそれぞれの部品について熟知しているのです。その原則が何か、その様式は何か、その目的は何かについて、神はこれらのことすべてを明白に知っています。それゆえに、神は神であり、人間は人間なのです。たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲内であり、その一方で神は万物を支配しています。それは人間にとって無限です。もし人間が神が行った極めて小さな何かを研究したならば、生涯を研究に捧げても、何ら実質的な成果を達成しないことがありえます。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのは、このためです。しかし、もし真理を求め、神を求める道を用い、神を知ろうとするという観点から神を見つめるのならば、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物の生命の源であると言われるのはなぜかを知るでしょう。そうした認識をさらに得れば得るほど、神がなぜ万物の主と呼ばれるのかを一層理解するでしょう。あなた自身を含めた万物、すべてのものは、神から安定した施しを間断なく受け取っています。また、あなたはこの世界で、人類の只中に、万物の存在を支配し、管理し、維持するこのような力と本質をもつことのできるのは、神を除いて存在しないことを明らかに感じることができます。あなたがこうした理解を得る時、あなたは神があなたの神であることを真に認めるでしょう。あなたがこの点に達する時、あなたは神を真に受け入れ、神をあなたの神であり主であるとしたのです。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのような点に達した時、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなります。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け入れたからです。このことは、神の万物支配と管理に関するこれらのことを伝える重要な理由です。このことは、人々により一層の認識と理解を与えるためであり、単にあなたに神の業を認めさせるだけでなく、それについてのさらなる実践的な認識と理解を与えるためです。

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讃美歌・聖歌「あなたの心を神に捧げれば神の承認を得られる」

2019-04-17 22:18:08 | 賛美の心

あなたの心を神に捧げれば神の承認を得られる


神を愛し信じるため
人は心で神の霊に触れるべきだ
そうすれば神の満足を得られる
また神の霊によって感動させられるよう
心で神の言葉に接しなければならない
信仰において心を捧げず
神の重荷を負わない人は
いつでも神を騙して宗教を為している
それでは神に称賛されない


あなたが心を神に注ぎ
その前で静かでいられるなら
聖霊に用いられ啓示を受けるだろう
聖霊はあなたに欠けているものを補う
心を神に捧げれば
霊の中のかすかな動きと
神の啓示の一つ一つを捉えるだろう
これを掴めば正しい道に入り
神に完全にされるだろう


人が神に心を捧げないなら
その霊は鈍く無感覚になる
そのような人は
神の言葉を正しく理解することができずに
神との正常な関係を持たず
その性質は変わらない
性質が変化するということは
自分の心の全てを神に捧げ
また神が言う言葉から
啓示を受けるということである
心を全て神に捧げれば
あなたはより深く入り
高いレベルの明察を得る
そして自分の弱さと欠点をさらに理解し
神の意志を熱心に満たそうとし
受身でなく、積極的に入ろうとするだろう
こうしてあなたが正しい人間であることが明らかになる

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真のキリストと偽キリストを見分ける3つの方法

2019-04-16 22:48:41 | 賛美の心

  主イエス様は仰りました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25章6節) 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3章20節)。 主の御言葉から、私たちは誰かが主の来臨の知らせを伝導するのを耳にする時、賢明な処女となって、それを積極的に探究し、調査するべきだということが分かります。私たちはこうしてのみ主の再臨をお迎えすることができるのです。しかし、牧師たちは、「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章23-24節)、という聖句を理由に、「主イエス様が再臨されたと宣教する人たちは偽キリストの道を宣教しており、人々を惑わせているので、信じてはならない」、といつも私たちに言います。これ故に、兄弟姉妹の多くがこのように困惑しています。「私たちは主イエス様の再臨を証言する人を耳にする時、前向きにそれを探求して調査するべきなのでしょうか、それとも、それを避けて拒むべきなのでしょうか?主の御心に従うには、何をするべきなのでしょうか?」この疑問について、私は真キリストと偽キリストを見極める方法に関する真理について、皆と交流したいと思います。この側面の真理を理解してさえいれば、私たちは偽キリストと偽預言者たちに惑わされる心配はないですし、消極的な守りの姿勢に入って主の再臨をお迎えする機会を逃すこともないでしょう。

  先ず初めに、この御言葉を読んでみましょう。「受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。」(「序文」より)。 これらの御言葉は、偽キリストたちを見極めるには、彼らの外見ではなく、彼らの本質に注目する必要があると明確に語っています。すなわち、彼らを見極めるには、彼らの働き、言葉、そして性質に注目する必要があるのです。では、主イエス様の御言葉を幾つか読んで、真キリストと偽キリストの実質的な違い、ならびに彼らの見極め方について話しましょう。

第1に、私たちは彼らの働きを見なければなりません

  主イエス様は仰りました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」(マタイによる福音書24章24節) 主の御言葉は、偽キリストと偽預言者たちは、主として、しるしと奇跡を行って神の選民たちを惑わそうとすると示しています。これが偽キリストが人々を惑わす最も基本的な方法です。次の節を読めば、この問題をより明確に理解できるでしょう。「この時代に、しるしや不思議を起こせる人が現れ、悪霊を追い払い、癒やし、多くの奇跡を起こし、またその人がイエスの再来であると主張したなら、それは悪霊が偽ってイエスのまねをしているのである。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。…人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならないのだが、神は今回決してそのようなことはしない。もし終わりの日に神がしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり癒やしたりしていたら──それならば、神はイエスの働きと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は、時代ごとにひとつの段階の働きをするのだ。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを悪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろからついていく。神は方法を変更する。一度神がその段階の働きを完了すると、悪霊がまねをする。こうしたことを理解しておきなさい。」(「今日の神の働きを知るということ」より)。

  神は常に新しく、決して古くない、そして同じ働きを繰り返されることがないということをこの節は明確に語っています。これは、主イエス様が働きをしに来られた時、律法の時代に律法を発布する働きを繰り返えさずに、恵みの時代を開始され、人類の罪を贖う働きをされたのと同じです。主は人間に悔い改めの道を備え、病人を癒し、悪霊を追い出し、最終的には人間のために十字架につけられて、人類の罪を贖ってくださりました。なので、主イエス様は終わりの日に再臨なさる時も、新たな時代を開始され、新たな働きをなさり、既になされた働きを繰り返されることはありません。そして、偽キリストはどうかといいますと、彼らは皆、キリストを装う悪霊です。彼らは新たな時代を迎え入れ、古い時代の幕を閉じる働きはできません。彼らは、混乱して識別力のない人たちを惑わすために、単純なしるしと奇跡を行って主イエス様のふりをすることしかできないのです。しかし、彼らは、主イエス様がなされた様に、死者を蘇らせたり、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせたり、風と海を叱るということはできません。こういったことは、彼らの能力の域を完全に超えています。なぜなら、彼らは神の権威と御力を持っていないからです。従って、新たな時代を開いて、古い時代を完結できる御方が真キリストであり、それができずにただ神のすぐ後について、神が既になされた働きを真似ることしかできない人たちは間違いなく偽キリストなのです。

第2に、私たちは彼らの話す言葉に注目しなければなりません

  主イエス様はかつてこう仰りました。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14章6節) キリストの仰せられる御言葉はその全てが真理であり、それは人間にいのちを与え、人間のために歩むべき道を指し示し、人間のいのちを構成し得るということが分かります。それを証明するものとして、主イエス様は働きをなさっておられた時、人類が必要としていたことに応じて悔い改める道をお見せになり、人々に自らを愛する様に他人を愛して他人を幾度となく許すことを教えられ、そして自らの罪を言い表して悔い改めることも教えられ、律法の下で暮らしていた人々に新たな実践の道を指し示してくださりました。

  主イエス様はこうとも仰りました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16章12-13節)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2章7節)「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる。」(ヨハネの黙示録5章5節)これらの節より、主は終わりの日に来臨される時、私たちが理解できない真理をたくさん仰せられ、巻物を開いて7つの封印を解かれるということは明らかです。主イエス様の再臨に関するこれらの預言からすると、真キリストは来臨される時に真理を表すことがおできになるのだと、私たちは確信を持つことができます。これに間違いはありません!他の御言葉の節も読んでみましょう。「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストを騙る者はみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。」(「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より)。

  これらの言葉より、キリストは受肉された神御自身であり、肉として顕現された神の御霊であり、キリストは人間に備え、人間を導くために、いつどこでも、真理を表すことがおできになるということが分かります。一方の偽キリストは、その殆どが悪霊に取り付かれています。本質的に、彼らは真理をほんの僅かも持たない悪霊であり、悪魔であります。これ故に、彼らはどのようにして聖書を誤解したり、意味深い知識や理論について語ったとしても、人々を惑わし、傷つけることしかできないのです。彼らが行うことで、私たちにとって啓発的なことは何1つありません。彼らは永遠と私たちの心に闇をもたらすだけで、私たちに歩む道を残さず、最終的には私たちを滅ぼしてしまいます。キリストのみが真理、道、そしていのちであります。従って、真理を表し、私たちに道を示し、いのちを与えてくださる御方がキリストであり、自らをキリストと名のりながら真理を表すことができない人たちは間違いなく偽キリストなのです。これが偽キリストと偽預言者を識別するための基本原則です。

第3に、私たちは彼らが表す性質に注目しなければなりません

  主イエス様はかつてこう警告されました、「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」(マタイによる福音書24章5節)。 主イエス様はこの節の中で、私たちに偽キリストのもう1つの特性を教えてくださっておられます。彼らは皆、傲慢でうぬぼれた性質を持っており、人々から神として崇拝されることを狙って人々の前で自己顕示し、自らをキリストであると宣言することを好みます。

      次の御言葉の節を読めばもっと深く理解できるでしょう。「偽りの多い偽キリストであればあるほど自己を誇示し、人を欺くしるしや不思議を多く行うことができる。偽キリストたちは神の性質を持っていない。キリストは偽キリストの要素で汚されてはいない。神は肉の働きを全うするためだけに肉となるのであり、人間が神を見ることができるように肉となるのではない。むしろ、キリストは働きを通して身分を明確にし、自身の現すものによって自身の本質を証明する。キリストの本質は根拠のないものではない。キリストの身分は自身の手によって握られてはいなかった。それはキリストの働きと本質によって決定される。」(「キリストの本質は父なる神の心に従うことである」より)

  この節より、こういった者たちは偽キリストであるからこそ、人々を惑わすために増々人々の前で自己顕示をするようになる反面、キリストは御自身の働きによってその身分を宣言されるということが分かります。主イエス様が働きをされた時も同じで、主は病人を癒し、悪霊を追い出さし、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせ、そして死者を蘇らせました。人間は主のことを知りませんでしたが、主の権威と御力が主の身分を受肉された神御自身であると証明したのです。なぜなら、神以外にそのような権威を持つ御方は存在しないからです。従って、キリストは働きをしに来られる時、決して自分が神であり、キリストであることを声に出して言われたり、自己顕示をされることはありません。むしろ、キリストは人間たちにそのいのちが必要とするものを備えるために、謙遜して肉の中に身を潜めながら働きをされ、御言葉を仰せられます。そして、それは神のいのちの最高に尊く、聖なる本質を証明しているのです。しかし、偽キリストたちはいつも自分たちがキリストであると声に出して主張し、彼らの言うことを聞かないと天国に入れないなどと破廉恥なことを言う人たちすらいるのです。彼らは人々を自分たちに会わせるために出来る限りのことを行ったり、人々を騙すためにしるしと奇跡を行います。この実例は本当にたくさん存在しています。これ故に、真キリストと偽キリストを見極めるためのもう1つの重要な原則は、彼らが表す性質に注目するということなのです。

  兄弟姉妹たちの皆さん、上述した内容が真キリストと偽キリストを見分けるための3つの原則です。私たちはこの3つの原則を理解してのみ、偽キリストに惑わされるのを妨げ、賢明な処女になって主の再臨をお迎えすることができるのです。

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