頂上がまったいらの荒船山:内山峠下より
今年も内外ともいろいろありました。
ロシアやイスラエルだけでなく、国内でも、度を越してやりたい放題の場面が多くなってきていませんか。
冬が来たのに、晴れるとじりじりと暑い。これで夏になったらどうなるかと心配です。暖ったかいと喜んでいられません。
来年こそは「言葉の力で道を開く年」になってほしいと思います。
あちこちで怒りの声を挙げている人がいますから、私もできることを少し援助をしようと思ってます。このままでは心配でたまりません。
さて、今年は、ようやく『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』を日本林業調査会(J-FIC)から刊行することができました。
刊行でお世話になった皆様にお礼を申し上げます。
なかでも、この日記をお貸しくださった神足勝浩様、それから勝浩様亡き後には弟の勝泰様、さらには勝浩様ご子息の勝文様には、たいへんなご配慮をいただきました。感謝しております。
それから、私は若いころから、林野庁に勤務されていた萩野敏雄さんに大変お世話になってきましたが、人のつながり・縁は異なもの不思議なもので、その萩野さんとのご縁が、巡り巡って多くの皆様からご援助をいただく背景にありました。忘れはいけないことだと、感謝しております。
勝浩様や萩野さんのことはいずれ書きたいと思います。
みなさまにはいろいろとありがとうございました。
なお、これまでは、わからなければ調べる、調べて自分が納得できればそこまで、そして、先へ先へと急いできましたが、刊行を契機としてブログを書き始めました。目下のところ1ヶ月が経過したばかりで、ようやく勝手がわかってきたというところですが、年明けもいましばらく続けようと考えております。お手すきの時にご覧いただけますようにお願いいたします。
年末に一言。
群馬の育った家の辺りは昔は田んぼの中にあり、真北に赤城山、北東に榛名山、西に妙義山の上毛三山が見え、妙義山の北に煙を吐く浅間山、南に頂上がまったいらの荒船山が見える風景の中にありました。田植えのころには、蛙がゲコゲコと鳴き窓ガラスを這っていく姿が映り、冬には、北から吹く赤城颪に煽られて吊るしておいたチリ取りがパタンパタン、カタンカタンと鳴り、天気の日には浅間山が煙を吐きながら夕日に赤く染まるのが見える、そんな風景の中にある新興住宅でした。
それから早くも半世紀が過ぎ、我が家も代が替わり、周囲は広がってきた住宅地や新興施設の中に飲み込まれ、周囲に昔の風景を見ることができなくなりました。ごく普通に見えていた山々は見えなくなり、祖母たちが朝な夕なに精を出していた田畑は無くなり、昔こわごわと入った里山の奥にバイパスが通じて、かつてのでこぼこ道よりもはるかに立派な通りとなりました。
風景の変化だけでなく、人心もまた都会的に移り変わったのを知りました。
テレビで、代々の残したものを修復して生活することを誇りとする人々の姿を見るにつけ、あの懐かしい時間をとり戻すには、わが身のなにを差し出せばよいのかと思わされます。
コロナ蔓延以降の変化の中で見聞きしたということもあり、その落差を大きく感じたのかもしれませんが、これからの日本や生い立ちの地がどう変化していくのか案ぜざるを得ない一年でした。
今年はここまでです。
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