信州ななめよみ

長野県政をはじめ長野県に関することを思いつくままにつづるもの

災害対応の現場その他

2006-10-27 00:30:10 | Weblog
今年の7月に諏訪・上伊那を中心に県内で大雨の災害があり、現在もその爪あとが各地に残され、関係者は護岸の復旧や道路や砂防堰堤の築造などの災害査定と、復旧の手続き作業に追われている。今回の異動で、諏訪と上伊那の3公共部門で職員が臨時的にでも増えるのかと思っていたが、そうでもなかったようだ。これまでであれば、大規模災害への対応ということで臨時的に係が増設されることもあったが、今回は人員増すらあまり対応できていない。
7月豪雨災害では諏訪と上伊那が大きな被害を受け、現地機関でもほぼ毎週が災害査定というくらいに災害対応に追われているが、県庁はそれらの現地機関に対してかなり冷淡な対応を続けている。田中康夫知事の頃に災害対応は組織を変更せずに応援で済ますという内部決定がなされ、それが未だ覆されないために県庁でも人事異動で手が打てないという、実に馬鹿げたセクショナリズム丸出しの裏話まで聞こえている。

とはいえそれでは仕事が回らないため、災害対応に追われる現地機関へは各地から応援職員が派遣され続けている。しかしそこでも、ある現地機関で椿事が起こった。
災害対応に追われる現地機関に県庁からの要請で数人の職員が現地入りした。災害対応に追われるとはいえ、通常業務も当然ながら同時にこなしていかなければならない。諏訪と上伊那では相次ぐ災害査定のために通常業務が滞り、それらの地区の県公共工事の検査を行う南信会計センター検査班においては、現在は仕事が干上がって暇を持て余し、年度末には逆に一千件近くにのぼる災害関連の検査が目白押しとなって土日も無くなるのではないかとの話もあるほどだ。
応援を受けた現地機関では応援に来た職員に、業務の連続性という観点から、災害現場を任せるのではなく通常業務の下請け作業を行わせた。そうしたところ、その職員は、自分は災害の応援に来たのであって通常業務の手伝いに来たのではないと怒って、応援要請をした県庁へ抗議し、県庁もその現地機関への応援人数を翌週から減らしてしまった。災害応援は査定を含めた災害復旧の手伝いなのか、災害対応に追われる職場への手伝いなのかが曖昧なことが根底にあり、応援を受けた側に配慮が不足していたとの見方もあろうが、県民サービスという観点からこの職員と県庁の対応のほうにより大きな疑問を感じてしまうのはおかしいだろうか。


以前の投稿に対する意見について簡単に。
機関紙等の購読について部長会議ではそのような発言があったのではというのはその通りで、ただし続けての意見にあるように信濃毎日新聞等への反発で終わってしまっている。
定員は随時見直しがなされているとの意見は、見直しがなされる場合の殆どが下方修正であり、仕事量が激増していてもなかなか人員が増えていないのが現実としてある。特定部局が定員枠を外して肥大化したのは知事や部局長の政治的判断によるものがあり、そうした一部思惑の外にある今回のような事例では定員が足かせとなることが多い。また目標が達成されないときは組織ではなく担当個人の資質・勤務評価や責任にされがちな体質、職場の枠だけでなく超過勤務や個人の評価、あるいは課長級以上の昇格資格試験なども含みに人事制度の抜本的見直しが必要ではないかと個人的には思う。

人事異動内示にみる村井県政(2)

2006-10-26 23:16:22 | Weblog
先に述べたように、村井県政最初の大規模人事は、簡単に言ってしまえば吉村県政時代の3階筋である人事財政経験者重用への回帰だった。誤解を恐れずに言えば、今の村井県政の姿は“毒の無い池田体制”なのかもしれない。吉村・池田時代と田中県政時代とは背反する要素があるとはいえ、共通項も多く、両者が必ずしも二項対立的な関係にあるわけではない。吉村・池田の否定としての田中が駄目だったから、吉村・池田が見直されたという単純なものではないのだ。

2000年春まで県庁を牛耳っていた当時の池田副知事。当時の県庁は組織としては回っていたが、たとえ計画的とはいえ膨大な借金を抱え、加えて五輪招致疑惑に伴う帳簿焼却問題で、県民の多くは県庁組織に対する不信感を抱き、それが田中康夫知事誕生への大きな原動力になった。田中県政では様々な実験のようなことが行われ、旧3階筋の幹部や幹部候補生は、時には登用されることもあったものの、多くは出先や外郭団体へ飛ばされた。田中県政の県組織に関するスタンスは池田イズムへの反発が出発点にあったものの、時間の経過と共にそれは薄れてくる。
池田副知事までの時代、一度県庁に勤めるとそのまま県庁近辺に居座ってハコから出たことが無い職員がたくさんいた。田中康夫知事はそれを批判し、県庁と現地機関の職員を交流させると公言していたが、現地機関のいわゆるメル友を抜擢し、意見が対立あるいはもっと単純に気にくわない県庁職員を現地に飛ばしただけで“交流”は終わり、県庁に居座る職員の大半は相変わらず居続けた。もっとも田中県政2期目になると、そうした県庁のヌシのような職員達の間にも“脱北”が目立ち始める。
吉村池田時代の末期に県民の間では閉塞感があったとされているが、それは県民だけでなく県庁組織でも同じであった。一部の人達だけで非公開のまま決められる県政やその方針への不満、あるいは強権的な池田氏への反発は、県民よりもむしろ県職員のほうが強かったかもしれず、土木部幹部やOBや職労の動きとは裏腹に、田中康夫知事が登場した時は現地機関の県職員の多くが田中康夫知事に投票をした。この人なら変えてくれるかもしれないとの期待を、県民同様に県職員も抱いた。しかし田中康夫知事はそうした県職員の期待をあっさりと裏切っていく。そして県庁は頻繁な人事とは裏腹に体質がよりいっそう硬直化し、組織として回ることすら滞るようになってしまった。

村井知事は登場と同時に、県職員の意識改革という言葉を掲げ、経営戦略局の解体等に着手をした。経営戦略局は田中県政の弊害の象徴的存在であり、これの解体は誰の目にも当然のことだったが、今度の人事を見る県職員の目は醒めている。
実務者重視といえば聞こえがいいが、要は吉村池田時代への回帰ではないかとする声が所々から聞こえてくる。田中県政時代の松林局長という悪しき事例が引き合いに出され、人事財政の経験者でないと県の主要幹部は勤まらないと村井知事のそばで唱えた人がいるのだろうが、権力闘争の匂いが漂うその主張は詭弁である。オリンピックバブルがあったとはいえ、また巨額の借金は仕方が無かった面があるとはいえ、吉村池田時代の県政の閉塞感をもたらしたのは一体誰なのか。具体的な名前は出さないが、その責任を追求されるべき者が田中県政時代を反面教師に自己弁護と正当化を図るのは勘弁してもらいたいものだ。
もっと言えば、人事財政の玄人(アーキテクチャー)でないと県の主要幹部が務まらないという考えはただの身勝手な、しかも時代遅れの傲慢でしかない。県政の主役は役人ではなく県民である。玄人は要所を押さえることが一義的に求められるのであって、主導的立場に居なければならないとする積極的理由は無い。
そして今回の人事異動では、田中県政時代に始められた所属先だけ指示の異動というスタイルが廃止され、従来の課・係・役職まで人事で指定する形で発令され、形だけとはいえ現場の意向主導型だった人事が、従来の県庁全統括の定員型人事に戻った。残念ながら、村井知事が目標とする県職員の意識改革は、今のままでは達成が非常に難しいだろう。

こうした姿を見ていれば、田中県政以前の“閉鎖的な県庁”に戻ってしまうのではないかと県民が心配するのは当然かもしれない。もちろん田中県政時代がオープンであったというのは田中康夫知事らによる幻想、演出でしかなく、県民の多くがそれに気づいてきたために政権交代が起こったのだが、県民は田中県政の詐欺的体質を嫌っただけであり、昔の閉鎖的な吉村池田時代を求めているのではない。
選挙で村井知事を支援した県議は数多くいるが、そうした村井県政の回帰型志向にある程度でも警鐘を鳴らしているのは柳田県議くらいで、他の多くの県議は批判の意向を持っているいないにかかわらず矛をむき出しにしていない。選挙が近いので自分のほうが手一杯だとする人もいるのだろうが、態度としてはまったく頂けない。それではまさに、田中康夫知事を未だ支持する人たちが吹聴する“大政翼賛会復活”の虚構図式そのものではないか。
信濃毎日新聞が9月定例県会で全案が可決されたことを揶揄するような記事を出し、一方で、県政への意見で昔に戻ってほしくないとする意見が多く出されているらしく、一部の県議がそれらをおかしいと批判している。彼らの批判は主張としては間違ってはいないだろうが、一方で村井県政が県民やマスメディアにそのように見られても仕方がないことを続けていることもまた事実であり、マスメディアへの批判をする県議が村井県政に対して沈黙を続けているのもおかしなものだ。そして事あるごとに田中県政時代と比較して現状を慰めるような姿も一部の県議の日記等で見られるが、知事就任直後ならまだしも、就任して数ヶ月が過ぎる中でそろそろそうした誤魔化しも卒業していただきたいものだ。

人事異動内示にみる村井県政

2006-10-26 00:08:20 | Weblog
長野県庁と県組織では、10月18日に係長級以下職員、25日に課長補佐級以上職員の人事異動内示が出された。18日の係長級以下の内示は、その殆どが組織改編とチーム・ユニット制度廃止に伴うものであり、実質的な異動はごく僅かであったが、25日の課長補佐級以上内示は4月1日の定例人事異動ほどではないにせよ、ある程度の実質的な異動があった。
前日から新聞報道のあったものもあれば、やや驚きをもって迎えられたものもある。このたび衛生部長に内定した渡辺氏は女性初の部長であり、今だからこその話として、先の知事選で田中康夫知事(当時)が三選するようであれば辞職すると主張していたと噂される女傑である。企画局長に内定した元人事課長の和田氏の登用など、人事の傾向として吉村県政時代の3階筋の人達がおおむね復権したという印象が少なからず見受けられ、一方で田中県政時代に幅を利かせていた幹部の多くは閑職へと追いやられた。県職員の間で噂が出ているように、村井知事は人事に当たって県職員OBらの意見を相当に参考にしているのだろう。

個人的に注目していた土木部長・河川課長人事は、土木部長が留任で、河川チームリーダーであった北原技監が飯田建設事務所長へ異動となり、後任の河川課長にはオリンピック招致前に土木部で活躍を見せた木曽建設事務所長の北沢陽二郎氏が内定した。ここにも村井知事による人事の特徴が見えている。
土木部長が留任したのは浅川治水の問題がこれから本格化するためとされているが、実際には2002年の田中康夫知事再選以降、土木部長職は立場上はともかく実務面では本格的に浅川治水に関わっていない。であるのに浅川治水を理由にしているのは、恐らく村井知事ら首脳は、これまでの土木部の混乱の責任を現在の河川チームリーダーである北原技監に取らせ、今の原土木部長には生半可には進まない今後の浅川治水の全責任を取らせ、場合によってはトカゲのしっぽ切りにするつもりなのだろうか。明確な懲罰人事ではないが、田中県政で知事に媚を売って不当に抜擢された者や自己保身に走った者に対しては、顔をニコニコとしていながら相応の重いものを背負わせるというのが村井流人事のようだ。
そして別の意味で土木部内で注目されていた野崎技術幹であるが、東信会計センターへの異動が内定した。会計センターでは県が発注する工事等の検査を行っており、東信地区における筆頭検査担当となる。野崎氏はこれまで、勤務先が長野にしろ諏訪にしろ住居のある松本から通っていたが、有料区間のある国道254号を使っての上田通いはさすがに厳しいだろう。もう一人の注目人物で、例外措置で30歳で主任になったY氏は災害で混乱を極めているとされる諏訪建設事務所への異動が決まっている。

なお、代表監査委員だった丸山氏が、県が与えた公用携帯電話を私物化していたことが県議会で発覚し、辞任に追い込まれた。その際に丸山氏は、田中色の排除だというようなことを述べていたが、この丸山氏の言葉じたいが代表監査委員を勤めていた丸山氏の勤務実態を示している。政権交代が起こったのだから田中色の排除は当然起こりうるものだろうが、丸山氏が排除されたのはそれ以前の監査委員としての質や適性の問題であり、いわば公費盗人の分際でありながら、公職辞任の理由に政治闘争をこじつけるのは文字通り盗人猛々しいとしか言いようが無い。