堤平神社
「東野・中筋・東原 ふるさとの今昔」には“ ていへい神社”と記載されています。

こんな感じで、太田川の土手のすぐそばにあります。
ところが先日、親の代から東野に住んでるという30代の女性の方から、「自分たちは小さい頃から『てひら神社』と呼んでた」と聞きました。
(その後いろいろ聴いてみて、やはり『ていへい神社』が一般的なようですが)
この日も丁度、車で迷い込んでしまった中年男性が、現在地を携帯で教えるのに、この神社の読み方がわからなくて困ってました。
なかなか“悩ましい神社”じゃの~と思いつつ境内へ上がると

吹きさらしの境内正面に掲げられた古めかしい額に、身震いするよな「キタンショー」に関する記載が。
堤平神社達築記
當東野ハ元和五年北ノ庄村ト称(?)シ中筋古市ノ二部落ヲ合セテ一村タリ寛文年間獨立シテ東野村ト称セリ・・・(中略)・・・明治二十二年町村制ノ実施ニ當リ復併合シ三川村ト改ム
(中略)
伏シテ願クハ村民各自心ヲ正シ業ヲ励ミ永ク神霊ノ昭鑑冥護ヲ仰キ以テ 皇運ノ隆昌ト國家ノ福祉増進ヲ祈誓スヘキナリ ?ニ概要ヲ録シ以テ後ノ子弟ニ遺スト云フ
昭和十年十月吉辰 徳永伴三太郎護撰書
キタンショーは、次の記事で説明するとして、この額は、東野が中筋・古市も一緒にして“北の庄”と呼ばれていたことを証明するものですね。

何かの合戦を描いたと思われる絵などが飾ってありました。

この辺りの太田川の堤防は、今より1.5mほども低く小さく、この堤平神社のところが切れて、一度に14人の死者が出たこともあるそうです(「東野・中筋・東原 ふるさとの今昔」より)。

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「東野・中筋・東原 ふるさとの今昔」には“ ていへい神社”と記載されています。

こんな感じで、太田川の土手のすぐそばにあります。
ところが先日、親の代から東野に住んでるという30代の女性の方から、「自分たちは小さい頃から『てひら神社』と呼んでた」と聞きました。
(その後いろいろ聴いてみて、やはり『ていへい神社』が一般的なようですが)
この日も丁度、車で迷い込んでしまった中年男性が、現在地を携帯で教えるのに、この神社の読み方がわからなくて困ってました。
なかなか“悩ましい神社”じゃの~と思いつつ境内へ上がると

吹きさらしの境内正面に掲げられた古めかしい額に、身震いするよな「キタンショー」に関する記載が。
堤平神社達築記
當東野ハ元和五年北ノ庄村ト称(?)シ中筋古市ノ二部落ヲ合セテ一村タリ寛文年間獨立シテ東野村ト称セリ・・・(中略)・・・明治二十二年町村制ノ実施ニ當リ復併合シ三川村ト改ム
(中略)
伏シテ願クハ村民各自心ヲ正シ業ヲ励ミ永ク神霊ノ昭鑑冥護ヲ仰キ以テ 皇運ノ隆昌ト國家ノ福祉増進ヲ祈誓スヘキナリ ?ニ概要ヲ録シ以テ後ノ子弟ニ遺スト云フ
昭和十年十月吉辰 徳永伴三太郎護撰書
キタンショーは、次の記事で説明するとして、この額は、東野が中筋・古市も一緒にして“北の庄”と呼ばれていたことを証明するものですね。



何かの合戦を描いたと思われる絵などが飾ってありました。

この辺りの太田川の堤防は、今より1.5mほども低く小さく、この堤平神社のところが切れて、一度に14人の死者が出たこともあるそうです(「東野・中筋・東原 ふるさとの今昔」より)。


東野地区の関連頁を編集しています。
広島県神社誌によると「ていへい」となっています。
盃状穴はみたのですが、
http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page8bf98.html
「堤平神社達築記」には気がつきませんでした。
「堤平神社遷座概要」は気がつき撮影してはいましたが、節穴だらけの観察眼だな~と・・・
博識でいらっしゃるので、いつも勉強をさせていただき、感謝してます。
私のは、ブラブラ、テキトー、そしてかなり偏りのある史跡めぐり(というのも恥ずかしい代物)ですので