神はあなたを遣わしてくれた。


☆原作:ダン・ブラウン著☆
原作を読んでから映画を見るとけっこう残念なことになっているらしいので、まだどちらも見ていない方は先に映画の方を見た方がいいですよー。
また、原作ではこちらがシリーズ第一作で「ダ・ヴィンチ・コード」がこの続編です。読むのはそっちの順番のが良さそうですね。
「天使と悪魔」オフィシャルサイト
「天使と悪魔」◆原作:ダン・ブラウン◆監督:ロン・ハワード◆出演:トム・ハンクス/アイェレット・ゾラー/ユアン・マクレガー 他
《あらすじ》あれから3年――。ロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)は、歴史上最も謎に包まれた秘密結社“イルミナティ”の復活の証拠を発見し、彼らが最大の敵とみなす“カトリック教会=ヴァチカン”に致命的な脅威が迫っていることを知る。イルミナティの計画が密かに進行していることを突き止めたラングドンはローマに飛び、400年の歴史を持つ古代の“シンボル=暗号”をたどりながらヴァチカンを救う唯一の手がかりを探っていく…。「ダ・ヴィンチ・コード」の著者、ダン・ブラウンによるベストセラー小説「天使と悪魔」を映画化した『ダ・ヴィンチ・コード』シリーズ第2弾。前作に引き続き、トム・ハンクス扮するラングドン教授が、イタリア・ローマを舞台にヴァチカンの存在を揺るがす、伝説の秘密結社の存在に深く迫る!(cinemacafe.net)
宗教というのは難しいものです。
一神教だとさらに難しいのだと思います。
私自身は無宗教の人間ですが、家は浄土真宗大谷派。幼稚園はカトリック。神社にお参りも行きます。
自然のあちこちに神さんがいるんだろうなあという感覚はどこかに持っているのですがだからといって神道かというとそうでもない気がします。
この作品の中で、主人公のロバート・ラングドン教授がカメルレンゴ(教皇の侍従)に「あなたは神を信じますか」と質問される場面があります。
ラングドンは、自分の知識の中から様々な言葉を紡ごうとするけれど、「人の語った神の話ではなく、あなた自身が神を信じていますか」とさらに追い討ちをかけられる。
宗教やそれにまつわる芸術などに対して大きな敬意を持っているはずのラングドンも、「ではあなた自身は?」と問われると答えることが出来ない。
そして、神の代理人の前では口先だけでも「信じます」と言ってしまえないラングドンの実直さや学者らしい理屈っぽさが垣間見えて、なんでもないシーンなのに実はけっこう気に入っています。
この作品の中には、世界中のカトリック教会の頂点に君臨する人々、聖職者以外にも信仰に厚い人々が多く登場してそれぞれの信仰心に基づいて様々な言動を見せます。
彼らはそれぞれ、自分の中に聞こえる神の声に従う。それが一致しなかったとき様々な軋轢が生まれる。それがこの「事件」の礎にあるんだろうと思います。
前作「ダ・ヴィンチ・コード」の時にも物議を醸したそうですが、今回の「天使と悪魔」に関してはやはり賛否両論が大きかったようです。
撮影に際しても、バチカン市国の中でもローマ市中でも撮影が許可されなかったり許可が取り下げられたりしたことがあったらしい。勿論観光客との兼ね合いや美術品保護の観点からもやむを得ない部分が大きいのだろうけど、「この作品の撮影には協力できない」といった対応もあったのでしょう。
「フィクションですから!!」では認めてくれないわけです。たとえフィクションであっても、神を冒涜する内容であることに変わりはないのだから。
で、前述の通り私はカトリック系の幼稚園に通っていたしキリスト教にまつわる建物や芸術品が「知識がなくてもへーちゃらだけど鑑賞するのは大好き」なタイプですが、「あなたは(キリスト教の)神を信じますか」と質問されたら「信じてません」と答えるしか出来ない人間です。
そんな私なので幸い、この映画は単純に「面白いか、面白くないか」という観点で見ることが出来ます。
はい、前置き長すぎですが、結論です。
すっげ面白かった!!!

前作「ダ・ヴィンチ・コード」はDVDで見て、まあ十分面白かったのですが…。
本作は前作よりも物語というかミステリーの構造はごく単純でとにかく時間に追われた謎解きと街を縦横に駆け巡る映像的なスリルや迫力と全部ひっくるめてとにかく面白かった、と思います。
ユアン・マクレガーの司祭姿に終始萌えまくr(ry
繰り返しになりますが私はキリスト教建築とか、ヨーロッパ中世建築とか見るのがそりゃもう大好きですので、そういう方向からも非常に目の保養になりました。
ただ、そういう美術品が燃えたり吹っ飛んだり、貴重な歴史文書を引きちぎったり生きてる人間のが大事だとはいえ保管所を破壊したりする……のを見るのはフィクションで勿論実物じゃないのはわかってても見ていて気持ちのいいものじゃないですね。
……ああ、フィクションでも「神への冒涜だ!」と言いたくなる信者の方の気持ちがほんの少しだけ理解できました。
発端はスイスのCERN(欧州原子核研究機構)で起こった殺人盗難事件。
盗まれたのは、ここで実験され生成されたばかりの「反物質」。
保管する容器のバッテリーが切れると、反物質が物質と接触し大規模な爆発を起こす。それが、バチカンに持ち込まれた───
と、いきなりSF的な場面から始まるのですが、予備知識(あらすじや原作による)の無い人間にも「この物語の大きなテーマのひとつは『科学と宗教の対立』である」ということを暗示することになります。
かつて、科学者を弾圧した教会。
その弾圧に対する反発から暴力化したという秘密結社イルミナティ。
それが復活し、教会に対する復讐を開始した。
科学は先へ先へと疾走するあまり、神の領域を侵す。
遺伝子操作もクローンも、そして宇宙創造を再現しようかとでもいう新たな物質の生成も。
けれど、本当に科学と信仰は相容れることが出来ないのか?
残念ながら宗教に対する信仰も科学に対する信仰もないのでその「どうしても相容れない」感じが実感として掴みにくいのですが。
それらは相容れない敵同士だと考える者も、科学も宗教も結局同じことを言っているのだと主張する者も、みんなそれぞれ自分の信じるものに従ってのこと。どれが間違っている、または正しい、とは決められないことなのでしょう。
だから厄介なのですが。
ところで物語とは全然関係ない部分ですが、
コンクラーベに入る前の枢機卿たちが談笑しながら煙草をぷかぷか吸ってたり、サングラスをかけて携帯電話で話してたり、ビデオを回してたり……というのがすごく俗っぽくて面白かったです。
禁煙の会議室に入る前の喫煙コーナーでたむろしてるおっちゃん達そのもので(笑)
しかし考えてみればこの場面も、「現実ではこれほどの宗教者でも科学の恩恵を享受しているんですよー」という表現だったのかもしれないですね。
あと、バチカンとローマ、行ってみたくなりました…。
以下ネタバレあり。未見の人は読んじゃダメ
構造が単純でと前段で書きましたが、ミステリー作品として
・いかにも怪しそうな奴は犯人じゃない
・良い人そうな奴を疑え
・探偵はあんまり間に合わない(笑)
という黄金セオリーもがっちり守られてて見終わったあとちょっと可笑しくなりました。これじゃイカンのかもしれないけど、なんだか居心地いいですね、こうくると。
前作もそれに近いものがありましたが実行犯が雇われたプロで、最初の方からちゃんと顔出してたので「彼を雇っていたのは誰か」という話になるわけですが。
作品自体とても面白く手に汗握って見ていたのですが、見終わった後カメルレンゴ=パトリック・マッケンナ(原作では違う名前。ユアン・マクレガーがスコットランド出身ということでその方言の味を生かすために設定変更になったもよう)についてものすごく色んなことを考えさせられました。
カメルレンゴは教皇の権限を代理で与えられている立場とはいえどちらかといえば枢機卿のお年寄りたちには軽んじられている。
でも前教皇に心から仕えていたし、バチカンとローマの危機に際して人々を避難させようとお年寄りたち相手に演説をぶつ。(それに対し、お年寄りたちはそれも神の意思、と危機を公表することも市民を避難させることも拒否する)
とこの構図からいけば「頭の固い宗教者の年寄り」対「人命を優先させるためには慣習を否定するのも厭わない若者」となり観客がどちらに共感するかといえばカメルレンゴの方になるだろう。
あまりに立派すぎて、このあたりで一旦こいつ怪しいなーと思わなくもなかったのですが(笑)。
カメルレンゴがクライマックスで発見された反物質を持ち出して単身ヘリで上空に登り、自動操縦にして脱出してきた場面。
そのまま自爆するのではなく脱出してきたものの、自分が無事生還できるという確信が彼にあったかというとそれは無かったのではないかと思う。
実際大怪我したわけだし。
あれこそ、彼が「神に命を委ねた」瞬間だった。
彼は実際にバチカンやローマを道連れにして吹き飛ばす気なんて無かった。イルミナティを騙って仮想敵を作りそれと戦うという意思を教会内で固めたい。だからこそ、集まってくる大勢の人々を避難させることを当初から提案していたのだ。
居もしない敵をでっち上げるために、彼は4人の枢機卿を誘拐し殺し口封じのためか実行犯の男すら殺した。それでもヘリコプターで反物質を遠い上空に捨てるという危険な選択は計算の上のものではなかったのだろう。
もし、死んだら神に召されるだけ。
生き残れば、自分の起こしたすべてを神は認めてくれたということ。
カメルレンゴはそんな風に考えていたんじゃないか。
そして助かった彼には広場に集まった人々やコンクラーベに集まった枢機卿たちによる賛辞や次期教皇に推す声。
彼、パトリック・マッケンナはその時神の祝福を感じただろう。
でも、皮肉にもビデオ映像という「科学の産物」によって、彼の犯行が証明される。コンクラーベに呼び出されてわくわくとその場に足を運んだカメルレンゴは枢機卿たちの顔を見て自らの犯行が露見したことを察した。
神が本当にいたとしたら。
一度は喜びを与えておいて、自らの身体に火を点けるまでに追い詰めたのは神の罰だったのだろうか?
パトリック・マッケンナは養父でもあり師でもあった前教皇を本当に敬愛していた。
敬愛しているからこそ、彼の考えがパトリックのそれとは違ってきていることが許せなかった。
そこに澱みや迷いがないことが恐ろしい。
ただ、パトリックの目的は彼にとって崇高だったかもしれないけどそれが犯罪であり罪であることもちゃんと判っていた。だからこそ、プロを雇ったりそ知らぬ顔をしてラングドンやヴィットリアに協力したりして自分の犯行を隠した。
罪だと判っていても、信仰のためにやむを得ない犠牲を払う。
「神」が、彼の犯罪に言い訳を与えたのです。
宗教に端を発した戦いや虐殺は世界中に数知れず。
現代でも、何某かの宗教を信じるあまり犯罪を犯している者もある。
パトリック・マッケンナが殺人に走ったのも。
リヒター隊長がラングドン達に対して非協力的でなんだかヤな親爺だったのも。
前教皇が科学との共存に理解を示したのも。
みんなそれぞれの心の内にある神の声に従っただけ。
神の存在が彼らに「言い訳」を与えるかぎり、それはきっと無くなることはないんだろうと思う。
パトリックに「神を信じますか」と問われて「信じている」と答えることの出来なかったラングドンが最後、新教皇に「神があなたを遣わしてくれた」と言われる。
ラングドンが信仰に目覚めるかどうかは別として、彼ら信者の心には神が居るということをラングドンは再確認したのではないでしょうか。


☆原作:ダン・ブラウン著☆
原作を読んでから映画を見るとけっこう残念なことになっているらしいので、まだどちらも見ていない方は先に映画の方を見た方がいいですよー。
また、原作ではこちらがシリーズ第一作で「ダ・ヴィンチ・コード」がこの続編です。読むのはそっちの順番のが良さそうですね。
「天使と悪魔」オフィシャルサイト
「天使と悪魔」◆原作:ダン・ブラウン◆監督:ロン・ハワード◆出演:トム・ハンクス/アイェレット・ゾラー/ユアン・マクレガー 他
《あらすじ》あれから3年――。ロバート・ラングドン教授(トム・ハンクス)は、歴史上最も謎に包まれた秘密結社“イルミナティ”の復活の証拠を発見し、彼らが最大の敵とみなす“カトリック教会=ヴァチカン”に致命的な脅威が迫っていることを知る。イルミナティの計画が密かに進行していることを突き止めたラングドンはローマに飛び、400年の歴史を持つ古代の“シンボル=暗号”をたどりながらヴァチカンを救う唯一の手がかりを探っていく…。「ダ・ヴィンチ・コード」の著者、ダン・ブラウンによるベストセラー小説「天使と悪魔」を映画化した『ダ・ヴィンチ・コード』シリーズ第2弾。前作に引き続き、トム・ハンクス扮するラングドン教授が、イタリア・ローマを舞台にヴァチカンの存在を揺るがす、伝説の秘密結社の存在に深く迫る!(cinemacafe.net)
宗教というのは難しいものです。
一神教だとさらに難しいのだと思います。
私自身は無宗教の人間ですが、家は浄土真宗大谷派。幼稚園はカトリック。神社にお参りも行きます。
自然のあちこちに神さんがいるんだろうなあという感覚はどこかに持っているのですがだからといって神道かというとそうでもない気がします。
この作品の中で、主人公のロバート・ラングドン教授がカメルレンゴ(教皇の侍従)に「あなたは神を信じますか」と質問される場面があります。
ラングドンは、自分の知識の中から様々な言葉を紡ごうとするけれど、「人の語った神の話ではなく、あなた自身が神を信じていますか」とさらに追い討ちをかけられる。
宗教やそれにまつわる芸術などに対して大きな敬意を持っているはずのラングドンも、「ではあなた自身は?」と問われると答えることが出来ない。
そして、神の代理人の前では口先だけでも「信じます」と言ってしまえないラングドンの実直さや学者らしい理屈っぽさが垣間見えて、なんでもないシーンなのに実はけっこう気に入っています。
この作品の中には、世界中のカトリック教会の頂点に君臨する人々、聖職者以外にも信仰に厚い人々が多く登場してそれぞれの信仰心に基づいて様々な言動を見せます。
彼らはそれぞれ、自分の中に聞こえる神の声に従う。それが一致しなかったとき様々な軋轢が生まれる。それがこの「事件」の礎にあるんだろうと思います。
前作「ダ・ヴィンチ・コード」の時にも物議を醸したそうですが、今回の「天使と悪魔」に関してはやはり賛否両論が大きかったようです。
撮影に際しても、バチカン市国の中でもローマ市中でも撮影が許可されなかったり許可が取り下げられたりしたことがあったらしい。勿論観光客との兼ね合いや美術品保護の観点からもやむを得ない部分が大きいのだろうけど、「この作品の撮影には協力できない」といった対応もあったのでしょう。
「フィクションですから!!」では認めてくれないわけです。たとえフィクションであっても、神を冒涜する内容であることに変わりはないのだから。
で、前述の通り私はカトリック系の幼稚園に通っていたしキリスト教にまつわる建物や芸術品が「知識がなくてもへーちゃらだけど鑑賞するのは大好き」なタイプですが、「あなたは(キリスト教の)神を信じますか」と質問されたら「信じてません」と答えるしか出来ない人間です。
そんな私なので幸い、この映画は単純に「面白いか、面白くないか」という観点で見ることが出来ます。
はい、前置き長すぎですが、結論です。
すっげ面白かった!!!

前作「ダ・ヴィンチ・コード」はDVDで見て、まあ十分面白かったのですが…。
本作は前作よりも物語というかミステリーの構造はごく単純でとにかく時間に追われた謎解きと街を縦横に駆け巡る映像的なスリルや迫力と全部ひっくるめてとにかく面白かった、と思います。
繰り返しになりますが私はキリスト教建築とか、ヨーロッパ中世建築とか見るのがそりゃもう大好きですので、そういう方向からも非常に目の保養になりました。
ただ、そういう美術品が燃えたり吹っ飛んだり、貴重な歴史文書を引きちぎったり生きてる人間のが大事だとはいえ保管所を破壊したりする……のを見るのはフィクションで勿論実物じゃないのはわかってても見ていて気持ちのいいものじゃないですね。
……ああ、フィクションでも「神への冒涜だ!」と言いたくなる信者の方の気持ちがほんの少しだけ理解できました。
発端はスイスのCERN(欧州原子核研究機構)で起こった殺人盗難事件。
盗まれたのは、ここで実験され生成されたばかりの「反物質」。
保管する容器のバッテリーが切れると、反物質が物質と接触し大規模な爆発を起こす。それが、バチカンに持ち込まれた───
と、いきなりSF的な場面から始まるのですが、予備知識(あらすじや原作による)の無い人間にも「この物語の大きなテーマのひとつは『科学と宗教の対立』である」ということを暗示することになります。
かつて、科学者を弾圧した教会。
その弾圧に対する反発から暴力化したという秘密結社イルミナティ。
それが復活し、教会に対する復讐を開始した。
科学は先へ先へと疾走するあまり、神の領域を侵す。
遺伝子操作もクローンも、そして宇宙創造を再現しようかとでもいう新たな物質の生成も。
けれど、本当に科学と信仰は相容れることが出来ないのか?
残念ながら宗教に対する信仰も科学に対する信仰もないのでその「どうしても相容れない」感じが実感として掴みにくいのですが。
それらは相容れない敵同士だと考える者も、科学も宗教も結局同じことを言っているのだと主張する者も、みんなそれぞれ自分の信じるものに従ってのこと。どれが間違っている、または正しい、とは決められないことなのでしょう。
だから厄介なのですが。
ところで物語とは全然関係ない部分ですが、
コンクラーベに入る前の枢機卿たちが談笑しながら煙草をぷかぷか吸ってたり、サングラスをかけて携帯電話で話してたり、ビデオを回してたり……というのがすごく俗っぽくて面白かったです。
禁煙の会議室に入る前の喫煙コーナーでたむろしてるおっちゃん達そのもので(笑)
しかし考えてみればこの場面も、「現実ではこれほどの宗教者でも科学の恩恵を享受しているんですよー」という表現だったのかもしれないですね。
あと、バチカンとローマ、行ってみたくなりました…。
以下ネタバレあり。未見の人は読んじゃダメ
構造が単純でと前段で書きましたが、ミステリー作品として
・いかにも怪しそうな奴は犯人じゃない
・良い人そうな奴を疑え
・探偵はあんまり間に合わない(笑)
という黄金セオリーもがっちり守られてて見終わったあとちょっと可笑しくなりました。これじゃイカンのかもしれないけど、なんだか居心地いいですね、こうくると。
前作もそれに近いものがありましたが実行犯が雇われたプロで、最初の方からちゃんと顔出してたので「彼を雇っていたのは誰か」という話になるわけですが。
作品自体とても面白く手に汗握って見ていたのですが、見終わった後カメルレンゴ=パトリック・マッケンナ(原作では違う名前。ユアン・マクレガーがスコットランド出身ということでその方言の味を生かすために設定変更になったもよう)についてものすごく色んなことを考えさせられました。
カメルレンゴは教皇の権限を代理で与えられている立場とはいえどちらかといえば枢機卿のお年寄りたちには軽んじられている。
でも前教皇に心から仕えていたし、バチカンとローマの危機に際して人々を避難させようとお年寄りたち相手に演説をぶつ。(それに対し、お年寄りたちはそれも神の意思、と危機を公表することも市民を避難させることも拒否する)
とこの構図からいけば「頭の固い宗教者の年寄り」対「人命を優先させるためには慣習を否定するのも厭わない若者」となり観客がどちらに共感するかといえばカメルレンゴの方になるだろう。
あまりに立派すぎて、このあたりで一旦こいつ怪しいなーと思わなくもなかったのですが(笑)。
カメルレンゴがクライマックスで発見された反物質を持ち出して単身ヘリで上空に登り、自動操縦にして脱出してきた場面。
そのまま自爆するのではなく脱出してきたものの、自分が無事生還できるという確信が彼にあったかというとそれは無かったのではないかと思う。
実際大怪我したわけだし。
あれこそ、彼が「神に命を委ねた」瞬間だった。
彼は実際にバチカンやローマを道連れにして吹き飛ばす気なんて無かった。イルミナティを騙って仮想敵を作りそれと戦うという意思を教会内で固めたい。だからこそ、集まってくる大勢の人々を避難させることを当初から提案していたのだ。
居もしない敵をでっち上げるために、彼は4人の枢機卿を誘拐し殺し口封じのためか実行犯の男すら殺した。それでもヘリコプターで反物質を遠い上空に捨てるという危険な選択は計算の上のものではなかったのだろう。
もし、死んだら神に召されるだけ。
生き残れば、自分の起こしたすべてを神は認めてくれたということ。
カメルレンゴはそんな風に考えていたんじゃないか。
そして助かった彼には広場に集まった人々やコンクラーベに集まった枢機卿たちによる賛辞や次期教皇に推す声。
彼、パトリック・マッケンナはその時神の祝福を感じただろう。
でも、皮肉にもビデオ映像という「科学の産物」によって、彼の犯行が証明される。コンクラーベに呼び出されてわくわくとその場に足を運んだカメルレンゴは枢機卿たちの顔を見て自らの犯行が露見したことを察した。
神が本当にいたとしたら。
一度は喜びを与えておいて、自らの身体に火を点けるまでに追い詰めたのは神の罰だったのだろうか?
パトリック・マッケンナは養父でもあり師でもあった前教皇を本当に敬愛していた。
敬愛しているからこそ、彼の考えがパトリックのそれとは違ってきていることが許せなかった。
そこに澱みや迷いがないことが恐ろしい。
ただ、パトリックの目的は彼にとって崇高だったかもしれないけどそれが犯罪であり罪であることもちゃんと判っていた。だからこそ、プロを雇ったりそ知らぬ顔をしてラングドンやヴィットリアに協力したりして自分の犯行を隠した。
罪だと判っていても、信仰のためにやむを得ない犠牲を払う。
「神」が、彼の犯罪に言い訳を与えたのです。
宗教に端を発した戦いや虐殺は世界中に数知れず。
現代でも、何某かの宗教を信じるあまり犯罪を犯している者もある。
パトリック・マッケンナが殺人に走ったのも。
リヒター隊長がラングドン達に対して非協力的でなんだかヤな親爺だったのも。
前教皇が科学との共存に理解を示したのも。
みんなそれぞれの心の内にある神の声に従っただけ。
神の存在が彼らに「言い訳」を与えるかぎり、それはきっと無くなることはないんだろうと思う。
パトリックに「神を信じますか」と問われて「信じている」と答えることの出来なかったラングドンが最後、新教皇に「神があなたを遣わしてくれた」と言われる。
ラングドンが信仰に目覚めるかどうかは別として、彼ら信者の心には神が居るということをラングドンは再確認したのではないでしょうか。
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