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いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

聖句カード|箴言17章22節-心の楽しみは良い薬である

2019-04-25 22:49:35 | 賛美の心

心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」箴言 17:22

心の健康と身体の健康は相互に関連がありそうです

心にいいことは、身体にもいいのではないでしょうか

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(テサロニケ人への第一の手紙5:16-18)

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地震後の熟考:人生において、追い求めることに価値と意味があるものとは

2019-04-24 20:23:29 | 賛美の心

  2018年6月18日の朝8時ごろ、私はいつも通りに作業場で仕事を始めようとしていました。その瞬間、いきなり地鳴りがして、地面が揺れ始め、床が陥没し始めたのです。作業場のドアがバタンと閉まるのを見た瞬間、私たちは地震が起きていることに気が付き、同僚と私は慌てて建物から避難しようとしました。やっとの思いで空地に駆けだすと、私は恐怖感に満ちた恐ろしい現状をまざまざと目の当たりにしたのです。日本は地震の多い国だと知っていましたが、まさか実際に体験することになるとは思っていなかったのです。その瞬間、私は頭が真っ白になり、足に力が入りませんでした。神に助けを求め続ける以外、私はどうしていいのか分かりませんでした。私は祈りを通じて、徐々に落ち着いていきました。

  僅か数分の間に、100人以上の人たちが空き地に集まり、全員が狼狽している様子でした。無表情のまま怖気づいて動けなくなっている人がいたり、震えが止まらない人がいたり、そして他にはビクビクしながらまだお互いにしがみついている人たちもいました。すると私の女性の同僚が心配した口調でこう言いました、「大変だわ、数日前に買ったばかりのネックレスがあるのよ。それに、家には他にもたくさん宝石があるのに、家が倒壊したら全部台無しだわ!」その隣に立っていた人も不安そうに言いました、「私のゴールドとシルバーの宝石も家に置いてきてるわ、一緒に持って来なかったのよ。」その時、それまで泣いていた年配の女性が誇らしげにこう言いました、「私は以前地震に遭って、死ぬほど怖い思いをしたわ。それ以降はパスポートに銀行カード、それと貴重品はすべて毎日持ち歩くことにしてるのよ。」彼女に目をやってみると、彼女は指輪を5つとブレスレットを2つ握っていました。彼女がこう話している間に他の同僚たち数人が怖さのあまり泣き始めてしまいました。

  私は同僚たちの振る舞いを見た時、突然とても悲しくなり、泣きたくなりましたが涙は出ませんでした。私たちは哀れな人生を送っていると私は感じました。私たちは頻繁に運命は自分で切り開くものだと言いますが、災害が起る時は一体誰が次の瞬間起こり得ることをコントロールできるというのでしょう?しかし、これを疑問に思っている人がいるようには見えませんでした。地震で起きたパニックの中ですら、人々はお金と宝石のことを気にしていたのです。その瞬間、私は神の御言葉のこの節を思い出しました、「人間は神の指揮と統治を認めないので、常に反抗的な姿勢で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを望み、現状と運命を変えようとする。⋯⋯」私たちは神の主権を理解していないがために、人々の運命は神の御手の中にあることを理解しておらず、それ故に私たちは誰もが自分たちの運命を変えたがり、お金を稼ぐために多忙に働き、理想の生活を追い求めているということに私は気が付きました。実際、私たちは小さくて、些細な個人の集まりに過ぎないのです。自分の運命をコントロールして、それを変えることなど一体誰ができるというのでしょう。私はこう考えた時、神の御声を聞いて、神の主権を認識する機会を与えてくださった神の慈愛に強く感謝しました。こうして、私は心の中で静かに神に呼び掛け、私をお導きくださるように、そして地震に立ち向かう勇気を与えてくださるようにと神に請いました。少しずつ、私の恐怖感は失せて行き、私は神が私の最強の盾であることを知ったのです。

  私たちは30分ほど外にいましたが、余震が収まったことを確認すると、上司は私たちを職場に送り返しました。私たちが作業場に戻った時、同僚たちは依然として怯えたままで、全く仕事をする気になれなかったので、休暇を願い出て帰宅して行きました。最終的に、残ったのは私とベトナム人の2人だけでした。

  あの夜、余震は4回起りましたが、神を頼りにしていた私は怖くありませんでした。翌日、職場に行くと、私は大きな荷物を運びながら出勤する同僚を数人見かけました。地震が来たらいつでも逃げられるようにと言って、食堂に食事をしに行く時ですら荷物を持って行く人がいました。その後の数日間、余震は続き、同僚たちは地震の話しばかりしていました。各々の国行きの航空券の金額を毎日チェックして、地震がまた発生する時に備えて航空券を買う準備をしている人たちもいました。私もある程度はこの状況から影響を受け、自分の安全を心配してはいましたが、神の御言葉を読むと、落ち着いて対応することができました。

  私は神のこの御言葉を思い出しました:「人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。⋯⋯財産のある者は金が自分の頼みの綱である、生涯の資産であると考える。立派な地位があれば、人間はそれにしがみついて、そのために命を賭ける。この世を去ろうとする時になって初めて、人間は自分が生涯をかけて追究してきた物事が、空を渡り行く雲のようなものであり、いずれも掴み続けることも、死後の世界に持っていくことも出来ないものであり、自分を死から免れさせる力が無いものであり、この世を去る時に持参することも、慰めを与えることも出来ないものであり、また特にそうした物事のなかに、死を超越する救済を与えることの出来るものは無いということに気付く。」 そうです、「お金は全てに勝る」や「地獄の沙汰も金次第」といった考えによって、私たちはお金を唯一頼りがいのあるものとみなし、お金を持つことは全てを手にすることであると考えてしまうため、お金のために悪戦苦闘しながら人生を過ごしますが、私たちのいのちが何処から来るのか、また私たちが存在する真の価値と意味については全く考えていないのです。お金は本当に私たちの拠り所になり得るのでしょうか?私は同僚たちのこと、そしてその1人1人が沢山のお金を貯金していたことを考えましたが、地震が起きた時、そのお金は彼らに安全で安心な生活をもたらしてくれたでしょうか?地震は彼らを恐怖感と不安で満たしたのです。私は2008年に中国の汶川県で発生した地震について考えました。どれだけの裕福な人たちがあの地震から逃げ出すことができたでしょう?彼らも同じ被害を受けていたのではないでしょうか?沢山の事実が揃っているにも関わらず、私たちは神の御前に行っていないため、いのちの価値と意味をしっかり考えず、私たちが愛して止まないお金が私たちの内にあるものではなく、私たちに平安をもたらしてくれたり、災害から私たちを救ってくれるものでもないことに気付かないのです。これこそが、人類にとっての本当に大きな悲劇なのです!

  私は最初日本に来た時はお金を稼ぐことしか頭になかったことを思い出しました。私の仕事は生産ラインから出て来たばかりの車の部品を磨くことで、研磨作業中には鉛を多く含んだちりがたくさん出ました。マスクを2枚着用していたにもかかわらず、一日が終わると私の鼻の下には黒く丸い後が残っていました。それに、当時は夏だったので、作業場の温度は40度を超えていた上に、私たちは一日最低でも10時間は働いていました。一日が終わると私の服は汗でびしょぬれでした。私の体はこのような重労働に耐えられず、右腕と指が感覚を失い始めていました。幸い、私は神から時にかなった御救いを受け、神の奇跡的な御采配により製品検査部門に異動することができました。そこでの仕事は楽だったので、私の手は次第に回復していきました。しかし、神の主権を知らなかった私はいのちの価値と意味を分かっていませんでした。私は神に従ってはいたものの、お金を追いかけることは止めませんでした。残業と集会の時間が重なることがあると、私は変わらず残業することを選んでいたのです。しかし、地震の後、私はこれについて慎重に考えてみました。神の御気遣いと御加護がなければ、災害と死が迫って来る時に、どれだけお金があったとしても心の恐怖感を取り除くことはできないし、霊的な安心感を得ることも、ましてや自分のいのちを守ることなどできないのです。

  その後、私は神のこの御言葉を読みました、「ある者が生まれた時、孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活経験、創造主の権威の経験を始める。その者すなわちその魂にとって、これが創造主による統治に関する認識を得て、創造主の権威を知り、それを自分で経験する格好の機会であることは言うまでも無い。⋯⋯ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。そうした者は必然的に創造主に愛されて受け入れられ、また死に対して安らかな姿勢を取る。人生の最後の節目を喜んで歓迎出来るのは、そうした者のみである。ヨブは死に対して明らかにこの姿勢を取っていた。」神の御言葉は創造物として生きることの価値と意味を私が理解できるようにしてくださりました。私が持つものは全て、神から授かっているものであり、神は私が神の主権と権威を理解する機会を与えてくださり、そしてまた創造物としての本分を尽くす機会も与えてくださりました。私は真理を追い求め、神の働きを体験し、神の知識を得ることに努め、創造物としての本分を尽くすべきなのです。これらこそが、人生において追い求めるべき正しい目標なのです。その後、私は上司たちと話しをして、自分の残業量を減らして欲しいとお願いしたところ、彼らはそれを承認してくれました。私は定期的に兄弟姉妹たちと集会に参加できるようになると、それまで感じたことのない安心感を得ました。神が今回の地震を通じて、私が自分の人生をじっくりと考えるようにしてくださったこと、そして私に新たな理解をお与えくださったことを、私はとても感謝しています。これで私は、どのように生きれば、自分の魂が平安と喜びを感じられるのかということを熟知しました。

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新曲MV-霊とまこととをもって神を礼拝する 「創られた者の心の声」

2019-04-23 22:59:27 | 賛美の心

霊とまこととをもって神を礼拝する 「創られた者の心の声」クリスチャンミュージックビデオ【MV】

1
私は叫びたかった
しかしそれに相応しいと感じられる場所がなかった
私は歌を歌いたかった、しかし歌が一つも見つからなかった
私は創られた者からあなたへの愛を表したかったのである
至る所を捜したが、何の言葉も見つからず
言うことが出来たのは私の気持ちだけだった
現実的で真実なる神よ、私の心の内なる愛よ
私は両手を挙げてあなたを賛美し
あなたがこの世に来て下さったことを喜ぶ

2
人は塵から成り、神がそれに生命をお与えになった
サタンが下って来て、人類を堕落させた
人類は人間性と理性を失い
その日以来、世代を追う毎に堕落し続けた
しかしあなたは・・・現実的で真実なる神
私の心の内なる愛
私は塵にすぎないが、あなたのみ顔を見ることは出来る
どうしてあなたを礼拝せずにいられようか?
現実的で真実なる神よ、私の心の内なる愛よ
私は塵にすぎないが、あなたのみ顔を見ることは出来る
どうしてあなたを礼拝せずにいられようか?

3
神は人を創造した
そして神が再び人となられるぐらい人を愛している
よい時も悪い時も、逆境と悲しみに絶えながら
我々を救い、美しい行先に導いて下さった
私たちはいつもあなたに感謝する
現実的で真実なる神よ、私の心の内なる愛よ
私は堕落したがあなたは私を救って下さった!
どうしてあなたを礼拝せずにいられようか?
現実的で真実なる神よ、私の心の内なる愛よ
私は堕落したがあなたは私を救って下さった!
どうしてあなたを礼拝せずにいられようか?
どうしてあなたを礼拝せずにいられようか?
どうしてあなたを礼拝せずにいられようか?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

もっと見る:ゴスペル音楽「神の真の愛」神の愛を感謝し、讃美する


クリスチャンの証し「私は善人!」完全な映画

2019-04-22 23:09:21 | グルメ

      キリスト教徒ヤン・フイシンは幼い頃から善人であることを好み、人の機嫌を損ねるとを嫌い、自分は人に親切で優しいから善人だと信じている。しかし、神の終わりの日の福音を受け入れ、神様の言葉の裁きと刑罰を経て初めて覚醒し、自分は本当は善人ではないと悟る。むしろサタン的な哲学に基づいて生きている非常に利己的で狡猾な「八方美人」なのだと。真理を求めて正直で高潔な善人になろうと決心するヤン・フイシンだがどのような経験を通してそのような変化を遂げるのだろうか?

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キリスト教映画「私の家はどこに」-日本語吹き替え


主イエスが復活後に人類の前に出現された意義の2つの側面

2019-04-21 22:09:51 | 賛美の心

  聖書にはこう記されています。「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」(ルカ24:36–43)。

  私はこの聖句を読むと、いつもペテロやヨハネたちをうらやましく思います。イエスはユダヤでお働きになっているあいだ、常に昼夜を問わず弟子たちと共におられ、復活後は以前同様に彼らに目をかけられ、彼らの前に出現なさり、聖書を解説し、教えを与えられました。ペテロたちは幸運にも主によって弟子に選ばれ、自らの耳で主イエスの教えを聞くことができました。実に祝福されていたのです。その後、私は神の御言葉を読み、主イエスが復活後に人の前に出現されたことの背後には実は主イエスの御心があったということ、この行いには神の全能性と知恵が更に込められていることが分かりました。復活後の主イエスの出現は本当に意義深かったことが真に分かるようになったのです。

  神の御言葉にはこうあります。「主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。」

  私は神の御言葉を読んで、主イエスが復活後四十日間人の前に出現されたことには意味が二つあることがようやく分かりました。一つは、神が律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人類を新しい時代へと導かれると人に告げるためであったことです。もう一つの意味は、神がそうなさったのは、人々が主イエスは受肉された神ご自身だと確めることで神への信仰を強められるようにするためです。

1.主イエスが復活し人の前に出現されたのは、人を新たな時代に導き、恵みの時代にしっかりと定着させるため

  主イエスは恵みの時代を開き、律法の時代を終えられました。主は「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)という道を示し、人々が神からの豊かな恵みを享受できるように、病人を癒し、悪霊を追い払い、足なえを歩かせ、盲人の目を治すなど多くの奇跡を行われました。しかし当時の人々は神の働きを知らず、イエスが神の受肉であることを真に理解していませんでした。主イエスが十字架につけられたとき、それは神が贖いの働きを終えられたことを意味していましたが、人々はそのことを全く知らなかったため、否定的で弱気になりました。そして主イエスの身分を疑い、神殿に戻って旧約聖書の律法を守り始める者もいました。

  このようにして、人々はなおも自らの罪のために律法によって死に定められる危険にさらされ、主イエスが人類を贖うために行なわれた働きは中途半端なままでした。主イエスは人の心の奥底を探り、人の必要と欠点を完全に理解されていました。それゆえ、主は復活後、先ず弟子たちの前に出現して語られ、彼らと実際に接触し、そのおかげで彼らには主が本当に死人の中から蘇り、人類を贖う働きを成し遂げて新たな時代を始められたことが分かったのです。その後、人類は律法を離れて新たな時代に入りました。それが恵みの時代です。

  主イエスの働きと言葉のお導きの下、人々は主の教え通りに実践し始め、十字架を負って主に付き従い、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ16:15)という主の教えを守りました。こうして彼らは天の国の福音を広め始め、万人が主イエスの御名を受け入れて主の救いを得ることができるように、主イエスの御名を証ししました。現在、主イエスの福音は全世界に広がっています。これは全てイエスが死人の中から蘇られた後に人の前にお姿を表された結果です。このことから、復活後の出現がどれほど意義深かったかが分かります。

2.主イエスが復活後に人々の前に出現されたおかげで、人は主が神ご自身の受肉だと断定し、主への信仰を強めることができた

神の御言葉にはこうあります。

  「受肉した主イエスが業を行っていた間、イエスに付き従う者の殆どが、イエスの身分やその言葉を完全に認識できなかった。イエスが十字架にかけられた時、イエスに付き従っていた者たちの態度は、何らかの期待であった。イエスが十字架に釘で打ち付けられたときから墓に入れられた時まで、人々の主に対する態度は、落胆であった。この時、受肉したイエスが言われた言葉に関し、人々の心は疑念から否定へと移り変わり始めていた。そして主が墓から出て、ひとりずつ人々の前に現れた時、イエスを自らの目で見たり、イエスが復活したという知らせを聞いたりした人々の殆どが、否定から懐疑へと次第に変わっていった。主イエスがトマスにわき腹を手で触れさせた時、また復活した主イエスがパンを裂いて人々の前で食べた時、そしてその後人々の前で焼き魚を食べた時、そこで初めて人々は主イエスが受肉したキリストであるという事実を真に受け容れた。それは、人々の前に現れた、肉と血のある霊的存在が、その人々をひとり残らず夢から醒めさせたようであった、と言うことが出来るであろう。人々の前に立っている人の子は、永遠の過去から存在していた神であった。神には形も、肉と骨もあり、また長いこと人間と生きて食事をしていた。この時、人々は、イエスの存在は全くの真実であり、実に素晴らしいと感じた。また人々は大きな喜びと幸福にあふれ、同時に感極まった。イエスが再び現れたことにより、人々はイエスの謙遜を真に理解し、人間に対する近親さ、ひたむきな望みと愛情を感じることができた。この束の間の再会により、主イエスに会った人々は、自分が既にこの世を去ったかのように感じた。人々の心は、迷い、困惑し、恐れ、不安になり、思慕をつのらせ、愚鈍になっていたが、そうした人々の心は安息を得た。人々は、疑うことや落胆することを止めた。なぜなら、その時希望が生まれ、信じることのできるものが生まれたからである。人々の前に立っている人の子は、永遠に人々の味方となり、人々の堅固なやぐらとなり、常に存在する逃げ場となる。」

  神の御言葉は、復活後の主イエスの出現のもう一つの意味も明らかにしています。主イエスは人のもとで受肉し、三年半のあいだ働きを行われ、多くの人が主の救いを受け入れて主に付き従います。しかしほとんどの人は主イエスがキリストであり、神ご自身であることを真に理解していませんでした。そのため、主イエスが十字架につけられようとしていたとき、彼らは一連の出来事が起こるのを見て、「主イエスは本当に神なのか。もしキリストで神ご自身なら、どうしてローマの為政者に捕らえられ、兵士たちに鞭で打たれて嘲笑された挙句、十字架にかけられるのだ」と心に疑問を抱いたのです。

  特に、主イエスが十字架につけられているとき、彼らは主に全く失望し、主が神の受肉であることを否定し、主が表された御言葉を否定しました。逆に、イエスは普通の人のように死に、生き残るはずがないと信じたのです。主イエスは人々がその程度の信仰しか持たず、主を知らなかったことも、主が十字架につけられたためにさらに多くの人が弱気になって意気消沈することもご存知でした。そのため主イエスは死人の中から蘇られた後、弟子たちと接触して彼らに語りかけ、聖書を解説し、彼らと親しく交わり、食事を共にし、トマスにご自身の手と脇を触らせるといったことをなさいました。

  主イエスが復活後に語られた御言葉と行われた御業から、弟子たちはイエスが本当に復活されたと断定し、「この方こそ、以前我々と食事をし、同じ住処で生活を共にされたあの主だ。我々に説教し、養い、導いてくださったあの主であり、以前のように愛してくださるのだ」と悟り、「主は我々のことを気づかってくださり、我々のもとを離れられたのではなく、我々のすぐ側に一緒にいてくださっている」とも確信しました。主イエスは神ご自身の受肉であり、永遠なる御方、人の永遠の支え、人の強き塔であり避難所だったのです。

  主イエスは十字架につけられても、死後の鍵の番人であり、蘇る力を持っておられました。なぜなら神ご自身だったからです。以後、人々はもはや迷いも戸惑いもせず、もはや主イエスを疑わず、むしろ心の底からイエスを信じ頼ることができました。これは全て、主イエスが死人の中から蘇られた後に弟子たちの前に出現し、彼らと語られた結果です。

  主イエスの復活後の出現のこれら二つの意味から、私は主はそのような形で出現することで人々の心を目覚めさせ、そのおかげで私たちは神の配慮と愛を経験できるのだとやっと悟りました。このような配慮と愛は単なる伝説ではなく、事実なのです。また、このことから神が私たちを親類のようにみておられることも認識できます。神はいつも人と共におられ、私たちから離れられたことがありません。なぜなら、ご自身のものにするために私たちを創られたのであり、私たちが御言葉を聞いて神に従い、絶対的に崇拝し、神と心を一つにすることを望まれているからです。

  ですから、主イエスが肉となって働きを行い、御言葉を語られたときも、復活後に霊として人の前に出現されたときも、常に人類を思い、特にご自身に付き従う者たちを気づかわれました。なぜなら人には罪を克服する能力がなく、神の導きも真理の施し供給なしには、自らの堕落を脱して神の真の救いを得る術がないからです。私たちは誤解して、神が贖いの働きを終えた後に私たちを離れ、それ以降もう私たちに何の注意も向けられなかったと信じていますが、事実は、私たちの想像通りではないのです。

  主イエスは人類を贖う働きを成し遂げられましたが、人を離れられたわけではありません。主イエスは今も以前と同様に人と共におられ、私たちを気づかい、養い、導いてくださっています。主イエスはいざという時に私たちを助けて支えてくださり、どのように出現されても、いつも私たちと共におられます。それはまさに神の御言葉通りです。「主イエスは復活したが、イエスの心と業は、人間から去らなかった。イエスは人々の前に現れ、自身がどのような形で存在しようと、人々に付き添い、共に歩み、いつでもどこでも人間と共にある。そして、あらゆる時、あらゆる場所で、人間に施し、牧養し、自身を見て、触れ、決して再び絶望しないようにする。また主イエスは、この世における人生では、孤独ではない、ということを理解するよう、人間に対して求めた。人間には、神の慈しみがあり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく、またイエスを罪のためのいけにえとして認める者は罪に縛られることがない。」(「神の働き、神の性質、そして神自身3」より)

  実は、主イエスを信じる私たち一人ひとりにとって明白なのは、神への信仰の道において、いつ金や名声や富などの誘惑に遭遇しても、主は私たちを守ってくださり、誘惑を避けて克服することができるようにしてくださるということです。私たちがいつ挫折や失敗に遭遇しても、主は御言葉で導き、信仰と力を与え強くしてくださいます。私たちが生活の中で困難に遭遇しても、主は常にまさかの時の助けであり、道を開いてくださいます。私たちが試練で苦しんでも、主の御言葉が十分に照らして導いてくださるおかげで、私たちは神の御心を理解し、霊における平安と喜びを感じることができるのです。神が側にいて毎日を私たちと共にいて導いてくださるおかげで、真理を理解し、御心を理解できるようになると本当に実感できます。

  私は主の愛に深く感動し、なぜ主イエスが復活後四十日間、人の前にお姿を表わし、弟子たちの前で食事をし、聖書を語り、彼らと親しく交わり、弟子たちにいくつもの要求を告げるといったことをなさったかがよく分かるようになりました。主イエスが言われ、なされたことの一つひとつが大いなる配慮と思慮に満ち溢れており、主の業は全て非常に意義深いものだったのです。今私は、神の御言葉を読むことで、復活後の主イエスの出現をより深く理解しています。神に感謝します。

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