昨日はO氏邸にて忘年会をやりました。
行く前に美容院で予想よるはるかに時間をとり、予定していたよりだいぶ遅い到着
でした。(おくれてごめんね)
到着すると、皆クリスマスイブにやっていたM-1のビデオを見ていました。
私はこのところ若手の漫才は単にバカやって失笑を買うタイプが増えてるなあと
思って見ていなかったのですが、それは偏見でした。
もちろん上記のようなコンビもあって全部が全部おもしろいというわけでは
ないですが、決勝に残ったり優勝するようなコンビは、やはりしっかりと
仕込みをしてきていますね。
私自身人にしゃべって理解してもらうのを求められる仕事なのですが、
その中でも人を笑わせるのは一番難しい。笑えと言って腹の底から笑わせるのは
無理です。先ほどの冷笑のようなものではなく、爆笑となると本当に難しい。
最近齋藤孝さんの本を読んでますが、そこにあって私自身が笑いの根本だなと
実感したのが、「共感」と「意外性」です。
どう言うときに笑ったかというと、まず
「あーそう言うことあるよね」
とか
「あ、これはこの話だな」
とまず自分自身何らかの形で話に入りこめる雰囲気がある。
でも、それがそのまま当たり前の形で話が終わったのではつまらない。
「そこでこうくるか」
という意外性が笑いにつながるんですね。
小説などの構成ででよく言われる「起承転結」の「起承」で共感を呼び
「転」で笑いを取る。「結」の部分は話の途中ならツッコミ役が入れますが、
(もちろんこんな単純なものではなく、ツッコミのところに何でそのツッコミだ
と観客がつっこむとか、わざとつっこまず流すとかいろいろパターンはあります)
これは実のところ見ている観客自身が「なんでやねん」とツッコミ入れる
(実際にはそのかわりに笑う)ところで完成なんだと思うんですよね。
だから観客から笑いが取れない、すなわち結に到達しないのは、転の部分も
そうですが、それ以前に起承のところで見ている方をつかみ切れてないから
ではないかなあと思います。カルトなネタとか、人によっては下ネタ持って
こられると、この辺がやはり厳しいですね。
やはり王道は多くの人に共感を呼び、その上でいかに落とすか、と言うところに
かかってるんだと思います。古典落語から、もっと言えば狂言などから、それは
変わらぬ笑いのベースなんだと思います。
なぜこんな話をしたかと言いますと、あとでO氏の結婚式の2次会のビデオを
見たんですが、そのときの自分のスピーチを見て、あー、こりゃ全然ダメだと
反省したからなのです。
これも齋藤さんの本にあるんですが
「なぜ自分がこの場にいて、ここでしゃべらないといけないか」
ということ、そして
「聞いている人の時間に見合った何かをしゃべること」
を全然意識できていなかったからです。
しゃべらなきゃと言う思いだけが先に立ち、用意してあったメモやマイクを
おいて素でしゃべろうとしたのですが、半酩酊の時にこんな事やっちゃダメでした。
もーまとまりが全然ありません。ただしゃべってるだけ。原稿丸読みは
避けたいですが、やはりきちんとしゃべるべきポイントを押さえておかないと、
ただ冗長に音声を垂れ流してるだけ。あれならまだメモ丸読みした方がましかも
と言う出来合でした。こんなのを講義でやったら生徒は聞かなくなっちゃいますし、
避けたいところですね。
「しゃべり慣れてはいても、話がうまいわけではないという人が多い」
という指摘が齋藤さんの本でも何度も出てくるんですが、まさにそれでした。
笑いを取れるネタもないし、それ以前に「あんた何しゃべってるの?」という
状態。起承転結どころか、事実の羅列だけというバタバタのできでした。
結婚式でスピーチするのはこれで3度目だったのですが、ちっとも進歩がなくて
恥ずかしいです。人前でしゃべることには慣れてきているからこそ、落ち着いて
きっちり話すべきことを話せるようになりたいですね。
さてこの忘年会、本来のメインはもちろん旧交を温めるというものですが、
今回の場合はI氏手製のお好み焼きをいただくというのがありました。
前回は時間の関係で鍋になったのですが、今回は早く集まれていたので
きっちり買い出しをしてからじっくり作れました。
作ったのはオーソドックスに豚・エビ・イカのお好み焼き。
材料としてお好み焼き粉(普通の日清などのメリケン粉ではなくだしが入って
いるタイプ)、山芋、卵、キャベツ、ネギ、そして具の豚肉、モンゴイカの胴の
冷凍もの、エビのむき身、さらに上にかける花がつおと青のり、アレンジの
とろけるチーズをそろえ、さらに飲むお酒なんかを買い込んで帰りました。
帰ったらさっそく作り始め。まずボールでお好み焼き粉を水に溶いてかき混ぜ。
泡立て器がなかったので、I氏は割り箸を束ねてぐるぐるこねてました。その横で
O氏がキャベツのみじん切りやネギを刻み、N君が山芋をする、E夫人は間で
必要なものを用意するという感じで、手が空いた残りでジェンガやってました。
I氏は粉の準備ができたあと、豚肉に手を入れる作業へ。
私がそれまでイメージしているお好み焼きの豚というのは豚バラでそのまま
焼くというものなんですが、I氏のところではしゃぶしゃぶ用の脂身が少ない
ところを使い、さらにそこから脂身をこそぎ取って作るのです。
仕込みが終わり、あとはI氏の独壇場。といた粉と長芋、キャベツに卵と
あげたまを入れて混ぜ合わせ、鉄板に流し込んで焼きますが、ここで半分だけ
入れて豚肉をその上に広げ、さらに挟み込む感じで生地を流し込むという
作り方なのです。
やがてきれいに焼き上がり、まずは家主に敬意を表してO氏から。
反応は上々で、順次食べていき、私も食べましたが、確かにおいしかったです。
ふっくらとしていて、上品な焼き上がり。山芋はうちもいれますが、やはりこれと
あげたまで生地がかなり変わりますね。何より粉の溶き方。緩いと広がりますし、
水が少ないとほんとに粉っぽくなっちゃうんですが、バランスが良かったです。
豚肉も脂身を落として真ん中に挟んであるので、肉のうまみがきれいに閉じこめ
られていておいしかったです。
「式でピアノ引いたときと同じぐらい真剣な表情」
と評されていたように、作るのに打ち込んでいました。
その分できあがりにも満足だったようです。
テレビを見たりする部分が多かったのであまり話し込むと言うところまでは
行きませんでしたが、楽しい忘年会でした。
またこうして集まりたいなあと思うと共に、人に楽しんでもらえる話し方が
できること、そして今度は私も何か料理を披露しないと、と思った忘年会でした。
行く前に美容院で予想よるはるかに時間をとり、予定していたよりだいぶ遅い到着
でした。(おくれてごめんね)
到着すると、皆クリスマスイブにやっていたM-1のビデオを見ていました。
私はこのところ若手の漫才は単にバカやって失笑を買うタイプが増えてるなあと
思って見ていなかったのですが、それは偏見でした。
もちろん上記のようなコンビもあって全部が全部おもしろいというわけでは
ないですが、決勝に残ったり優勝するようなコンビは、やはりしっかりと
仕込みをしてきていますね。
私自身人にしゃべって理解してもらうのを求められる仕事なのですが、
その中でも人を笑わせるのは一番難しい。笑えと言って腹の底から笑わせるのは
無理です。先ほどの冷笑のようなものではなく、爆笑となると本当に難しい。
最近齋藤孝さんの本を読んでますが、そこにあって私自身が笑いの根本だなと
実感したのが、「共感」と「意外性」です。
どう言うときに笑ったかというと、まず
「あーそう言うことあるよね」
とか
「あ、これはこの話だな」
とまず自分自身何らかの形で話に入りこめる雰囲気がある。
でも、それがそのまま当たり前の形で話が終わったのではつまらない。
「そこでこうくるか」
という意外性が笑いにつながるんですね。
小説などの構成ででよく言われる「起承転結」の「起承」で共感を呼び
「転」で笑いを取る。「結」の部分は話の途中ならツッコミ役が入れますが、
(もちろんこんな単純なものではなく、ツッコミのところに何でそのツッコミだ
と観客がつっこむとか、わざとつっこまず流すとかいろいろパターンはあります)
これは実のところ見ている観客自身が「なんでやねん」とツッコミ入れる
(実際にはそのかわりに笑う)ところで完成なんだと思うんですよね。
だから観客から笑いが取れない、すなわち結に到達しないのは、転の部分も
そうですが、それ以前に起承のところで見ている方をつかみ切れてないから
ではないかなあと思います。カルトなネタとか、人によっては下ネタ持って
こられると、この辺がやはり厳しいですね。
やはり王道は多くの人に共感を呼び、その上でいかに落とすか、と言うところに
かかってるんだと思います。古典落語から、もっと言えば狂言などから、それは
変わらぬ笑いのベースなんだと思います。
なぜこんな話をしたかと言いますと、あとでO氏の結婚式の2次会のビデオを
見たんですが、そのときの自分のスピーチを見て、あー、こりゃ全然ダメだと
反省したからなのです。
これも齋藤さんの本にあるんですが
「なぜ自分がこの場にいて、ここでしゃべらないといけないか」
ということ、そして
「聞いている人の時間に見合った何かをしゃべること」
を全然意識できていなかったからです。
しゃべらなきゃと言う思いだけが先に立ち、用意してあったメモやマイクを
おいて素でしゃべろうとしたのですが、半酩酊の時にこんな事やっちゃダメでした。
もーまとまりが全然ありません。ただしゃべってるだけ。原稿丸読みは
避けたいですが、やはりきちんとしゃべるべきポイントを押さえておかないと、
ただ冗長に音声を垂れ流してるだけ。あれならまだメモ丸読みした方がましかも
と言う出来合でした。こんなのを講義でやったら生徒は聞かなくなっちゃいますし、
避けたいところですね。
「しゃべり慣れてはいても、話がうまいわけではないという人が多い」
という指摘が齋藤さんの本でも何度も出てくるんですが、まさにそれでした。
笑いを取れるネタもないし、それ以前に「あんた何しゃべってるの?」という
状態。起承転結どころか、事実の羅列だけというバタバタのできでした。
結婚式でスピーチするのはこれで3度目だったのですが、ちっとも進歩がなくて
恥ずかしいです。人前でしゃべることには慣れてきているからこそ、落ち着いて
きっちり話すべきことを話せるようになりたいですね。
さてこの忘年会、本来のメインはもちろん旧交を温めるというものですが、
今回の場合はI氏手製のお好み焼きをいただくというのがありました。
前回は時間の関係で鍋になったのですが、今回は早く集まれていたので
きっちり買い出しをしてからじっくり作れました。
作ったのはオーソドックスに豚・エビ・イカのお好み焼き。
材料としてお好み焼き粉(普通の日清などのメリケン粉ではなくだしが入って
いるタイプ)、山芋、卵、キャベツ、ネギ、そして具の豚肉、モンゴイカの胴の
冷凍もの、エビのむき身、さらに上にかける花がつおと青のり、アレンジの
とろけるチーズをそろえ、さらに飲むお酒なんかを買い込んで帰りました。
帰ったらさっそく作り始め。まずボールでお好み焼き粉を水に溶いてかき混ぜ。
泡立て器がなかったので、I氏は割り箸を束ねてぐるぐるこねてました。その横で
O氏がキャベツのみじん切りやネギを刻み、N君が山芋をする、E夫人は間で
必要なものを用意するという感じで、手が空いた残りでジェンガやってました。
I氏は粉の準備ができたあと、豚肉に手を入れる作業へ。
私がそれまでイメージしているお好み焼きの豚というのは豚バラでそのまま
焼くというものなんですが、I氏のところではしゃぶしゃぶ用の脂身が少ない
ところを使い、さらにそこから脂身をこそぎ取って作るのです。
仕込みが終わり、あとはI氏の独壇場。といた粉と長芋、キャベツに卵と
あげたまを入れて混ぜ合わせ、鉄板に流し込んで焼きますが、ここで半分だけ
入れて豚肉をその上に広げ、さらに挟み込む感じで生地を流し込むという
作り方なのです。
やがてきれいに焼き上がり、まずは家主に敬意を表してO氏から。
反応は上々で、順次食べていき、私も食べましたが、確かにおいしかったです。
ふっくらとしていて、上品な焼き上がり。山芋はうちもいれますが、やはりこれと
あげたまで生地がかなり変わりますね。何より粉の溶き方。緩いと広がりますし、
水が少ないとほんとに粉っぽくなっちゃうんですが、バランスが良かったです。
豚肉も脂身を落として真ん中に挟んであるので、肉のうまみがきれいに閉じこめ
られていておいしかったです。
「式でピアノ引いたときと同じぐらい真剣な表情」
と評されていたように、作るのに打ち込んでいました。
その分できあがりにも満足だったようです。
テレビを見たりする部分が多かったのであまり話し込むと言うところまでは
行きませんでしたが、楽しい忘年会でした。
またこうして集まりたいなあと思うと共に、人に楽しんでもらえる話し方が
できること、そして今度は私も何か料理を披露しないと、と思った忘年会でした。