◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

飯山鐡道(飯山線)越後田沢駅~宮中ダム間工事専用側線

2019-09-30 13:46:06 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線


・昭和七年四月十二日 越後田沢駅ー宮内取水ダム間専用工事材料運搬線運転開始



これは、そう書かれていたために惑わされた自戒である

越後田沢駅ー宮中取水ダムとされ、その時点で飯山鐡道から分岐した1067mmの工事専用側線は宮中取水ダム工事現場のレベルまで行っていたと思い込んでいる

しかし、駅から先の終点まではそれがどういうものだったのかという一切の情報が無い

そういう状況で、一掴み、一掴みと情報を集めて推測していくしかない程度にしか話は進捗して行かなかった

今回、ようやく、それらしいと私が納得できる資料を見付けたので書いていきたい

高々1kmに満たない工事専用側線であるけど、確かにそれはあっただろうと言えるくらいまで、この記事で持って行きたい



まず、ちょうど1年前、2018年9月30日の私が落書きした予想ルートについて、恥ずかしながら再掲させてもらう





これは昭和22年~23年、戦後の航空写真である

宮中取水ダムの着工が昭和7年、同竣功が昭和13年であるから、本格的な工事の終了から戦争を経て10年ほど後の様子だ

戦争を経て、レールなどの資材は側線が使われなくなった瞬間に転用されただろう状況だろうし、
その流れの中でほとんどが農地に戻っていると仮定した上で、
なんとなく離れ小島のように不自然な土地が見え、そこから推測したに過ぎない

推測で越後田沢駅を起点として、既に完成している宮中ダムに至るまでの微妙過ぎるかすかな痕跡から落書きしたものである

しかし、その先には河岸段丘の崖が信濃川の河原へと落ちている

この崖をどう克服したのかが分からない、痕跡も航空写真からは窺い知れない

ましてや、この時の私は、工事専用側線はそのまま工事現場のレベルまで行ってると思い込んでいるので、
当然このルートでは河岸段丘をいかに避けたかに焦点を当てざるをえなくなる

いや、ひょっとして、この河岸段丘を克服するためにも、私が航空写真から推測したに過ぎないチンケな妄想の線路ではなく、
別なルートで現場である河原に工事専用側線は取り付いていたのではないかと思い始めるのである



越後田沢駅構外専用側線は河岸段丘をいかに克服していたのか



現地を知っている人なら、まずこの田沢や対岸の宮中などの辺りの河岸段丘について崖であることは分かると思うのだが、
それでもちょっと上流の鹿渡辺りの断崖絶壁に比べれば可愛いもんであるくらいの開け方がある

しかも、越後田沢駅を出てすぐの十日町方には小原集落もあり、また川もあり、崖ではなく、それなりにゆるやかに信濃川へ注ぐ様子が見て取れる

であるから、ひょっとしたらそっち側に線路が行っていたのではないかと思い始める



このような様相だったのかなと思い描いているわけだが、
これには当時の地元証言として小原の集落の脇を掠めるように蒸気機関車が走っていたという記事を見つけたことも影響している

なまじ、そんな鉄道省の信濃川発電所工事に関する現地の郷土史なり工事史を齧り、まだ見ぬ当時の様子に対して弱気になりつつある

そんな状況の中で、戦後の航空写真を改めて見ていると思いは巡り巡っていくだけであって、考えは変な方向へ向いて行く

「宮中ダム

やっぱり、飯山線の越後岩沢から宮中ダムまでの側線は判別できない…。

しかし、ダムの対岸である西岸にはしっかりと軌道と駅と言えるような敷地が見える。

はるばる十日町・千手から遡上してきた専用線の終点である。

飯山鐡道の岩沢から分岐した東岸の専用線が軌道跡や、
それこそ鉄道で物資を輸送していたのなら現場にそれらしい敷地があってしかるべきなのにその痕跡が無いのとは対照的である。

それでも諦めきれずに飯山鐡道の田沢から宮中ダムまでって、集落の辺りが勾配が割と緩やかで、軌道を通すならそっちだと思う。

当時の口伝でも、集落を掠めるように蒸気機関車が走っていたと言うし、やっぱりネックは河岸段丘をどう克服していたのかという点。

それなりの設備があったのにその痕跡が無くなっているのは、飯山鐡道と東京電燈は工事が完了したら速攻で徹底して線路剥がして別用途で土地利用してるというスピード感があるとも言えるのかなぁって。」



この発言から、日を経ずして、私は再び現地を訪れる

現地の様子を観察しつつ、どうだったんだろうなぁと思いを巡らせる

痕跡なぞ無いが、昭和10年前後から変わってなさそうな地形や目星を付けた軌道があっただろう場所を見る

しかし、分からん。分からないのだ


そもそも、宮中取水ダムが信濃川の右岸(川東)である田沢(小原集落)側と、左岸(川西)の宮中側のどちらから工事が開始されたのかも分からない

鉄道を利用して資材を運搬しつつ建設された取水堰堤であることは納得がいくものの、工事事務所なりメインがどちらの岸にあったのかも見えていない

その背景として、大正年間に魚沼鉄道から分岐して小千谷・千手を経て宮中まで川西に敷設されたとされる、発電所工事の準備工事としての資材運搬軽便鉄道の存在もちらつく

更に、その川西の軽便鉄道も鉄道省の信濃川発電所工事の着工と共に息を吹き返したという記述まで見てきたからだ

本線から分岐した工事専用側線として免許も受けて整備された「越後田沢駅ー宮内取水ダム間専用工事材料運搬線」と言っても、
大したことなかったんじゃないかという疑念が生まれつつある



暗中模索、五里霧中、とにかく何かしらの資料を探し当てて指針を付けたい

そんな状況で、鉄道省の信濃川発電所工事についてちょっとは調べるかという体で、
図書館でそれらしい本を山積みにしつつ、たまたま手に取った本にそれがあったのだ



昭和7年 田沢村小原での信濃川発電所工事起工式 (小原とは越後田沢駅辺りの集落。)





昭和7年 宮中側から工事現場、小原を見る
(河岸段丘の上を見ると、取水ダムとの直線上に建屋がある)





昭和7年 堰堤基礎工事現場から宮中集落を見る
(まだまだ宮中側は未開の河岸段丘の崖が続く)







昭和7年 小原側での砂利採取
(現地で砂利を採取しつつ、トロッコのまま砂利の選別場へ揚げたり、コンクリート工場を併設していたっぽい?)
(なお、余りに川の砂利を採取しすぎて、後年に工事区によっては他所から川砂利を運搬してくるような状況だったと工事史は伝えている)
(更に積雪期にはセメントを倉庫に貯蔵しないとならない)





昭和8年 鷹の巣からのぞむ宮中取水堰堤
(着工からしばらく工事のメインは川東(右岸)の田沢側であろうことは、建屋から分かる)





令和元年 鷹の巣からのぞむ宮中取水ダム
(工事の建屋があったような場所は野球場になっている)





これらのことから、宮中ダムは田沢方から建設が開始され、工事区としても川東(右岸)がメインになって始まったことが分かる

やっぱり、田沢方から工事は進んで、それならば飯山鐡道の越後田沢駅から工事専用側線も活躍できる条件は十分だ!と

しかし、まだ課題は残っている

そう、河岸段丘をどう克服するかだ

しかし、その答えは、一枚の写真で十分に当時の状況を推測できるものだった

可能性はあっても、文書なり写真で見るまでは認められなかった、河岸段丘を克服する方法である



昭和7年 小丸山の諸材料捲下げ現場






河岸段丘はインクラインで捲き下げて現場に降ろせばいいんだよ

本線からの貨物は、材料仕分け場(貨物駅みたいな場所)で載せ替えてトロッコで現場に運べばいいんだよ

あっけない、がそういうことだったのだろう

Googleのストリートビューでみても、こんな河岸段丘の場所である


宮中取水ダムを背にして、小丸山の河岸段丘を見る


3Dで河岸段丘を見る


つまり、飯山鐡道越後田沢駅から分岐した構外工事専用側線は、河岸段丘の縁迄であっただろうという可能性が高い

そこで材料仕分け場で軽便軌間のトロッコに載せられ、インクラインで河原レベルまで捲き下ろされ、工事現場まで行っていたと

これらを踏まえた上で、当時の構外専用側線と、インクラインから続く現場への軌道を推測すると以下のようになる



先日述べたような、本線で運んできた材料を積み替えて工事用軽便線で運ぶことはままある、ということにも通じる





一連の宮中ダムの工事写真として紹介されているので、この現場のインクラインというのは分かるのだが、「小丸山」という単語がいきなり出てきた

地形図を見てもそのような地名は宮中から小千谷までの信濃川沿いに見当たらない

たまたま、とある顧問との田沢~宮中ダムの工事用側線について話を振られたので、
宮中の工事ではインクラインの写真が残っていて、場所は小丸山というのだけど、小丸山とは地名なのか何なのかも分からないと言えば

「宮中ダムの越後田沢側の中里村小原小丸山じゃないのか?」と返ってくる

そこで示されたのは、十日町市観光協会のブログである

『小原小丸山公園』
https://www.tokamachishikankou.jp/jimu-tsu/35600/

この河岸段丘の縁が田沢側の小原小丸山ということだろうし、
つまり小丸山の捲き下げ現場とは、当地にあっただろうインクラインであるということが言えよう

私は後日、実際に小丸山に行って来た

宮中ダム付近を見下ろせる小高い丘と言った感じである




平場が広がっている この中に慰霊碑がある




慰霊碑。工事中の殉職者を悼むためのものである







慰霊碑には、昭和十一年九月建之とある

つまり、この慰霊碑が建てられたのは宮中ダム竣工の前であり、当然、越後田沢駅-宮中ダムの専用線が撤去される前だ

おそらくまだこの場所に詰所なり工事関係の敷地が広がっていた頃にこの慰霊碑も建立されたものであると推測されよう

ここに広がる河岸段丘上の平場のど真ん中ともいえる場所に立っており、ひっそりとというより、
現場では割と一等地に建てられたのではなかろうかということが伺える

ひょっとしたら、資材を運搬してインクラインで捲き下げられていくトロッコ達もこの慰霊碑の前を通っていたのかもしれない


この慰霊碑については、中里村史にも記述されている

工事に伴う尊い犠牲者の数も少なくなかった。
(中略)
中でも激流を締め切り堰堤を建設する栗原組の作業は困難をきわめた。
(中略)
堰堤工事を請け負った栗原組では、堰堤工事がほぼ完了した昭和十一年九月、小原の小丸山に殉職者慰霊碑を建立した。





以上により、飯山鐡道越後田沢駅ー宮内取水ダム間専用工事材料運搬線のおおよその部分は示せただろうと思う

駅から現場の材料仕分け場までの詳細・確実な位置は分からないままだが、それでもその存在を今まで以上に明確に出来たと考えている

昭和50年代のカラー航空写真でも、越後田沢駅から逸れていくようなカーブが見える

もはやSFの類だけど、駅から分岐していく軌道跡のカーブが見える気がするのだ






現在、Googleの航空写真を見ても、今やその痕跡はない





改めて地元郷土史を紹介しよう

地元郷土史によると(津南町史か十日町市史だったと思う)

昭和6年11月10日、越後田沢駅から1.4kmの専用工事材料運搬線敷設許可を申請、
昭和7年2月12日認可、直ちに工事にとりかかった
これは昭和7年4月12日から運転を開始し、昭和16年5月30日の千手発電所関連工事終了と共に撤去されている。

(何で越後田沢・宮中の専用線が宮中ダム竣工の昭和13年以降、千手発電所関連工事の終了まで残っていたのかも不明だけど)

宮中ダムの舞台となる中里村史(後に十日町市に合併)にはこういう記述がある

昭和六年度には、千手村に発電工事事務所が置かれ、ここで工事を統括し、着々準備が進められた。
中里では貝野村・田沢村に工事詰所や宿舎が建設され、田沢駅から小原地先の信濃川の岸まで建設資材を運ぶ軽便鉄道が敷設された。
本格的に着工したのは十二月に入ってからで、水路となる隧道を請け負った間組は十二月八日に貝野村宮中の現場で鍬入式を行い、程なく工事にとりかかった。
一方、栗原組が請け負った堰堤工事の起工式は翌七年三月十六日、田沢村小原地内で行われている。



つづいて当時の十日町新聞を引用していく

十日町新聞 昭和七年三月三十日

信電所長 堀越氏
まづ工事をはじめるには事務所と係員の住む處がなければなりません。
そこで第一に御承知の通りの聴舎を千手村に建てた。
次いで官舎は千手村と十日町にわけ千手村に十五戸、十日町に四十戸を建て
夫々現場の方にもいるからこれは先年のものを修理し併せて六七十戸を造って人を入れました

さていよいよ工事を始めることになると材料運搬線をつくるのが先決問題となる。
しかしこれは先年大体出来ていたものを利用し
只上越線、十日町線の開通によって運輸系統が最初の計画時代より変わっているので
新たに十日町線に接続して十日町から吉田村小泉までを作ることになった。
此工事は余程すすんでいる。
千手村から貝野村宮中間は既設のものを利用し土工の修繕と上の軌道を延ばすのは秋までに完成させたいと思っている。
さらにもう一つ、飯山鐵道田沢驛から堰堤までゆく運搬線は輸送貨物の性質を考慮して本線同様の軌道にすることにし工事はすでに終わっている。
準備工事は大体こんなものである。

本工事は第一に第三隧道の下部を八月から直轄工事でかかった。
現在の掘進状態は導坑が約一千尺すすみコンクリートの巻き立ても始めている
次に貝野村宮中を起点とする第一隧道の上部は請負で昨年の暮れに着手しすでに横から入る穴は完成して本導坑に入りかけている
また、堰堤、第一隧道下部、第二隧道は最近請負に附し夫々工事にかかることになっている




十日町新聞 昭和七年九月二十五日

三土鐵相の信電視察 短時間なので大車輪 日和もよくて大機嫌

信濃川電氣事務所の工事をそのまゝ継続して鉄道電化の電力の直営にするか、
或は民間電力会社の要望に聴従して民間電力会社から電力の供給をうけて鉄道を電化するか、
その根本策を決っせんがため信電工事現場視察として三土鐵相は
 ~中略~ 
町有志百五十余名が衣儀正しての歓迎には大臣も上機嫌
、直ちに飯山鐡道のガソリン車特発に乗り換へ田澤驛からさらに取入口現場に降り立ち、
信濃川の流れをせばめたり、コンクリートで固めてゆく堰堤工事の状況や蜘蛛の糸を散らした様に立ち働いている多数労働者を見て『ウン』と大きくうなづき・・・



十日町新聞 昭和十一年七月十五日

宛然大名行列 鐵相信電視察 次官、参與官も加はり 雨の中を強行
~中略~
十日町を経て午前八時十五分飯山線田澤驛に到着した
そして飯鐡差し廻しのガソリンカーに乗り換え、
同三十分信電小原詰所に至り休憩、
それより貝野村宮中まで徒歩、途中取入口堰堤、沈砂池を見、
宮中から工事用軽便線に便乗して吉田村小泉に出、
高台から連絡水槽、土堰堤工事場を展望、それから自動車で浅川原を経て十時二十分千手町信電工事事務所に入り昼食をとった。



明確なところだと、昭和11年、鉄道大臣の視察があった際に、田沢から飯山鐡道のガソリンカーで小原詰所まで行っている

ここから、田沢の駅から飯山鐡道のガソリンカーが乗り入れられることができたこともはっきりしたし、
つまりは本線と軌間が同じで、尚且つ線路が繋がっていることを示している、

また、小原詰所というくらいなので、小原(田沢側)に事務所があったことも伺える

さらに、昭和11年時点で、鐵道大臣が宮中から小泉(浅河原調整池の千手よりの高台の地名)まで軽便に便乗してとある

つまり、少なくともこの時点で川西の材料運搬軽便鉄道は宮中から小泉までは通じていたことが伺えるのである

折角なので、川西の工事用の軽便鉄道はどうだったのか、次からはそこを少しだけ触れたいと思う

まぁ、にわか仕込みで行きますよ。

西大滝と鹿渡

2019-09-28 20:53:35 | 飯山鉄道関連

鉄道省の信濃川発電所工事について調べ始めている

多くの先人たちが調べてきただろうテーマなだけに、自分は自分でマイペースに調べていくのみである

しかし、調べ始めた瞬間に無下にも国鉄の信濃川発電所工事史で「戦争で一期・二期工事の詳細の記録は纏めることが出来なかった」と示されてしまう

昭和6年  一期工事着工
昭和7年  宮中ダム着工
昭和10年  千手発電所着工
昭和13年  宮中ダム竣功
昭和14年  千手発電所発電開始 一期工事竣功
昭和15年  二期工事着工(千手発電所増強のため)
昭和20年  二期工事竣功

だいたい、鉄道省側の工事はこんな感じの年表になる(国鉄工事史・郷土史などによると)

これに地元郷土史にある東電の工事の年表も組み合わせると

昭和6年  鉄道省一期工事着工
昭和7年  宮中ダム着工
昭和10年  千手発電所着工
昭和11年  西大滝ダム着工
昭和13年  宮中ダム竣功 東電信濃川発電所着工
昭和14年  千手発電所発電開始 鉄道省一期工事竣功   東電 西大滝ダム・信濃川発電所一期工事竣功
昭和15年  鉄道省二期工事着工(千手発電所増強のため) 東電 西大滝ダム・信濃川発電所二期工事竣功
昭和16年  東電 信濃川発電所関連工事竣功 太平洋戦争
昭和20年  鉄道省二期工事竣功

同年代の同様の豪雪地帯での工事であるから共通点から模索するのも面白いと思った次第で、
鉄道省側も調べてみるかとなった

同時期の工事で、同じような地域(それも日本有数の豪雪地帯)の工事であるから共通点もあろうと期待してのことだ

その矢先に信濃川発電所工事史で「戦争で一期・二期工事の詳細の記録は纏めることが出来なかった」とされてはあんまりである

事実、工事史等として残されているであろう資料として参照してきた限りでは、鉄道省の一期工事・二期工事の詳細な記録は断片的である
(東電側の工事記録はもっと断片的だったのだけど・・・)

一期・二期工事こそが宮中ダムから千手発電所までの工事であるから、
それこそ飯山鐡道の越後田沢駅からの構外専用側線についても資料として示されるかと期待しただけに残念である

戦後に本格化した三期工事以降の小千谷発電所関連工事になると工事軌道の位置や機関車数から輸送量や輸送コストまで詳しく工事記録が残っているだけに悔しさが増す

それでも、この三期工事以降の資料からでも、当時を伺える記録が残っている

そんな国鉄信濃川発電所工事史の中で、現段階で着目した点として数点を挙げる

前々から紹介されている点もあるが、それを当たり前としないで、国鉄の工事史は工事史として読んで行く

・本線と繋がっていて免許を受けている工事側線から、現場へ向かう工事軌道(いわゆる軽便鉄道と言われているナローゲージ)への荷物の積み替えをしての接続はままある
・本線と繋がっていて免許を受けている工事側線が現場まで敷かれるパターンは発電所に乗り入れる場合で、それは発電機・変圧器の輸送は鉄道に依っていたため
・とにかく豪雪地帯なので、約半年は雪に閉ざされる。鉄道は輸送手段として使用できなくなる時季が数か月に渡ることもある。代替輸送は索道や橇なんかも使った
・積雪期に鉄道輸送が期待できない場合でも工事を進捗させるために、約半年分のセメントを乾いた状態で貯蔵するための倉庫が数百坪・数棟単位で必要で、それを各現場に設置

これらを踏まえた上で、再度、西大滝ダム建設について、西大滝駅の役割を推測する



去年から、西大滝については免許を受けなくてはならないようなものではなく、いわゆる工事軌道であったと推測をしている

上記の点からも、おそらく西大滝の駅から本線と繋がった線路があったわけではなく、
あくまで本線で輸送されて来た資材はここで積み替えられて、工事軌道で現場へと輸送されていたというのも十分にありえる



予想としては上の図として以前に示した通りだ

そして、西大滝駅に直結している、巨大な倉庫が二棟ある

これを資材倉庫、特にセメント貯蔵のための倉庫だとすると、国鉄の信濃川発電所工事史の記述とも繋がる部分が十分にあると思われる

当然、川原の方にも工事中は大きな建物が見られたのだが、貯蔵の必要性・積み替えを考えると駅に残った倉庫はそれらしく見えて来る

真相は不明だが、そういう資料に当たれていない

航空写真だけで断定することはできないが、確からしくもあるということで、改めて紹介させていただいた次第だ



一方、鹿渡については発電所を建設していた場所であるから、発電所まで乗り入れるためにも本線と繋がった側線であったと推測できる

ここも本線と繋がって免許を受けている工事側線である

これを踏まえると鹿渡駅から発電所までの高低差を生み出している河岸段丘を克服するためにどうしていたのかという話になる

これについては、現地の路盤跡のような地形、および当時から鹿渡集落に住んでいた方からスイッチバックしていたという発言を得ているので確からしい

スイッチバックしてでも本線と発電所を繋げたいという例は信濃川水力発電の工事軌道でも他に知らないが、
鉄道省の千手(戦前一期・二期工事)・小千谷(戦後三期・四期工事)もそのために対岸から信濃川を渡る鉄橋を建設して本線と発電所を繋げているから、
その必要性を示すには十分だと考えている




太平洋戦争へ向かう中での鉄道省発電所

2019-09-27 16:28:56 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
戦争の時期に工事が続き稼働を始め、戦中も首都圏の電車を支えたとされる千手発電所の当時の姿と現在の姿









当時から重要施設である発電所は、建屋に迷彩柄が施される姿が見られたという

千手発電所が迷彩柄を施したという記録には当たれていないが、戦時中でも変わらぬ信濃川の川の流れを利用して発電した電気を首都圏に送電していたと歴史は伝えている

鉄道省信濃川発電所工事専用軌道の変遷について

2019-09-24 04:13:29 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
鉄道省信濃川発電所工事専用軌道の変遷について少し調べた限りで


大正年間に準備工事として魚沼鉄道平沢駅より分岐した軽便軌道(魚沼鉄道と軌間が同じ762mm(2フィート6インチ))が、小千谷~宮中までの川西に整備された

これを国鉄特殊狭軌路線というのかの判断はおのおのの判断に任せるが、もともと魚沼鉄道自体は軽便鉄道法による免許を受けた路線である

1922年に国有化されて、国鉄の特殊狭軌路線となったらしいけれども、これが大正年間に鉄道省によって整備された発電所工事軌道とどう関わったのかという点を私は整理できていない

なお、魚沼鉄道の国による買収について、ウィキペディアでは

表向きは鉄道敷設法の別表に規定されていた来迎寺 - 小千谷 - 岩沢間の予定線と重なることと、沿線に軍の駐屯地があったことを根拠に買収されており、他の路線と同じような予定線重複にともなう買収、また一種の補償買収にも見えるものであった。しかし実際のところ当線の買収は地元有力者や会社が当時の与党・立憲政友会に働きかけたことによって起こったもので、買収の決定も野党の憲政会による激しい反対を立憲政友会が無理矢理押し切る形で行われるなど、特定の政党が単独で計画し力にものをいわせて強行するという、きわめて政治色の強いものであった。


と紹介されているが、川東に国が上越線の小千谷駅も開業している段階なので、実際は発電所工事のために有効であるとされての買収であるという見方の方がしっくりくる


この絵は一期工事前の絵であるが、魚沼鉄道から分岐した工事専用線が描かれている


この空中写真はあくまで二期工事以降の戦後の様子であるが、それでも色濃く西小千谷からの専用線が分かる。この時点で、専用線跡なのかもしれないが。




川西を小千谷から真人や千手を経由して宮中まで遡上する軽便鉄道について、一旦は大正年間に整備されたようである
(当時の取水ダムの計画位置が鹿渡の辰ノ口(東電の信濃川発電所が排水する更に上流)とか、発電所は小千谷のみという一段式発電だったというのに、軽便が宮中で止まってた理由までは分からない)

それこそ、あとは列車を走らせるのみって段階まで漕ぎ付けたようだ

しかし、この時点で整備された軽便鉄道は、発電所工事には関わっていないようなのだ

それは、直後に発生した関東大震災で発電所工事計画自体が凍結されたためである





そこから長らく放置された軽便鉄道は、昭和に入ってようやく一期工事が始まる頃には荒廃の極みと言われる程度

色々な施設が腐って使い物にならない状態になっていたらしいのは、各町史でも言われていることは以前にもこのブログで引用している

しかし、そこは鉄道省はお国の税金で始めた国家事業であるから、それこそ国会でもこれだけの準備工事をやって金も掛けてる、
発電所工事の凍結はありえないと糾弾され、整備した軽便鉄道も活用せよってなるわけで

昭和に入って、鉄道省の信濃川発電所工事計画は息を吹き返す

更に背景には、当時の大日本帝国のエネルギー政策上、国内の石炭の埋蔵量と採掘量からメインのエネルギーである石炭の節約が必要と言われていたこともあるようで

時は支那事変で大陸進出を始めていた時期でもある



一期工事が始まる頃に、大正に整備したかつての軽便軌道の一部を利用しての専用線の整備も進捗していく

それは十日町から千手に至る信濃川を渡る専用線(1067mm(3フィート6インチ)を整備したと国鉄の記録にはあるが、実際は762mmと1067mmの三線軌条区間もあった?)であったり、飯山鐡道の越後田沢からの工事専用線(1067mm(3フィート6インチ)だったりする



先日、小千谷の専用線の話を空中写真から紹介したが、上越線の小千谷駅から信濃川を渡る専用線の整備は戦後であるし、
一期工事から専用線が十日町・千手から小千谷に通じていたという記録を見つけられていない

つまり、私の理解では宮中ダム・千手発電所の建設のための一期工事・二期工事の時点で、
小千谷は工事用軌道的には分断されており、その分断がその後も回復した記録を見ていない

これらの記録から、私は大正年間の魚沼鉄道から分岐した軽便鉄道の整備に興味を失うのである

なぜなら、この時点で魚沼鉄道から分岐した軽便は飯山鐡道とは関わっていないと思われるからだ

ただ、こういう軽便の整備があったという点を抑えただけで、あくまで知りたいのは飯山鐡道のことである

この一期工事・二期工事と言われるまでの時期の発電所工事については、飯山鐡道の越後田沢駅からの工事専用側線も活用されていた時期で、私はそこを確認したいだけなのである

再三言うが、私は飯山鐡道の工事専用側線を知りたいだけだ

あくまで鉄道省の信濃川発電所工事は、飯山鐡道を解明するための参照に過ぎない