信州ななめよみ

長野県政をはじめ長野県に関することを思いつくままにつづるもの

他人を待たせることの罪

2006-11-28 23:24:17 | Weblog
約束しての立会い、打ち合わせ協議、待ち合わせ、交差点で通過待ちをする時などで、他人を待たせることに無頓着な人がいるが、実に罪なことだ。
自動車を運転している時であっても、前の車両が訳もなく法廷速度を下回る速度でずっと走行していると、あるいは珍走団のバイク数台がわざと千鳥運転をして通常走行を妨げていると、後方の車両の運転手はイライラ感が募りやすくなる。

時折出てくる、下りた遮断機をくぐって通過した列車等に轢かれてしまうという痛ましい踏切事故。あれは遮断機の警告を無視する側に一義的に非があるが、待たせる鉄道側が無罪放免というわけではない。開かずの踏切といっても常に列車が往来しているわけでなく、大概の場合は駅の近くにあって駅で列車が待機している間も遮断機が下り続けている。列車が往来していない時間のほうがはるかに多いのに何十分もただ待たされることを不条理だと思うから、ついくぐってしまう人が出てくるのだ。
東京では先日全線開通した環状8号線で、かつて西武新宿線と西武池袋線の踏切、および井の頭通り・五日市街道との交差点を全て立体交差にしたところ非常にスムーズに流れるようになり、30年以上前は練馬インターから高井戸までのわずか10キロ足らずを進むのに2時間以上かかっていたものが、今では20分程度で行くことができる。
田中康夫氏が知事だった頃、長野県庁にここがおかしいとメールを出せば、一週間以内にひとまずの返事をすることと決められた。そのルールは形式的にほぼ守られていたが、守られたのはひとまずの返事を出すことだけで、そこから先の本来の答えはなかなか出てこないことが珍しくなかった。しかしこれがあまり表面化して騒がれなかったのは、たとえ最初だけでも、たとえ形式的であろうとも、ひとまずの答えを一週間以内に出すことで、待たせているという意識を持っていることを相手に伝えたからではないだろうか。もちろんそれで終わりとしていい、というのではなく、本来の答えを待たせ続けていることには変わりがない。

時間に、そして心に余裕を持つことは一般に大事なことであるが、せわしい世の中、どんなに余裕を持っているつもりでも、時にはそうも言ってられない場面もある。つまりは、急ぐのか余裕を持って行くのかは、どちらかが是でどちらかが非ではなく、個々の状況に応じての選択である。しかし、個々の事情を周囲が理解しているかといえば、むしろそうでない事のほうが大半だ。
なぜ他人を待たせることに無頓着なことが罪なのか、それはしばしば、待たされた人から余裕を持って行くという選択肢を一方的に奪うためである。車の運転にしろ、人との交際にしろ、一見余裕があるように見えていても、他人を待たせているという意識が無い人は、実は他人を気遣う余裕が無いだけなのだ。
時間を焦っている人に対して余裕を持てと諭す前に、自分の言動が結果として他人から余裕を奪っていないだろうかと時には自問してもいいだろう。時は金なり。