◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

国鉄信濃川発電所専用軌道

2019-09-15 19:15:10 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
さんざん、飯山鐡道と東電信濃川発電所の関連を調べていても、正直、記録に当たらないのだから話が進まない。
先人たちもあくまでそういう事実があったというだけで、具体的にどうかということかまで示すものが無いのだ。それにひきかえ、国鉄の信濃川発電所の工事記録の多さよって感じで。それこそ趣味人が工事軌道についてだけまとめ上げた本が作れるくらいに記録が残っている。そこは民間の東京電燈と飯山鐡道との差なのか、国会の承認を得て税金で建設された発電所だからか、記録が豊富に感じるのだ。

もっとも、それでも飯山鐡道越後岩沢駅からの国鉄宮中ダム工事現場への工事側線は未だに判別付かないもので、歯がゆくある。
飯山鐡道と東電信濃川発電所に詰まった私は、国鉄の方の信濃川発電所群の専用軌道も摘まみ始めた。飯山鐡道について調べていたところで、岩沢と十日町から専用線が伸びていたことはさんざん言っている通りなのだが、国鉄側の信濃川発電所の専用線はその比じゃないくらいに長大だったのだ。

戦前か関東大震災前に小千谷から千手・宮中までの軽便鉄道(発電所施設工事用の専用線)を工事したが、諸所の事情で国鉄の取水ダム・発電所の着工も遅れたために専用線も荒廃し、飯山鐡道経由での物資輸送を活用したことは以前にも述べた通りである。しかし、まぁ、国鉄って感じというか、そこは国鉄のパワーというか、国家事業というか。信濃川東岸の飯山鐡道・上越線に並行するように、実際は信濃川の川西に小千谷から宮中に至るまでの専用線を活用て工事を進めたようである。

それが戦後に米軍が撮影した空中写真に色濃く残っている。











丁度、現在の国道291号旭橋の袂が魚沼鉄道の小千谷駅、小千谷西高校の川寄りが魚沼線になって線路が付け替えられた後の西小千谷駅。
そして、川の東側から、上越線の小千谷駅から発電所の現場である河岸段丘下の河原まで信濃川を渡ってきているのが、専用線であり、ほぼ現在の国道351号の橋の位置である。魚沼線の方も、西小千谷駅から先へまっすぐ伸びて、小千谷の街を迂回しつつ発電所の河岸段丘の上まで到達しているのが分かる。工事が本格化して、東岸に社宅群が形成されているのも物凄い人数が関わった工事だというのが伺える。後のJR東日本の小千谷の社宅に受け継がれている場所である。

ここからは私の妄想である。正確な資料が手元に無いので、話半分に読んで欲しい。
この時点の空中写真から見ても、小千谷から上流の十日町・宮中へ延びる軌道は、上越線から分岐して、発電所の現場を経由した方に見えるのだ。魚沼線からの軌道は、あくまで河岸段丘の上にある山本調整池と、分岐して矢内池南の関越自動車道直下の水路(トンネル)の掘削現場までに留まっていると推測している。



おおよそ鉄道で河岸段丘を克服できるとは思えないし、ちょうど小千谷発電所の辺りで河岸段丘の下にスペースがあり、そこに専用線を通す方があり得る話だと思うからだ。



当時の信濃川の発電所工事に共通しているのは、部品にして現場組み立てが不可能な発電機という大型機械を輸送する手段が鉄道しかなかったため、発電所の発電機を据えるレベルまで鉄道が乗り入れる必要があったということだ。
東京電力の信濃川発電所の鹿渡からの専用線も、国鉄の千手発電所も小千谷発電所の専用線もその点で一貫していると見ている。なので、小千谷でもあくまでメインは上越線小千谷駅から分岐してきた方であったとするのが納得がいく。そこから物資を積み替えたとして、軌間762mmの専用線で千手・宮中まで続いていたとすると、壮大過ぎる専用線なのである。なお、上越線から分岐する小千谷の専用線は1067mm、飯山線の十日町から分岐する軽便鉄道と言われているものも本線に接続する1067mmという話がある。国鉄が軽便鉄道としても1067mmを採用していた例もあるので、決して軽便鉄道=762mmというわけでもない。本線から発電機を載せた貨物車両を乗り入れさせるという目的があったとすれば、妥当な話のようである。軌道は入り乱れ、専用線の一部は762mmと1067mmの三線軌条を採用していたという話もあるくらいで、以上の話からそれもあり得ると思える。

あくまで妄想を膨らませた結果なので、真に受けないで欲しいけれども、そういう纏め方をしている資料があるのも事実なのだ。

まぁ、妄想ということで勘弁して欲しい。


上流の千手発電所・浅河原調整池
まさに専用軌道天国。十日町から信濃川を渡って千手発電所への河岸段丘下での乗り入れから、分岐して浅河原調整池の現場へ。また小千谷から伸びて、千手では河岸段丘の上を通っている専用線と浅河原の北でデルタ線を形成して合流している。河岸段丘上の専用線は、千手発電所の円筒オーバーフローの現場へも分岐しており、現場には広めの鉄道敷地が見て取れる。

また、河岸段丘上に社宅群を形成している。
社宅群を形成するのは東京電燈の西大滝や外丸・鹿渡での工事でも同じで、とにかく人手を必要とする工事なので技術者や工夫に至るまで家族ごと当地へ移住してきているのである。それらの住人は、今ほど情報化が進んでいない当時においては、当地の文化にまで影響を与える人材であったことが今に伝えられている。

なお、専用線は浅河原調整池を囲むように回って、宮中ダムまで伸びていく。












宮中ダム。
やっぱり、飯山線の越後田沢から宮中ダムまでの側線は判別できない…。しかし、ダムの対岸である西岸にはしっかりと軌道と駅と言えるような敷地が見える。はるばる十日町・千手から遡上してきた専用線の終点である。飯山鐡道の越後田沢から分岐した東岸の専用線が軌道跡や、それこそ鉄道で物資を輸送していたのなら現場にそれらしい敷地があってしかるべきなのにその痕跡が無いのとは対照的である。










それでも諦めきれずに飯山鐡道の田沢から宮中ダムまでって、集落の辺りが勾配が割と緩やかで、軌道を通すならそっちだと思う。
当時の口伝でも、集落を掠めるように蒸気機関車が走っていたと言うし、やっぱりネックは河岸段丘をどう克服していたのかという点。それなりの設備があったのにその痕跡が無くなっているのは、飯山鐡道と東京電燈は工事が完了したら速攻で徹底して線路剥がして別用途で土地利用してるというスピード感があるとも言えるのかなぁって。


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