北杜夫(もりお)の「どくとるマンボウ昆虫記」の冒頭に次のようなことが書いてある。『七面倒な理屈はいわぬ。とにかく物をあつめたがる人種がいるのは確かなことだ。人々は切手をあつめる。人形をあつめる。キーホルダーをあつめる。ビンやカワラケをあつめる。これはもう理屈ではない。ある種の分裂病患者に濫集(らんしゅう)症というのがあるが、およそ役に立たぬもの、汚らしいもの、捨てるよりほかないものを、無闇やたらと蒐集(しゅうしゅう)する。彼らはそうして集めた毛髪、木片、ボール紙の切れっぱし、爪の屑などをひしとかき抱き、他人がそばにくると一片でも渡してなるものかという表情をする。そっとしてやったほうがいい。』
ともかく集めたがる人がいるもので、集めるのは物とは限らない、あるいは形のないものまで様々です。
私もそういった人種に属し、小学生のころから色々なものを集めてきました。どうせ集めるなら人の集めない珍しいものということで、「人は何を集めるのかというテーマ」で人の集めているものについてのデータを集めようと思いました。「収集の収集」ですが、人はあらゆるものを集めるものだということが分かっただけでした。
集めるという行為は限りがないし、一見「何かアホらしく」思えるかもしれませんが、それはまさに人生そのものを映し出す鏡のようなものです。そういう「アホらしさ」が人生に彩りを添え、生きる喜びと理屈では割り切れないある種の「懐かしさ」を与えてくれます。
「どくとるマンボウ昆虫記」の冒頭に出てくるように、集める代表的なものは切手です。今のように平和で平穏な時代には、口ではどのような立派なことを言うことはできます。しかし、一旦危機に臨んで自分がどのように行動できるかは、普段のその人の人生観がものをいいます。例えば、客船がまさに沈もうとする時、数少ないボートにわれ先に人を押しのけて乗る、お年寄り子どもご婦人を先に乗せ、自分はタバコを喫している。まさに生きるか死ぬかの瀬戸際に、その人の価値、人間性が問われます。切手雌雄集も平和で経済的に恵まれている時には、どのようなことでもできます。瀬戸際の極限状態に、どのような行動をしたのでしょうか。データは少ない、そしてどういうわけか切手収集家は多くを語りません。数少ない例を紹介します。
切手関連の仕事をしていたMさんは「異色・平和印刷・目打12・橙赤2銭乃木大将切手の思い出」を書いている。戦災を受ける直前の約一週間前に目黒区原町郵便局で手に入れた刷色の違う乃木2銭切手を油脂焼夷弾の直撃で焼いてしまった。そして万余の蔵書が焼けてしまったのに切手の1924年版米スコットカタログだけが奇跡的に焼け残る、Mさんの言葉を借りると『私は異様な感動を受けた。そり感は私に一つの指針を与えていた。汝は切手で起き上がれ!汝の再建は切手にすがれ!このカタログはお前の再出発の指針となろう!と天啓があったように感じ、私は深く肝に銘じたのである。』
そしてその午後、天啓のせいか偶然にも焼け残った原町郵便局で再び焼けたものと同じ乃木2銭切手のシートを手に入れて、現在では異色のものとなっているという。あのルメー提督の東京大空襲下でも、自分の命よりも切手のことを考えていた人がいたのです。
趣味などに一般に人には理解しがたい事柄に熱中している人のことをマニアといいます。マニアとは「熱狂」、「狂気」「・・狂」という、あまりいい意味には使われません。これは熱中するあまりほかの事に目がいかなくなるからかもしれません。自分でマニアと言う人はマニアではありません。自分のことがわかるからです。真のマニアとは、自分は何も集めていないと普通にしている人が、いかにもマニアという気がします。
ともかく集めたがる人がいるもので、集めるのは物とは限らない、あるいは形のないものまで様々です。
私もそういった人種に属し、小学生のころから色々なものを集めてきました。どうせ集めるなら人の集めない珍しいものということで、「人は何を集めるのかというテーマ」で人の集めているものについてのデータを集めようと思いました。「収集の収集」ですが、人はあらゆるものを集めるものだということが分かっただけでした。
集めるという行為は限りがないし、一見「何かアホらしく」思えるかもしれませんが、それはまさに人生そのものを映し出す鏡のようなものです。そういう「アホらしさ」が人生に彩りを添え、生きる喜びと理屈では割り切れないある種の「懐かしさ」を与えてくれます。
「どくとるマンボウ昆虫記」の冒頭に出てくるように、集める代表的なものは切手です。今のように平和で平穏な時代には、口ではどのような立派なことを言うことはできます。しかし、一旦危機に臨んで自分がどのように行動できるかは、普段のその人の人生観がものをいいます。例えば、客船がまさに沈もうとする時、数少ないボートにわれ先に人を押しのけて乗る、お年寄り子どもご婦人を先に乗せ、自分はタバコを喫している。まさに生きるか死ぬかの瀬戸際に、その人の価値、人間性が問われます。切手雌雄集も平和で経済的に恵まれている時には、どのようなことでもできます。瀬戸際の極限状態に、どのような行動をしたのでしょうか。データは少ない、そしてどういうわけか切手収集家は多くを語りません。数少ない例を紹介します。
切手関連の仕事をしていたMさんは「異色・平和印刷・目打12・橙赤2銭乃木大将切手の思い出」を書いている。戦災を受ける直前の約一週間前に目黒区原町郵便局で手に入れた刷色の違う乃木2銭切手を油脂焼夷弾の直撃で焼いてしまった。そして万余の蔵書が焼けてしまったのに切手の1924年版米スコットカタログだけが奇跡的に焼け残る、Mさんの言葉を借りると『私は異様な感動を受けた。そり感は私に一つの指針を与えていた。汝は切手で起き上がれ!汝の再建は切手にすがれ!このカタログはお前の再出発の指針となろう!と天啓があったように感じ、私は深く肝に銘じたのである。』
そしてその午後、天啓のせいか偶然にも焼け残った原町郵便局で再び焼けたものと同じ乃木2銭切手のシートを手に入れて、現在では異色のものとなっているという。あのルメー提督の東京大空襲下でも、自分の命よりも切手のことを考えていた人がいたのです。
趣味などに一般に人には理解しがたい事柄に熱中している人のことをマニアといいます。マニアとは「熱狂」、「狂気」「・・狂」という、あまりいい意味には使われません。これは熱中するあまりほかの事に目がいかなくなるからかもしれません。自分でマニアと言う人はマニアではありません。自分のことがわかるからです。真のマニアとは、自分は何も集めていないと普通にしている人が、いかにもマニアという気がします。