一段、踏みしめる。
反対の足を上げる。次の段を踏みしめる。
足の裏の感触を確かめるように、階段を上がる。一歩でも早く登ってしまいたいのに足が上がらない。5段に一度、それをストップしては溜息をつく。頂上が見えた。古ぼけて少し湾曲した床が見える。
この歩道橋を登ったのは何年ぶりだろう。
子供の頃は、この下を通る道路を信号の無い場所で横断することを堅く禁じられて、それを馬鹿正直に守ってこれを渡っていたものだった。成長すると、そう頑なに守らねばならないルールでもないなと思い始め、走ってくる車との距離感を測る能力に自信がついたこともあって、歩道橋を使わずひょいひょいと道路を横断するようになったのだ。
顔が冷たい。
外気の冷たさのせいではない。
頂上に登りつくと、俺は床に座り込んだ。ずるずると身体を引きずるようにして、階段から離れる。
ここまで来れば──もう追ってはこれまい。
身体のあちこちが痛む。腹の辺りの激痛に、意識が飛びそうになる。
掌を見ると、べったりと赤いものがついていた。
なんでこんなことになったんだろう。
額に浮かんだ冷や汗が外気に冷えて、本物の「冷や」汗に変わる。
だめだ、もう動けない。
俺は瞼の重みと必死に戦った。 『痛み』が抵抗を後押しする。しかし、それも虚しい抵抗だった。目が閉じてゆく。
ここで目を閉じてしまったら──俺はもう二度と目覚めないのではないか。
そんな恐怖が身体を包む。だめだ、目を開けろ。
抵抗を後押ししてくれていた筈の痛みが、今度はなんとしても俺の目を開かせまいと敵に回った気がした。
闇に閉ざされた視界に、時折光が通り過ぎる。この橋の下を通る車のヘッドライトが瞼を照らしているのだろうか。まるで遊園地のコーヒーカップに乗っているかのように頭がぐるんぐるんと回っている。自分がどこにいるのかも徐々にわからなくなってゆく。
睡りの精がが甘美な声でこのまま眠っておしまいなさいと誘惑する。
だめだ。このまま眠ったら俺はきっとそのまま、死んでしまう。
閉じて見えない筈の視界に、星が瞬いている。
そういえば子供の頃、よく加川んちの天体望遠鏡で星を見たっけなあ。
加川の家にはまだあの天体望遠鏡はあるんだろうか。
何でこんなことを思い出すのだろう。
いわゆる『走馬灯』ってやつか。
「───ごめん」
誰に対する謝罪だったのか。俺は小さく呟いた。声にもなっていなかった。
階段を三段飛ばしで駆け上る。
歩道橋の頂上に着いて左を見ると、加川はそこに倒れた喜多嶋の姿を見つけた。振り返って階段の下にいるエプロンを着けた男を確認する。
「居たよ。連れてく」
男は了解のしるしに手を振り、背を向けた。
「さてと」
加川はしゃがみこんでまず喜多嶋の身体を検分した。ジーンズの膝に血が滲んでいる。破れてはいないが、おそらく膝小僧あたりを怪我しているのだろう。内側から滲んだ血のようだ。薄いグレーのパーカーは酷く汚れている。どろどろと言ってもいい。ところどころ赤い染みが出来ている。左手を持ち上げて見ると掌にもべったりと赤いものが付着していた。
「あああ、ひでえことになってんな」
加川は喜多嶋の胸倉を掴むような格好で上半身を起こし、思い切りその頬をひっぱたいた。
ぱあん、と夜空に乾いた音が響く。
「お、いい音がしたな」
喜多嶋は顔を顰めてううん、ううんと唸った。
「こら、喜多嶋。しっかりしろ」
言いながら、もう一度頬を叩く。
「いてぇ・・・」
こもった声で異議を唱えながら喜多嶋は目を開けた。
「いてぇじゃねえ。とっとと起きろよ」
揺さぶると喜多嶋はまた開けかけた目を閉じようとする。それを今度は頭をひっぱたいて止める。
「店に帰るぞ、こら」
「いてえよう、俺もう死ぬかも・・・血だらけだし・・・出血多量で・・・」
「アホか。コケて膝擦りむいただけだろ。血だらけじゃなくてケチャップまみれだ、おまえは」
喜多嶋は目をぱちぱちとさせて、泣きそうな顔をした。
つい30分ほど前のことである。
加川としこたま飲んで酔っ払った喜多嶋は、会計の際に財布が無いと騒ぎ始めた。加川はしょうがないからとりあえず自分が払うと言ったのだが、酔っていた喜多嶋は突然逃げろー!と叫んで店を飛び出そうとしたのだ。その時、店の出入り口あたりのテーブルに突っ込み、たまたまテーブルの上にあったケチャップのチューブを掌で潰してしまった。ケチャップは周囲に飛び散り、喜多嶋のパーカーはケチャップまみれ。それでも取り押さえようとする加川を振り切って、逃げた。
加川は店員に自分の荷物と財布を置いて行く旨を確認して喜多嶋を追った。ぐるの食い逃げだと思われてはたまらない。
どうやら逃げている間に、喜多嶋はあっちでコケたりビールケースにつっこんだりしたらしい。おそらく身体は青痣だらけになっているだろう。
フラフラの喜多嶋を支えて立ち上がり、加川はやれやれと夜空を見上げた。
俺はなんだか昔っからこいつの尻拭いばっかやってる気がする。何度もう友達なんかやめてやると思ったことか。
子供の頃からそうだった。小学生の頃、俺の天体望遠鏡をベランダから落として壊したのは喜多嶋だった。たまたま転んだだけなのになんであんな事になったのか今でもよくわからない。悪意が無いのはわかるが、こいつは反省というか過失に対する罪の意識が薄すぎる。
大人になってからは、酒癖が悪かった。加川は仕事の関係で地元を離れていたが他の友人によれば最近では喜多嶋もすっかり大人しくなって面倒な酔い方はしなくなったと聞いていた。なのに久しぶりに地元に戻ってきたからと飲みに誘ったらこれだ。
見上げた夜空に星が見えた。
繁華街近いから空が明るくて、星なんか見えないと思っていた。当然、よほど明るいものしか見えないけれど、星を見たのは久しぶりな気がする。
「おい喜多嶋。おまえ、うちの望遠鏡のこと覚えてるか」
喜多嶋はううんと唸ってまた下を向いた。
このまま放っておいたらまた眠ってしまう。ちっ、と小さく舌打ちする。
しょうがねえヤツだな、と呟くと加川は喜多嶋を支えたままゆっくりと階段を降り始めた。
禁無断複製・転載 (c)Senka.Yamashina
これは「恋愛お題ったー」で出題されたキーワードを元に即興で創作したお話です。
テーマ:ヤマシナセンカさんは、「の歩道橋」で登場人物が「ひっぱたく」、「星」という単語を使ったお話を考えて下さい。
「恋愛お題ったー」からお題を引いて即興で書いてきたシリーズ、これで20話め。ここらで一旦最終回とさせて頂きます。
最終話は軽めの話でいこうと。タイトルだけは第1話をもじってみました。
与えられたキーワードを使って、長時間練るのではなく当日中に=着想が新鮮なままで、当日中にほぼ毎日書く。
どうしても忙しかったり用事があったりで、当日中にクリアできなかったことも何度かありますが、楽しいドリルでした。
練習問題のようなものなので、非常に完成度は低い作品群となってしまいましたが、少しでもお楽しみ頂けたら幸いです。
今度はまた少し長めの話を考えようと思っていますが、この形式も面白かったので気が向いたらまたやるつもりです。
お読み頂いたみなさん、ありがとうございました。
反対の足を上げる。次の段を踏みしめる。
足の裏の感触を確かめるように、階段を上がる。一歩でも早く登ってしまいたいのに足が上がらない。5段に一度、それをストップしては溜息をつく。頂上が見えた。古ぼけて少し湾曲した床が見える。
この歩道橋を登ったのは何年ぶりだろう。
子供の頃は、この下を通る道路を信号の無い場所で横断することを堅く禁じられて、それを馬鹿正直に守ってこれを渡っていたものだった。成長すると、そう頑なに守らねばならないルールでもないなと思い始め、走ってくる車との距離感を測る能力に自信がついたこともあって、歩道橋を使わずひょいひょいと道路を横断するようになったのだ。
顔が冷たい。
外気の冷たさのせいではない。
頂上に登りつくと、俺は床に座り込んだ。ずるずると身体を引きずるようにして、階段から離れる。
ここまで来れば──もう追ってはこれまい。
身体のあちこちが痛む。腹の辺りの激痛に、意識が飛びそうになる。
掌を見ると、べったりと赤いものがついていた。
なんでこんなことになったんだろう。
額に浮かんだ冷や汗が外気に冷えて、本物の「冷や」汗に変わる。
だめだ、もう動けない。
俺は瞼の重みと必死に戦った。 『痛み』が抵抗を後押しする。しかし、それも虚しい抵抗だった。目が閉じてゆく。
ここで目を閉じてしまったら──俺はもう二度と目覚めないのではないか。
そんな恐怖が身体を包む。だめだ、目を開けろ。
抵抗を後押ししてくれていた筈の痛みが、今度はなんとしても俺の目を開かせまいと敵に回った気がした。
闇に閉ざされた視界に、時折光が通り過ぎる。この橋の下を通る車のヘッドライトが瞼を照らしているのだろうか。まるで遊園地のコーヒーカップに乗っているかのように頭がぐるんぐるんと回っている。自分がどこにいるのかも徐々にわからなくなってゆく。
睡りの精がが甘美な声でこのまま眠っておしまいなさいと誘惑する。
だめだ。このまま眠ったら俺はきっとそのまま、死んでしまう。
閉じて見えない筈の視界に、星が瞬いている。
そういえば子供の頃、よく加川んちの天体望遠鏡で星を見たっけなあ。
加川の家にはまだあの天体望遠鏡はあるんだろうか。
何でこんなことを思い出すのだろう。
いわゆる『走馬灯』ってやつか。
「───ごめん」
誰に対する謝罪だったのか。俺は小さく呟いた。声にもなっていなかった。
階段を三段飛ばしで駆け上る。
歩道橋の頂上に着いて左を見ると、加川はそこに倒れた喜多嶋の姿を見つけた。振り返って階段の下にいるエプロンを着けた男を確認する。
「居たよ。連れてく」
男は了解のしるしに手を振り、背を向けた。
「さてと」
加川はしゃがみこんでまず喜多嶋の身体を検分した。ジーンズの膝に血が滲んでいる。破れてはいないが、おそらく膝小僧あたりを怪我しているのだろう。内側から滲んだ血のようだ。薄いグレーのパーカーは酷く汚れている。どろどろと言ってもいい。ところどころ赤い染みが出来ている。左手を持ち上げて見ると掌にもべったりと赤いものが付着していた。
「あああ、ひでえことになってんな」
加川は喜多嶋の胸倉を掴むような格好で上半身を起こし、思い切りその頬をひっぱたいた。
ぱあん、と夜空に乾いた音が響く。
「お、いい音がしたな」
喜多嶋は顔を顰めてううん、ううんと唸った。
「こら、喜多嶋。しっかりしろ」
言いながら、もう一度頬を叩く。
「いてぇ・・・」
こもった声で異議を唱えながら喜多嶋は目を開けた。
「いてぇじゃねえ。とっとと起きろよ」
揺さぶると喜多嶋はまた開けかけた目を閉じようとする。それを今度は頭をひっぱたいて止める。
「店に帰るぞ、こら」
「いてえよう、俺もう死ぬかも・・・血だらけだし・・・出血多量で・・・」
「アホか。コケて膝擦りむいただけだろ。血だらけじゃなくてケチャップまみれだ、おまえは」
喜多嶋は目をぱちぱちとさせて、泣きそうな顔をした。
つい30分ほど前のことである。
加川としこたま飲んで酔っ払った喜多嶋は、会計の際に財布が無いと騒ぎ始めた。加川はしょうがないからとりあえず自分が払うと言ったのだが、酔っていた喜多嶋は突然逃げろー!と叫んで店を飛び出そうとしたのだ。その時、店の出入り口あたりのテーブルに突っ込み、たまたまテーブルの上にあったケチャップのチューブを掌で潰してしまった。ケチャップは周囲に飛び散り、喜多嶋のパーカーはケチャップまみれ。それでも取り押さえようとする加川を振り切って、逃げた。
加川は店員に自分の荷物と財布を置いて行く旨を確認して喜多嶋を追った。ぐるの食い逃げだと思われてはたまらない。
どうやら逃げている間に、喜多嶋はあっちでコケたりビールケースにつっこんだりしたらしい。おそらく身体は青痣だらけになっているだろう。
フラフラの喜多嶋を支えて立ち上がり、加川はやれやれと夜空を見上げた。
俺はなんだか昔っからこいつの尻拭いばっかやってる気がする。何度もう友達なんかやめてやると思ったことか。
子供の頃からそうだった。小学生の頃、俺の天体望遠鏡をベランダから落として壊したのは喜多嶋だった。たまたま転んだだけなのになんであんな事になったのか今でもよくわからない。悪意が無いのはわかるが、こいつは反省というか過失に対する罪の意識が薄すぎる。
大人になってからは、酒癖が悪かった。加川は仕事の関係で地元を離れていたが他の友人によれば最近では喜多嶋もすっかり大人しくなって面倒な酔い方はしなくなったと聞いていた。なのに久しぶりに地元に戻ってきたからと飲みに誘ったらこれだ。
見上げた夜空に星が見えた。
繁華街近いから空が明るくて、星なんか見えないと思っていた。当然、よほど明るいものしか見えないけれど、星を見たのは久しぶりな気がする。
「おい喜多嶋。おまえ、うちの望遠鏡のこと覚えてるか」
喜多嶋はううんと唸ってまた下を向いた。
このまま放っておいたらまた眠ってしまう。ちっ、と小さく舌打ちする。
しょうがねえヤツだな、と呟くと加川は喜多嶋を支えたままゆっくりと階段を降り始めた。
禁無断複製・転載 (c)Senka.Yamashina
これは「恋愛お題ったー」で出題されたキーワードを元に即興で創作したお話です。
テーマ:ヤマシナセンカさんは、「の歩道橋」で登場人物が「ひっぱたく」、「星」という単語を使ったお話を考えて下さい。
「恋愛お題ったー」からお題を引いて即興で書いてきたシリーズ、これで20話め。ここらで一旦最終回とさせて頂きます。
最終話は軽めの話でいこうと。タイトルだけは第1話をもじってみました。
与えられたキーワードを使って、長時間練るのではなく当日中に=着想が新鮮なままで、当日中にほぼ毎日書く。
どうしても忙しかったり用事があったりで、当日中にクリアできなかったことも何度かありますが、楽しいドリルでした。
練習問題のようなものなので、非常に完成度は低い作品群となってしまいましたが、少しでもお楽しみ頂けたら幸いです。
今度はまた少し長めの話を考えようと思っていますが、この形式も面白かったので気が向いたらまたやるつもりです。
お読み頂いたみなさん、ありがとうございました。
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