NPO法人 地域福祉協会

清掃事業  森林事業(植栽・剪定)

国民の意識について。

2017-07-25 | コラム
ユングの集団無意識論というのがある。

国民全体の無意識を
明けきものに
変ずれば

日本国家の運気も
明朗なるものに変わるであろう。

晏嬰(晏子)が
忠臣の誉れたる所以は
暗愚な君主にも
忠節を貫いたことである。



あらゆる環境における
長上
すなわち責任者への忠節を尽くすならば

そこから
国民の集団無意識は
古代日本の如く
大らかで清澄なるものに変ずるであろう。


田中角栄総理の時も
吉田茂総理の時も
国民は感謝が足りなかったのではないか。


そこに
お多福さま
布袋さんがいても

心を平らかに準備していなくては
神様に気づかないものである。


高橋(痩せ仏)

総論と各論、戦略と戦術。

2017-07-25 | コラム
私は
急に
大風呂敷な
大局的な総論を述べ始めたようだが

何ら心配に及ばない。

活動の詳細な報告は
それ自身大切であるが

その活動が
客観的にどのような意味を持つか

一般論や本質論に言及しておく必要があるのだ。


そして
あまりにも
現下の日本において
総論的な、戦略的な論考が欠落しているので
あえて
自説を提示しているのである。

草刈りの意義も
草刈りの大変さを理解した上で
低木や花を植えれば良いとか
チップや石を敷設すれば良いという流れが出てくるのだ。

あるいは
森林と環境と経済産業の構造も
優先順位やイメージを明確にすべきである。

環境が最優先で
そのなかで
経済と産業構造を考え
小規模な自給農林水産業を推進し
スギの人工林を全伐するといった流れに逢着するのだ。


何れにせよ
内田樹先生や網野善彦先生の思いを
現実的な政治や政策に落とし込むのが
私のリアリズムなミッションであろう。

高橋記


政治・行政改革の序説。

2017-07-24 | コラム
政策的な各論を実現するためには
政治的な統治
ガバナンスを発揮する制度を作らねばならぬ。

現時点では
罪刑法定主義
立憲主義
法実証主義といった

実定法(文章)を

金科玉条として崇めている近代主義の政治であり

民主主義という
愚民政治システムを採用している
近代国家では

トップダウンのガバナンスを発揮することは困難である。


本来的には
近代政治制度を超克して

バチカンのピラミッド型
トップダウン意思決定システムの

政治制度への汎用が最適である。


一般意思や国民主権、君主主権という概念は
それ自身、人民を誤導するものである。

神の意志とそれを代弁する教導職(教皇様)の意志が
一般意思に優先せねばならぬ。

端的に言えば
政治的、世俗的な主権(共和制であれ君主制であれ)が
聖座と聖権の人事や典礼にまで介入するフランス革命やイギリス革命は

進歩ではなく
堕落でありテロリズムである。

国王が
勝手に国教会を作り
バチカンから逃避したイギリスは
不名誉な革命を為したに過ぎない。


高橋(ネオトミズム)

社会保障政策に関する序説。

2017-07-24 | コラム
日本は島国である。

世界が日本列島ならば
能登島のようなかんじであろう。


よって
おおげさな
大アジア主義や
国粋主義などは

現実には
井の中の蛙であり
無力、無知の証左である。

とにかく
社会保障から
まず
社会保険制度を分離し
廃止せねばならぬ。

高い税金を払った上に
高い社会保険料を払うことは
庶民には困難である。

まず年金、医療保険を国が経営する必要はない。

もはや
民間保険会社の信用と実績は
社会保険庁を凌駕しているのである。

国は
小さな政府を志向し
税に一元化すべきである。

個人の老後は
生涯働き続けたい人と
悠々自適な隠居生活に
二分される。

ぼくは
生涯活動し続けて
静かに生を終えたい。

よって
普通の保険も貯蓄も要らない。

社会福祉協議会さまの
ボランティア活動保険で十分ではないか。

本来
医療とは
ボランティアで行うものであり
保険制度や営利で行うものではない。

それは
むしろ
贈与経済に親和性があり
ゲゼルシャフトではなく
ゲマインシャフトを志向するものである。


高橋記


環境林と経済林。

2017-07-24 | コラム
現在の
国の林野政策は稚拙である。

それはあたかも

介護福祉現場を知らない
厚生労働省の官僚の皆様の
さかしらの知恵によって

介護業界が混乱の極みに陥っているのと
同じである。

何時間かの研修などによって
優良な介護人材ができるといった
浅はかな考えがまかり通っている。

つまり
日本は
木材の販売・流通に資する経済林に固執するのではなく

環境林・防災林・奥山林(原生林)を保護・育林し
自然そのものの価値を高め

世界遺産等による
観光資源として
収入を得るという

観光立国が良いのだ。


高性能林業機械で
伐採から玉切りまで
一瞬で行うために
その人材を育成するといった
林野政策

いまだにスギの植林に固執している森林政策は

今後の人口動態や高齢化を指摘するまでもなく

メンテナンスや伐採そのものが
不可能になるのであり

中長期的に実施困難になる施策である。

現時点でも
森林組合の作業班は
高齢化と人不足である。

いうまでもなく
建設業も人材不足である。

つまり
大規模な建設業を基準とした
社会の構成を
変革せねばならぬ。


高齢者やハンデ者が
活動、活躍できる

小規模な社会を
構成する必要があり

建築は木造平屋を基準にすべきなのだ。

いずれにしても
林野庁や自治体の官僚の皆様には
まず
林野を実地に踏査して頂きたい。

所有者・境界が不明な林野・農地を
公益法人に贈与して頂き
その管理を任せて頂きたい。

国有林・県有林等は
公益法人が管理すべきであり(共益ではなく)
そのディファクトスタンダードは
本会が創造することになる。


高橋記






自然学の倫理について。

2017-07-24 | コラム
一般には
自然学を自然科学と称するが

もともと科学とは
普遍的な知識という言辞に過ぎないので

私は
アリストテレスのように自然学という概念で論ずる。


近代において
アインシュタインやテラーの物理学が原爆を創発し

生物学や化学が
ろくでもない兵器や医薬品を開発してきた。

つまり
純粋基礎研究に携わる方々の理想と

それを経済的利益と政治的権力に応用しようとする人々の野望は
大きく乖離している。



村上陽一郎先生をはじめとして
自然学の倫理や生命倫理は
探求されてきたが

あまりにも専門的過ぎて
一般化していない。


自然学の本旨は
感覚によって得られる知である。

感覚的知を超越して
本質や実体に至る観照(テオーリア)が哲学の本旨である。

したがって
本質の認識こそが根源的な知の営為であり
感覚や言語的な論理学を偏重する近代哲学は
根本から間違っている。

普遍的な認識論とは
雑多な感覚を捨象して
一なる存在や不動・普遍な存在を志向するものである。

そのプロティノス的なるものが
自然学の位置を規定するのだ。

すなわち
自然学そのものに倫理と正義を定義する術はない。

形而上学(本質学)こそが道徳の是非と正義を定義できる。

自然学から倫理が失われたのは
アリストテレスにおいて調和していた自然学と形而上学が
近代思想において分離したからである。

形而上学の復権こそが
自然学の純粋基礎研究と応用研究の整合に寄与するのである。


高橋(ネオプラトニズム)






そよ風道中(琴姫七変化) 花村菊江

2017-07-23 | 音楽
そよ風道中(琴姫七変化) 花村菊江

地域を宣伝する動画等について。

2017-07-23 | コラム
都道府県などが
その地域の魅力をアピールするといった
動画があるようだ。

しかし
そのようなもので
地域の魅力がアピールできるとは思わない。


地域の魅力とは
当該地域の道の駅のトイレが綺麗であったとか
道にごみが落ちていないとか
コンビニエンスストアの接客が丁寧であったとかである。

地方の歴史的価値を
現代風に面白おかしく脚色したり

都会のようにかっこをつけたりする必要はない。


真面目な
質朴たる
農山漁村の生活そのものが観光の宝である。


お笑いは
ロバートさんにお任せせねばならぬ。


高橋記

阿部伴水秋田草刈唄

2017-07-21 | 音楽
阿部伴水秋田草刈唄

草刈りの安全管理について。

2017-07-21 | 実用
現在
角川の草刈り(報償草刈り)を実施しておりますが

あまりの暑さで
はかどっていません。

しかし
なんとかせんなんと思い
必死に頑張っております。

ときに
消費者庁から
草刈り・芝刈り機の安全注意情報が発せられました。

ぼくは
昔森林組合の作業班で草刈りをしたことがあるので
ヘルメット、眼鏡、長袖、スパイク長靴(スパイク地下足袋)は
必須だと思います。

しかし
いろんなところで草刈りをしている人を散見すると
麦わら帽子とか
半袖とかで実施されており
危険だと思います。

特に
丸のこは危険であり
接近注意であります。

僕は
丸のこは危ないので

できるだけ
ナイロン紐やプラスチック3枚刃ので実施し

いいがにならんだら

鬼斬りを使うことに
しています。


いずれにしましても
熱中症になるので

日中は
固形物は食さず
飲み物やカロリーメイトなどのリキッダリアンにし
夜に普通食が良いようです。


高橋記