神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.204 三浦宗次郎遭難碑   

2024-06-17 22:01:42 | 余録

(1)おとといのスタンドパイプ消火訓練から、地質調査所『懐古録』、三浦宗次郎と、あらぬ方に話が行きました。
 ついでですから、きょうは三浦宗次郎遭難碑を見に行った話を書いておきます。

(2)きのうも書きましたが、 明治26(1893)年6月7日、吾妻山の爆裂を調査に行って三浦宗次郎と随行員の西山惣吉が噴石のために亡くなりました。

(この件についての関連文献は、『御料局測量課長 神足勝記日記』100ページ下に注記しました。また、「明治26年6月吾妻山爆裂」とでも検索すると、矢島道子氏が『トリビア』に書かれた紹介も読むことができますから、ここでは省略します。)

 遭難後、現地に次の追悼碑が建てられたことが『地質調査所百年史』21ページに出ています。(なお、この出典は『懐古録』とありますが、手元の『懐古録』には不明)。

   

(3)じつは、神足勝記は明治21年2月に愛知県を調査したとき、三浦宗次郎共同して作業をおこなっていました。そのことが元の『神足日記』には出て来るものですから。三浦についても一応のことを調べ、読んでいました。それもあって、上の遭難碑の存在を知って、2016年9月に見に出ました。
 福島駅からバスで磐梯吾妻スカイラインをたどって終点の浄土平まで行きました。



 地図の、右上の方から来て、中心辺りに浄土平、右下に吾妻小富士、左上に一切経山があります。
 吾妻小富士は現在は活動していませんが、浄土平から一切経山への点線のルートのところの途中に「火山ガス噴出」、「大規模噴気発生中のため・・・登山禁止」と注記されているのが見えます。

(4)ここへ向かう前に、福島駅の観光案内所で「このルートに入って碑を見たい」といって様子を聴くと、「グレードが2に上がっているので、いまは入山はむずかしい」とのことでした。それでもあれこれと訊くと、「浄土平のビジターセンターで様子を聴ける」ということ、「天気が良ければ、碑の辺りの様子は見えるかもしれない」というので、行ってみることにしました。
 しかし、バスに乗って高度が上がって行くにつれて曇ってきて、しまいには小雨までぱらつき、浄土平に就いたころは、もうはっきり絶望とわかりました。
 バスの運転手は、気の毒がっていろいろと説明してくれ、最後に、バスが出るまでに2時間ありますから・・・」と。

 撮った写真もほとんどかすんでいました。きょうそれを探しましたけれども、うまく出てきてくれないので、いま唯一の証拠をお見せしましょう。
 ビジターセンターで記念に買ったクリアホールダーです。山は「吾妻小富士」です。向こうに見えるのは安達太良山でしょうか。それから、右下のスカイライン沿いにビジターセンター、さらにその右下に白く噴気が見えます。
 


(5)浄土平からの福島駅に戻るバスの出発時間までの2時間、けっこうあちこち見ました。
 この間、ビジターセンターで目的を話すと、「晴れていて場所を知っていれば、見えないこともないが、ともかく、しばらくは入山できない」といわれ、きょうはこんなだから、また来てください・・・というばかりでした。
 この間にやや霧も晴れてきたので吾妻小富士に上がり、雲の切れるのを待って少し見ることができました。その後は、残念ながら、まだ実現できていません。

(6)こういう天気ですから、山に上がる人は少なく。おまけに、碑を見に来たのに目的を果たせずに虚しく帰る客を見て気の毒に思ったのでしょう。バスの運転手が、突然「お客さん、時間ありますか」と尋ねてきました。返事をすると、「ここで降りて、入浴して帰るといいですよ。2時間すると次のバスに乗れます・・・。」
 予期せず、いい湯でした。

(7)前に、No.53で院内へ行ったことを書きましたが、あれは、このあと向かったのではなかったかと思います。
 では。
   
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No.203 三浦宗次郎   

2024-06-17 00:15:08 | 近況

   きょうの夕空

(1)きのうの地質調査所の写真の撮影日がいつなのか検討してみました。
 写真を見ると、コートを着ている人が何人も見えます(それも厳冬という感じ)から、時期は10月~3月の冬場であるだろうことはわかりますが、全体としてずいぶん老けた印象です。とくに、私の関心である、神足勝記と鈴井民作の何歳の時なのか、にわかにはわかりません。
 
(2)写真は、最初『懐古録』で掲載され、それを『地質調査所百年史』が引用したという関係でした。この両者の違いは、『前書』になかった三浦宗次郎の名前が『後書』に記されていることです。なお、記載のない人の名前は不明です。

(3)どちらの写真も、かなり前から手元にありましたが、きのう、「三浦宗次郎」の名があることに気づいて、それならいくらか範囲が絞れるかもしれないと思いました。
 というのは、三浦は1862年生まれですが、『御料局測量課長 神足勝記日記』(日本林業調査会J-FIC)の明治26(1893)年6月7日の項にも紹介したように、よく知られた福島県の吾妻山の爆裂があって、その調査の際に噴石のために29歳ほどで亡くなります。
 次の写真は『地学雑誌』第5集第55巻(明治26年7月25日刊)に掲載された三浦の肖像です。(なお、雑誌同号は三浦の追悼号になっています。)
 
    
     
 きのうの写真と比べると、集合写真の方が少し年が行って、額もやや広くなった感があります。いっぽう、こちらは年齢が若く、体型もなで肩で華奢な感じがあります。しかし、ヒゲを蓄えているところなどは、よく似ています。同一人物とみてよいと思われます。

(4)そうすると、あの集合写真は、地質調査所が設立された明治15年から26年までの間となります。しかし、10年もあると幅が大きすぎます。
 そこで、もう一つ注目しました。
 中列左から5人目に和田維四郎がいますが、その後ろに巨智部忠承〔こちべただつぐ〕がいます。
 この両者の関係は、和田が初代所長を務め、巨智部は明治26年からその後を継ぐ関係です。そうすると、和田が中央に座っている理由が所長だからだとして、それがただ一般的な行事の記念撮影だからか、それとも、誰かの特別な祝い事があっての記念撮影だからか、となります。

(5)そこで、この間の『神足日記』を調べてみました。時期は冬場です。
 すると、可能性があるのは、17年1月4日(半晴)の新年会の日となりました。
 ただし、当日は40人が参加したと記載されていますが、写真に写ってぃるのは29人だけです。あとの10人ほどは、下っ端だから入れなかったのか・・・、ちょっとわかりません。
 それから、もう一件、2月5日に和田維四郎の欧州出張送別宴を向島八尾松で行ったことが出てきますが、しかし、この日の天候は雪でしたから、寒そうにしているとはいえ、写真に雪が全く写っていないので、これは該当しないと思われます。

(6)仮にこの時だとすると、三浦宗次郎が22~3歳、神足は29~30歳ということになります。そうすると、共にずいぶん老けた感じになります。
 神足は、出張の経路などは克明に記録するものの、出張前後などは業務の整頓で多忙のためか、書かなかったり、書いてもメモ程度だったりするので、これで確定とはいかないかもしれませんが、いま考えられる年齢です。

(7)なお、20年10月に阿曽沼次郎が北海道に赴任します。阿曽沼が在京ならば出席したかもしれないのに写っていません。ですから、撮影はこのあとかもしれませんが、しかし、24年に神足は宮内省御料局に入り忙しくなりますから、その前となります。
 とまあ、きょうは暑い一日でした。

   


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