信州ななめよみ

長野県政をはじめ長野県に関することを思いつくままにつづるもの

(無題)

2006-02-12 23:08:32 | Weblog
「風説の流布」簡単に言えば意図的なデマを流すこと。一番簡単なのはネット上、匿名での誹謗中傷やレッテル貼り。いずれの場合も、その情報元や詳細には触れずに、言葉上だけの印象操作が行われる。名誉毀損で訴えられることも考慮に入れ、直接的でなく間接的な表現を使うことも多い。
単純なようで効果があり、市場に虎が出た、息子が人を殺したなど、故事成語にもこれに関するものが少なくなく、兵法でも使われることから、人間社会では昔から人為的な「風説の流布」があったのだろう。現代社会では多くの場合、マスコミや広告宣伝業界、時には官公庁がそれに関わっていて、当事者以外の第三者が野次馬的に無責任に騒ぎ立てることがある。

「言ったも同然」のことを言ってないと主張する。
上司が部下に漠然と指示をして、個人に犯罪やトラブルの責任を負わせて組織の利益を図る場合。あるいは詐欺で他人を唆して騙す場合。そうした場合などで使われているのだろう。
発言や指示の記録が残されていることはあまりなく、当事者同士の言った言わないの水掛け論になる。記録が残されている場合でも、記録の信憑性の問題があり、信頼できる記録があったとしても「言ったも同然」な事柄は、文章だけを見れば意図が明確でないことが多く、そうした場合、字面を追う限り「言ってない」との主張は事実として誤りではない。
しかし上司が、法に触れる部下の行為を立場上ではなく実際にかつ積極的に知っていながらそれを制止しない場合、共に責任を問われるのは当たり前のことだ。言葉や文面で制止の指示をしたと釈明するのであれば、それを証明できるものを提示すべきだろう。あるいは、正邪の判断ができなかったと言うかもしれないが、それは判断ができないほうが悪く、上司が個人として判断能力あるいは材料を持たないのであればそれを持つ者の意見を聴くべきであり、それを怠ったことでの責任は免れられない。

繰り返す。
上司の「言ったも同然」(でも字面を追えば明確には言ってない)の指示あるいは態度により、部下が法に触れる行為を行い、罪に問われることになれば、当然その行為を促したはずの上司も同罪である。
敢えて固有名詞や具体状況を示さず、一般論的に述べた。

天皇という存在

2006-02-12 22:50:45 | Weblog
皇室典範改正の議論が女系天皇問題に集中した感があるが、皇族関係者からも批判の声が上がり、閣僚や与党から慎重論が出て、一人積極的だった小泉首相もひとまず慎重な態度を示した。政局の天才とされる小泉首相だが、この話題の風向きがあまり良くないことを勘付いたのだろうか。総理総裁の後継者として名が挙がる自民党の候補者の中でも、これに関して積極論を継承しそうなのはせいぜい福田元長官くらいしか見当たらず、天皇家の外戚である麻生外相をはじめ、谷垣外相なども慎重論を唱えている。

天皇の存在が是か非かという議論もある。
個人的には、今の時代、天皇は日本国のフォーマルなものの象徴として必要であると思う。フォーマルを形成するのは伝統であり文化であり、それを長い年月をかけて守ってきた煉瓦のように積み重ねられた思いである。「フォーマル」ではなく日本語の単語を使おうと思っていたが、どれもニュアンスが違うように感じて適切な言葉が思い浮かばなかった。
天皇という存在を重くしているのは、まさにそうしたものであり、神話や王朝交代説を考慮に入れても現在の天皇家は西暦6世紀の26代継体天皇まで男系で遡ることができる。今の平成天皇が公式には125代であるから、系図上はともかく代数でいえば文字通り百代前だ。この系譜も男系が何度か途切れそうになり、その都度修復が働いたことは前に述べたので割愛する。
フォーマルと対照されるのがカジュアルである。人間、カジュアルだけでも生活はできるが、フォーマルな面が無いと芯が通らず、とりわけ国家という集団となれば儀式がどうしても必須であり、フォーマルが求められる。建国2百年余で神話の無いアメリカ合衆国でも建国物語はある。それらはなぜ今まで残されているかというと、自分達の存在の正当性のバックボーンになっているためではないだろうか。いくら個を主張したところで、それを保障してくれる存在が無ければ信用は得られない。
日本では歴代政権の正当性を保障するものが天皇であった。平安期から明治維新まで続いた摂政関白の役職は、貴族の代表者が天皇の権限を代行して政務を行うものであり、実際には藤原冬嗣の子孫がそれを独占した。鎌倉・室町・江戸の歴代将軍が称した征夷大将軍という称号は律令に基づくものではないが、まつろわぬ者(夷)を征するために天皇が任命したものであり、それが形式的に武家の棟梁を示す称号として使われるようになった。天皇によって政権が保障されるという形式は、あくまで形式的にだが現代でも続いている。後継者問題ではなく、そうした天皇の権威に正面きって挑戦をしたとされるのが足利義満と織田信長だとされる。彼らは自分の政権の正当性を主張するために別の権威を持ち出そうとした。
天皇が保障する日本の政権という形式が保たれていたのは、権力や権限が奪われたにせよ、天皇には祭祀的性格を含む権威があったからであり、その祭祀的性格の権威はいわゆる「万世一系」が源になっている。つまり、万世一系を損ねることになる女系天皇は存在価値が無いのである。重みを伴わないフォーマルは無駄な存在でしかない。

責任者は誰なのか

2006-02-12 21:58:55 | Weblog
もう一昨年のことになるが、南信で採石を無許可で行っていたことが問題になったことがある。当時は「はるさめ問題」や白骨温泉問題や奈良井川の汚泥問題があり、この問題はあまり印象に残ることなく忘れ去られた。
現在、「はるさめ問題」がクローズアップされており、「はるさめ問題」は、当時の県の失態よりもむしろ、その後の県当局による職員への処分のほうが大きな問題となっている。簡単に言ってしまえば、現地機関の所長が田中康夫知事と親しい外部の人間で非常勤であり、そこで問題が発生した後始末として、県庁の窓口課長と現地機関の担当職員が過重な処分を受け、責任者であり高額の給与を得ていた田中康夫知事の知人は非常勤ということで全くのお咎めなしだった。誰が考えてもおかしな処分であり、処分を受けた当事者はもちろんのこと、県議会議員も厳しく批判した。余談だがその所長、所沢ダイオキシン事件の関係者でもあり、当時は悪びれた発言もしていたが、田中康夫知事を擁護するウェブサイトを開設している。
「はるさめ問題」では、出先の責任において行うものを、現地機関の所長が知事の知人であって非常勤であることから、その所長は処分を受けず、それについて直接の責任がない県庁の課長が代わりに処分を受けた。それと逆のケースが、昨年から問題視されている情報公開請求に対する知事の容喙であり、情報公開課の所管業務である案件を知事へ全て報告することが疑問視されたものである。
部下の仕事を上司がチェックするから、という弁明も不可能ではない。事実、田中康夫知事はそうした弁明をしており、おかしさはあるものの、それだけで非を唱えるのは、ぶっちゃけた言い方をすれば筋があまり良くない。この場合は、知事に関する情報公開請求であったということから、読売新聞等がしばらくこれを特集していた。

文頭へ戻る。採石許可問題は許認可権限が現地機関にあり、当時の複数現地機関の担当者は問題が発覚した後に事情聴取を受けた。役所の場合、引継ぎを行えばという面があるが、この問題に限っては歴代の担当者が事情聴取に呼ばれたらしい。現地機関の当時の担当者の一人は、この問題の後に県職員を辞職しているが、この問題との因果関係は明らかでない。
この問題は、その採石が法の対象になるかならないかの基準があいまいであり、採石として扱うべきものが土として扱われていて、それを採取していた業者が採石法の認可を受けていなかったというものである。関係する出先機関が複数であったことから、この問題に関しては、県庁の所管課である河川課が不適切な対応をして現地機関はそれに巻き込まれたとする見方もある。
採石法の許認可を県庁で所管するのは河川課。採石は河川だけでなく山でも行われ、田んぼでも行われているのに、所管はすべて河川課である。奇妙さが垣間見えるとはいえ、この問題は、文頭で述べたように他の問題の陰に隠れ、そして少し後には県下を襲った台風被害により忘れ去られた。それが今になって再浮上しているという話を聞いた。
情報公開請求の問題と同じようなことがここでも起こっている。この問題は許認可権限が出先にありながら、テレビ等で報じられたこともあり、知事マターの仕事となった。ところが知事周辺でこの問題がさっぱり解決されておらず、いわば放置状態にされている。採石の許可は申請が出されてから審査を行い、一定期間内に許可あるいは不許可を相手に伝えなければいけないのに、知事周辺で止まったままであるため、許認可権限を持つ現地機関がそれを行えないという事態に陥っている。
なぜそうなっているのか、理由は分からない。審査が難しくて、特別に時間がかかっているという内容のものではない。知事周辺でこの問題の事務処理が進まないのは、昨年に裁判が行われた産廃問題で県が敗訴したことが伏線にあり、知事周辺でこの手の話題がタブー視されているのが原因だとする説もあるという。もしそれが本当だとしたら、非常に馬鹿げた話である。
申請を出した業者にしてみれば、今までは県の基準があいまいだったのが原因で不認可であったのであり、単純に業者が責められるものではない。不認可だと叩かれて許可申請を出してみれば、こんどは県の内部事情でいつまでも答えが来ないという理不尽な事態が起こっていることになる。県の決裁が現地機関なのか知事なのかということは県組織の内部事情であり、申請をする業者には関係のないことである。
権限と責任は表裏の関係にある。許認可権限を持つ現地機関にとって知事は上司に当たる。上司がそれを見て何が悪いという理屈がここで用いられるのであれば、この業者が県の怠慢を訴えたときに、誰が怠慢の責任を負うのだろうか。