信州ななめよみ

長野県政をはじめ長野県に関することを思いつくままにつづるもの

野崎修平のススメ

2006-08-31 23:40:13 | Weblog
数日前のこと、東京スター銀行が手数料を取らないことにメガバンクが反発し、提携打ち切りを打診したとするニュースが流れていた。
ATMでお金をおろす時、取引銀行以外でおろせば、お金をおろした客と取引銀行とからATM管理銀行へそれぞれ105円ずつが入ることになるが、東京スター銀行はお客からの105円徴収を廃止した。そうなれば当然、ATMで手数料が取られないほうへ客はなびき、逆に手数料を取る方としてはATMでの収入が減り支出が増えることになるために対策を求められる。
一般の市場感覚では、じゃあ東京スター銀行に合わせてATMの手数料をお客から取らないようにしようとする移行が起こりそうなものだが、メガバンクの場合は違い、勝手に手数料を取らないサービスを導入するとはけしからん、と言うばかりに東京スター銀行に圧力をかけたのだった。

集英社のビジネスジャンプという漫画雑誌に「頭取・野崎修平」という漫画が連載されている。単行本も今年の8月に最新の7巻が発売された。野崎修平シリーズは監査役編12巻、監査役編の続編に当たる銀行大合併編4巻、そして頭取編が最新7巻で、単行本にしてシリーズ23冊目になる。
漫画のストーリーは名門銀行の元エリート行員で一支店長だった野崎修平が監査役に抜擢され、若き監査役として銀行内の不正・悪事と戦うところから始まる。部下の不始末の責任を負わされて黙って出向した元エリートが銀行に戻り、奇しくもその元部下と対等の役員となる中で、総会屋という闇との戦いが監査役編の中心になる。やがて理想を求めて独裁者の頭取権力と戦い、ついには有志の力を募って頭取を失脚させるが、銀行自体が国営化されてしまうという所までが監査役編及び銀行大合併編である。そして2年後に野崎修平は頭取として国営化された銀行に戻ってきて、財政再建に向けて銀行内の改革に取り組み始める。
銀行を舞台としているだけあって、派閥争いや政治家や総会屋なども頻繁に出てくる。見所は、監査役編の前半にある専務失脚までの不祥事対応、最後から銀行大合併編の冒頭に出てくるデパートグループの再建問題と、銀行大合併編の後半に出てくる予知されたシステムトラブルへの対応など。頭取編になれば、監査役編時代の詰めの甘さが消えて一層ドラスティックになり、1巻冒頭から話がとぎれないまま現在まで至っている。
この漫画、とりわけ頭取編では金融庁幹部が悪役になっているが、そこまで深く読む必要もない。作家が優れているのだろう、若手行員の坂本、和田、石原、春日らをはじめ、京極とその息子、かつて行員でありながら総会屋となった沖田、そして野崎修平の敵となった総会屋の松崎や海藤、大物政治家の鷹山(森前首相がモデルか?)、野崎修平を敵視する旧型エリート行員の西條、したたかに生きる橘など、登場人物が生き生きと描かれていて、漫画としても優れている。

とりわけ現代において、この漫画から得られる教訓は少なくない。銀行大合併編で、システムトラブルが予見されたときの野崎修平らによる危機管理対応などは圧巻で、思惑や面子で動く周囲の登場人物がまったくの小物に見える。
野崎修平が監査役だった頃からの同志であった森島は、決して私利私欲のためでなく組織のため取引先のためと思いながら、金融庁の検査を忌避するために資料隠蔽を図ってそれが露見し、副頭取ながら懲戒免職に追い込まれた。
見栄やメンツや思惑だけで利点もサービス精神もないメガバンク志向や当局指導。強い信念を持ち、それらを否定してぶれることのない野崎修平とは対照的に、正義のありかを見失い、自信を失い、サービスの本質を見失っている銀行員達の姿は、けっして例外的なものでも、漫画の世界の中だけのものでもない。
作者がこの漫画を通じて訴えようとするところの真意は別にして、野崎修平という主人公は、胆力があり逃げずに自ら責任を負い、正々堂々としてぶれず、積極的に情報公開を行い、打つべき手は打つ戦略性を持ち、それでいて姑息なことをしない。毅然とした態度を常に保ち、口先だけの現場主義でなく実際に現場を飛び回り、そして成果も出し、とりわけ組織内の若手からの支持が強い。そして家に戻ればファミリーマンで家族の関係が非常に良好。
サラリーマンものの人気漫画では「島耕作」「山口六平太」「釣りバカ日誌」などがあるが、それらが最近マンネリズムに陥ってかつての面白みを失っている中、野崎修平シリーズがマンネリズムに陥らずに長続きしているのは、今の激動の社会をリアルタイムで表現していることのほかに、こうした野崎修平という人物像が現代のサラリーマンに受けているのではないだろうか。またこの漫画では、姑息な生き方をする者が因果応報で哀れな結末を迎えることが多いのも特徴の一つだ。

野崎修平が監査役として仕えた京極頭取は、頭取をトップとする独裁的中央集権体制を作り上げつつ、体力があった頃に対応できた筈の不良債権処理を行わずに見過ごしていた。言葉巧みで外面が良く、頭が良く狡猾で部下に責任をなすりつけて切り捨てるなど、いくつかの点で田中康夫知事を彷彿とさせるところがある。しかし長野県庁には、能吏の野崎真は出てきても、独裁者に臆せず物申す憂える侍の野崎修平は出てこなかった。
独裁者の京極頭取が強引に進めてきた銀行合併路線、それへの反発がシステムトラブルを契機に行内に強まり、そして最後には、役員、部長、支店長、若手など千人単位の行員が支店長会議で頭取への造反を意思表示して京極頭取は失脚する。
最後に野崎修平が頭取として就任する前日、主要な役員や退任する頭取へ挨拶に来た時に述べた言葉を引用する。
「自信を失った企業を建て直す時、深刻な顔をしても何一ついい事はありません」
「必要な事は・・・明るさであり自信です」
「そして現場の行員と一緒になって汗をかけるリーダーです」

5年にわたる長野県の入札制度改革

2006-08-31 00:36:23 | Weblog
村井新知事は県組織におけるチーム・ユニット制度の見直しを表明した。チーム・ユニットという組織単位の名称変化ばかりに注目が集まりがちであるが、今年4月の組織改編では大きな特徴があった。県庁においては以前から行われていた総務部の空洞化、そしてこの4月に顕著になった農政部の事実上の解体。そして出先では、地方事務所の環境森林チーム、建設事務所の整備チームという2種類の大きな組織が誕生した。
地方事務所の環境森林チームは、従来の土地改良課と林務課と生活環境課の一部を合体させた巨大組織で、大きなところではチームの構成員が百人近くになるところもある。建設事務所の整備チームは、従来の建設事務所建設課に計画調査係、土地改良課の農道部門が合体したもので、こちらも構成員が多い。
森林環境チームは国の農林水産省所管事業を、整備チームは国の国土交通省所管事業をほぼ扱っており、いわばこの両者は、県の公共事業のうちの整備部門が二極集中した形になっている。

長野県の公共事業費は、オリンピック招致が決まった直後の平成一桁台後半にピークを迎えた。長野県はオリンピック特需があったため、全国の中でもバブルが弾けたのが遅かったとされているが、オリンピック開催の頃から公共事業費は明らかに下落傾向を示し、不況が漂い始め、倒産が相次いだ。
公共事業費は大幅に減り、受注側である土建業は倒産や規模縮小などが相次いでいるが、一方で奇妙なことに、発注側である県の3公共(農政、林務、土木)の整備部門の陣容はあまり減っていない。今から10年前と比べても、事業部門の担当職員数はあまり減っていないのだ。オリンピック等ではそれを専門に扱う部署があったという点はあるが、それを差し引いても当時に比べて事業費は激減しているのに、なぜ、である。

県の3公共のうち、整備だけでなく維持管理も本格的に行っているのは土木だけである。農政土地改良は整備は県で行うにしても、農道にしても圃場整備にしても事業完了の後は市町村などに移管されるのが普通だ。林務が行う植樹や谷止め堰堤、林道は受益者が限定されている。それに対して土木施設は一般の人に公開使用されることが多く、どうしても維持管理への投資が欠かせない。
今から10年前、土木部では「これからは建設整備でなく維持管理の時代になる」というのが一般的な見方であり、オリンピック特需にわく一部地方を除けば実際そうした傾向も見られていた。しかしそれから10年、土木公共施設の維持管理に対する質量共により高度なサービスが求められる時代は確かに到来しているが、維持管理よりも建設整備のほうが未だに重点が置かれ、道路や河川などの維持管理を担当する建設事務所の維持管理チームはどこもスタッフが貧弱で手薄である。公共事業が減っていることは、事業用地の取得を担当とする用地担当職員が事業費枠相応に減っていることが証明しているのに、事業部門の本丸は昔のままだ。これは出先の地方事務所・建設事務所だけでなく、県庁の担当も類似の傾向がある。
なぜそうなっているのだろうか。入札制度改革により入札手続きが非常に煩雑化したこと、昔に造ったものが工法やキャパシティや材質などで寿命を迎えていて本格的改築を求められていること、従来に無い災害が増えていること、新たな公共事業が生まれていることなど。原因としては幾つか考えられ、どれも一面を捉えているのだろう。

公共事業の入札では、談合というものがつきまとう。談合の是非論でしばしば衝突があるように、談合には2つの面があり、記者クラブに通じる仲間内だけのムラの論理の社会であるという面の一方で、かつては縄張り意識や専門性による責任施工の考え方も強かった。江戸期からの狭い社会を背負っている間はそれでも通用したのだが、高速交通網時代、情報課全盛時代を迎えて流通が盛んになると、そうしたムラの論理が世間一般で通用しなくなり、公共事業から談合を排除しようという動きが当然出てくる。
談合の一面にあった縄張り意識による責任施工は公的な側面を持っていて、それによって官公庁のコストが安く済んでいたところがあった。談合廃止となると、業者の選定から高い透明性を保つ必要があり、またこれまでと違って地元事情に暗い業者が参入してくるために入札案件1件ごとにより多くの情報提供が必要となり、それに費やす労力という、案外見過ごされがちなコストがかかる。また単純に談合を廃止して競争入札にすると、ただでさえパイが小さくなっている中で取り合いになり、ダンピングが横行し、必然の結果として品質の低下が生じる。つまり安物買いの銭失い、というやつだ。
これらは、談合を一切排除すると決める時点であらかた想定されることばかりである。想定される問題点は予め解決法を見いだしておき、要するコストを最低限に抑える目処が立ってから実行に移すのがコスト意識を持つものとしての常識である。
しかし、平成13年から長野県で行われてきた公共事業入札制度改革という名の実験の繰り返しは、まさにこのコストの無駄遣いの連続だった。その結果として入札の準備段階で多くの人件費を要し、更に今までは責任施工で行われていた部分までを発注者が受け持つことになるので、更に人件費を必要とする。

田中康夫知事のもと行われてきた公共事業入札制度改革。田中康夫知事の支持者にはこれを自慢する者もいるが、まず問題が表面化したのが第一測量等によるダンピングであり、次いで品質の低下であり、これで入札制度の完成版だというものになった後に発覚した談合。そして別の角度から見れば、県では事業部門に未だ多大な人件費を割いている。
談合と談合防止とはいたちごっこの面が避けられない。それならばいっそのこと、県土木部の補修工事等で行っているような、希望業者による当番制度にしてその当番表を公表するという手法のほうが、透明性を確保しつつ発注の手続きが簡略化できる。
シンドラー社のエレベーター事故などにみる、維持管理面で表面化する専門度の高い施設、企業秘密や企業の癖による同業他者の排除傾向の問題。これらについても、単純に談合・馴れ合いの排除というだけでは問題解決に至らないものがある。

談合の廃止はいい。しかし、田中康夫知事のもと長野県が行ってきた談合廃止の方法はそうした具体面での戦略的思考が皆無の、談合廃止というプラカードだけが立派ではあるが実情が伴わない劣悪なものであった。田中県政への批判の典型事例ともいえる。
また談合廃止といえば、田中康夫知事に深く関わっている公用車購入の不透明な入札や、百条委員会でも取り上げられた下水道公社による入札において田中康夫知事後援会事務局長の下水道業者が高額落札をしたこと、これらの疑惑は未だ晴らされていない。そして「落札率90%以上の入札は談合だ」と主張する、田中康夫知事とは比較的親しい自称談合バスターの上條剛弁護士も、こと田中康夫知事の周辺の疑惑の入札に関しては口をつぐんでいる。

最後まで瞬間芸の田中県政

2006-08-30 23:17:17 | Weblog
田中康夫知事が長野県の知事でいるのも8月限りとなった。9月1日から知事となる村井新知事が副知事を2人とする方針を固め、一部新聞やテレビ等では具体名も取りざたされている。その一方で、前回に触れたように任期終了間際になって、知事周辺の職員らに関する人事の噂が流れている。
前回に触れた2人についてはほぼ確定事項となっているらしく、県職労から人事当局へ、そのような人事はおかしいではないかとする申し入れがあったが、当局側の人事活性チームリーダーらは口を重くしたまま明確な説明が無かったようだ。彼ら人事担当スタッフもこの人事の非常識さに気付いているのだろう。問題なのは特進と呼ばれる特別待遇的な昇格よりもむしろ、退任間際の首長がこうした人事異動を発令するという点にある。

そして続けて出てきたのが、田中県政最大の問題人事とされている松林経営戦略局長の処遇で、県庁を中心に、企業局のトップである公営企業管理者になるのではないか、とする噂が広まっている。
公営企業管理者は県企業局の社長ともいうべき存在で、出納長などと同様に特別職の扱いを受ける。実際には企業局長が企業局の実務を采配しているので、ぶっちゃけて言えばお飾りでも勤まるポストである。常置しなければならないことになっているが、この3月に前任者が引退してからは空席となっていた。
経営戦略局長というポストは現在の長野県庁において事務方のトップであり、いわば“次の昇進昇格がない”ポストである。一方で村井新知事は経営戦略局という集団を解散させることを表明しており、当然ながら局長ポストも無くなる。となれば、これまでの長野県庁で事務方トップであった総務部長の経験者が出納長や公営企業管理者になっているところを見ても、事務方トップが公営企業管理者というのはおかしな話ではない。しかし松林局長は知事と一部職員を除く県庁・県議会のほぼ全員から嫌われ裏では馬鹿にされているという人物である。
実はこの3月の時にも、松林局長が公営企業管理者になるのではないか、という話が一部では出ていたが、自分にとって都合のいい松林局長をみすみす田中康夫知事が手放すわけもなく、その話は立ち消えに終わった。今度の噂も、今年3月のその話を敷衍した所があり、半ば希望的観測から県庁職員あたりが広めた話かもしれない。

人事に限らず、刹那の話題になりそうなことを喜んで取り上げて“サプライズ”に使うというのは、テレビ的手法であり、いわば瞬間芸でもある。その人事が発表された時だけはインパクトがあるが、就任してしまえば話題性はほぼ終わる。これをもって県庁を去ることになる田中康夫知事はその瞬間芸の“メリット”を享受だけできるというわけだ。そして瞬間芸の後始末を行い、ツケを払うのは、村井県政以降の県政でありであり県民である

退場前夜の人事異動でにじみ出る田中県政の問題点

2006-08-26 16:11:07 | Weblog
今月いっぱいをもって田中康夫知事は県政の舞台を去る。しかし、その間際になって人事で妙な動きが出ている。
一つが長野県の公共事業評価監視委員会の委員に金子勝氏らを任命しようとする動きがある点であり、もう一つは8月31日付け人事で以前に触れた野崎真氏らが昇格という内示が発令された点である。

今回、田中康夫知事関連で注目を浴びている人事昇格は2人。野崎真氏の場合は昨年4月から3度目の昇格であり、もう一人の職員Y氏は平成12年度採用の土木技術系の若手であり、どちらも切れ者であり田中康夫知事のお気に入りであるが、こうした人事昇格は従来の人事昇格の基準から逸脱したものである。
政策を後任知事にほぼ丸投げしておきながら、こうした人事異動を行うことの道理が無いうえに、当の職員達にとっても何かと“逆風”になりがちなものだ。

いや、それ以上の問題がこの人事の陰にある。野崎氏の場合はとりわけ田中政権の後期において県政中枢を支えた功労者の一人であろうし、長年停滞していた女鳥羽川の改修計画を地元の意見を取り入れながら実施に移した点などでも功績があるが、一方で野崎氏は以前にも取り上げたように、百条委員会で取り上げられた騒動の当事者の一人である。
そしてもう一人のY氏のほうも以前に紹介したが、平成12年に伊那建設事務所計画調査係で新規職員となり、1年間とはいえ後にパソコン問題で逮捕されることになる太田多久治氏の直属の部下であった。伊那建設事務所にパソコン問題で警察の手が入るたった2日前に伊那建設事務所から県庁の地球環境課へと異動し、その後は切れ者ぶりを遺憾なく発揮して田中康夫知事に気に入られている一方、県組織内の禁煙施策推進担当として若手の割には県職員の間でも比較的名が知られている。田中康夫知事のメル友ともいわれ、太田氏がパソコン問題で逮捕、そして懲戒免職、道路建設課勤務時代に太田氏にパソコン購入を依頼したとされる経営戦略局Y主任企画員(当時)も処分を受ける中で、この職員には何の咎めも無かった。直属の上司(係長)であった太田氏がY氏を庇ったとする声もある。
そしてこれは偶然であろうが、先日の災害応急復旧現場で木製ガードレールが設置された辰野町徳本水、あの場所にはバイパス計画があったことは前述したが、その計画を担当して地元説明を行っていたのが他ならぬY氏であった。

平成14年、パソコン問題が発覚して570台を超す県機関のパソコンが“不正入手”であった事が明らかになった時、土木部では職員全員に銀行の振込用紙を配布してカンパを募ったことがある。これは太田氏が逮捕されるより前のことだが、この時はパソコン問題に関わったか関わっていないかに関係なく、土木部全職員が一人数万円から多い人で100万円近くともされる寄付を行い、“不正入手”相当額の千万円単位の金額を県費に納入する形で謝罪を行った。私物化したような不心得者も中にはいたであろうが、その調査はなぜか途中で中断されたまま、逮捕された太田氏に全責任をなすりつける形で幕引きが図られた。少なくても職場で公用として使われていた“不正入手”のパソコンについては、当時の土木部職員はそうしてケジメをつけたのだ。
全体の責任を一部特定の者に全て負わせて済ませてしまおうという、昨今注目を浴びる靖国問題と共通する日本人の悪い体質。2000年知事選での公職選挙法違反と同様に土木部以外でもあったのに土木部だけが狙い打ちされたこと。なぜ土木部ほかがパソコンを“不正入手”しようとしたのか、業務上パソコンが必要であったのに導入を渋って怠ってきた側の責任が全く問われていない点。土木部がとりわけ抵抗した様子もないのに、県当局による調査が中すぼみで終わった点。
長野県土木部を舞台にして起こったパソコン問題は、実は県庁体質の負の部分が出た事件でもあった。

この人事情報は昨日から、県庁周辺から漏れ出しているが、それを語るものは一様に口止め人事だと評している。あるいは論功行賞かもしれない。しかしそれもおかしなもので、権力者たる知事が交代する中で、口止めも何もない。村井新知事が彼らに口止めされた内容を明かすよう求めたとき、彼らはどうするのだろうか。逆らえば処分の対象になるであろうし、降格人事もあり得るかもしれぬ。
村井知事には県政の課題が山のようにある。それを承知の上で敢えて希望することは、こうした田中県政時代の枠外的人事異動の検証を行うべきであり、それなくして県職員の意識改革などと述べてもアドバルーンだけになってしまうだろう。野崎氏等には村井新知事就任の前に人事発令が一端出されることになるのだが、村井新知事においては、彼らに意向確認を行って、肩書きだけが大きくなるというものでなく、格相当の責任を持つ職務へと改めて異動させてもよいのではないか。
また、改めてパソコン問題やはるさめ問題等、特定職員に不当に重い刑罰、処罰が課せられた案件の全容解明を行うべきである。

関東地方の大停電に思う

2006-08-15 15:22:35 | Weblog
8月14日の朝、クレーン船が送電線に接触したことが原因で、関東地方のうちの中央部から西南部にかけて大停電に襲われた。お盆だったことが不幸中の幸いで、大きな事故等もなかったが、これに関する問題点としては、クレーン船側の問題、電力会社側の問題、更にはもっと全体的な社会インフラとしての問題がある。
クレーン船側の問題としては、送電線を認識できなかったという船長、更に言えば工事発注者側にも落ち度があったかもしれない。特殊な大型車両が道路を通過する時には、必ず道路管理者に条件を付しての通行許可を貰うことが義務付けられているが、それと同じことを河川運行の特殊船舶についても行うべきではないだろうか。
電力会社側としては、自衛隊ヘリ機の接触による墜落事故、長野県においてもSBC取材ヘリの接触による墜落事故が起こっており、送電線を目視その他で認識させるような努力が行われているのかどうか。今回の場合など、送電線の上下流両側にワイヤーを吊っておくなど予防策を講じておけば防げた事故であろう。
危機管理において「もし~だったら」という想像力を欠く事はできない。逆に言えば、そうした発想をする習慣がない者に危機管理を委ねることはできない。想定をしておけば対策を講じることができる。

東京地方大停電と聞いたとき、少年マガジンの漫画、加藤元浩「Q.E.D.」の一編を連想した。その漫画ではアメリカの大学における社会工学のシミュレーションプログラムをハッキングした政府関係者がその処理に失敗し、そのプログラムが東京に残って自生を始めてしまい、近隣のコンピューターメモリに片っ端から侵入を繰り返して信号、鉄道などを含め東京中心部のシステムが全て止まってしまう大ハプニングが起こる。この時にも今回の停電もそうだったが、日本ではあまり事故が起こらず、これを悪用しての暴動等も起こらないのは、治安の悪化が叫ばれてはいるものの日本の治安の良さなのだろうか。
同漫画の場合、自生を始めて暴走したプログラムがヤコブの階段を求める習性を利用して、主人公らがプログラムを廃棄寸前の人工衛星へ移植させて物語はおしまいとなるが、今回の送電線の場合はテロ事件に悪用されるのではということを想定し、電力会社だけでなく各自がバックアップ体制を図っておく必要がある。自生プログラムの暴走という事例はそうそう起こらないだろうが、送電線ショックによる停電のほうは充分に想定されうるものであり、実際にこれまでにも起こっているのだ。
自家発電を備えるというものも対策の一つであり、今回の騒動で病院関係が全然出ていないことから、自家発電切り替えがうまくいった所は多いのだろうが、中には日経のように自家発電切り替えもうまくいかなかったところがある。他が自家発電切り替えで済ませている以上、停電だけのせいにはできない。

回転ドア、自動車、建築の手抜き、エレベーター、プールと、これまで安心安全だと思っていたものが実は砂上の楼閣であることが明らかになるケースが相次ぎ、安全性神話が崩壊している。昨年から問題になっている通勤電車の脱線や今回の送電線接触もまた然り、農業生産物でもアメリカのポストハーベストやBSEだけでなく、先週には中国茶の問題も表面化した。これらはよくよく原因を探ってみれば多くがヒューマンエラーあるいは意図的な手抜きである。
テロにしろ事故にしろ土石流災害にしろ、危機はこちらの準備が整っているかどうかを確認してから起こってくれるものではない。常に物と心での準備をしておかねばならないのだ。