◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

水路隧道と材料運搬線

2021-03-24 19:30:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
材料運搬線の使命は読んで字の如く、工事用材料の運搬だ。
信濃川の川西地区の各地に散らばった工事現場へセメント、木材、鉄鋼や人員等の諸材料の輸送を目的として敷設された線路である。特に鉄道省が計画した信濃川発電所は信濃川に流れる水を連続的に取水して発電する水路式の水力発電所である。更に首都圏電車輸送の朝夕通勤時間帯に対応するために調整池に水を貯め、ピーク時にその調整池の水を加えることで取水量以上の発電を行い、需要の増減に対応している。ピーク時はそのような発電を行うが、基本的には連続的に信濃川の水を取水して発電している。水力発電は高低差を活用したエネルギーの変換装置であるから、水路式は揚水式に比べて必然的にその落差を得るためにも水路は長くなる傾向がある。その長大な水路隧道の掘削、信濃川を堰き止める取水堰堤や沈砂池、調整池や発電所を造るために必要な材料を運搬する手段として敷設されたのが材料運搬線であるから、発電諸設備との関係を解いていくことで材料運搬線について分かることがあるのではないかと考えられる。特に水路隧道の長さと、それに沿う材料運搬線との関係は深いものである。
工事を進めるにあたっては、各地の現場近くに詰所・倉庫・宿舎という労務者の拠点があり、特に水路隧道沿線では横坑・斜坑や竪坑などによる地上と隧道とが接続する付近に拠点が設けられる。そして、軽便や索道、インクラインなどの材料運搬設備がこれらを結ぶという関係になる。信濃川発電所を造るという目的を達成するためという視点から、材料運搬線を眺めようと言うのがこの記事の趣旨である。専用線というのは目的があってそれを達成するための手段であるという本来の在り方に立ち返って信濃川発電所工事材料運搬線を見て行きたいのである。


と、格好を付けた前書きから水路隧道と材料運搬線の関係を紐解いていこうと考えていた。しかし、書きたいことが多いにもかかわらず、一向に筆が進まない。
であるから、いつものように気儘に書いていこうと考えている。要領を得ない文章になろうが、それはいつものことである。

先日來より、各資料を紹介した上で、一期工事の頃の材料運搬線について分かることを書いてきた。それらから分かったことを例によってポンチ絵にしたので紹介したい。













これに対して、水路隧道はどうだったのか。鉄道省の資料には各隧道の延長が示されている。
昭和8年5月15日現在の隧道工事進行状況表によれば
第一隧道上部 請負 昭和6年12月8日着手  延長1,452m 導坑昭和7年12月1日完了 切拡837m   畳築643m
第一隧道下部 請負 昭和7年4月1日着手   延長1,630m 導坑1,337m      切拡1,194m 畳築554m
第二隧道   請負 昭和7年4月14日着手  延長800m   導坑昭和8年2月11日完了 切拡672m   畳築486m
第三隧道上部 請負 昭和7年11月23日着手 延長1,450m 導坑746m        切拡24m    畳築未着手
第三隧道下部 請負 昭和8年3月11日着手  延長1,508m 導坑未着手         切拡未着手    畳築未着手  準備工事中
第三隧道下部 直轄 昭和6年8月3日着手   延長345m   導坑370m        切拡345m   畳築345m 竣工

隧道:沈砂池に接続する水路468mは暗渠でそれより浅河原迄は隧道である。隧道は浅河原口の外は凡て横坑、斜坑又は竪坑に依って中心線に入り之より掘進する。而して之等の作業坑は地形上各所に在る澤の部分に設くるを便とし其関係から工区を5に分った。而して第三隧道下部345mは地質調査及工事施工方法に対する試験の目的を以て昭和6年8月より直轄施工したが其他は凡て請負に附した。

そもそも隧道がいくつも別れている点についても少し触れておきたい。一般的にはトンネルと言うのは上下のトンネル出口から掘り進めるイメージがあろうと思う。私はトンネル工事に詳しくないので、最初は何で一本の水路隧道なのに第一、第二そして第三隧道と分割されているのか理解が出来なかった。上下からのみ掘り進める場合、トンネル掘削の最先端箇所(切羽)は二ヶ所となり、つまりその二ヶ所でのみでしかトンネルを掘り進めて行くことが出来ない。また、トンネルの延長が伸びるに従って坑内の各種材料運搬について隧道内を数kmも運ばなければならなくなる。一方、トンネルをいくつかの工区に分割することで、それぞれの場所から掘り進めることが出来る。適当な場所で斜坑なり竪坑などの作業坑で隧道中心線に至り、そこから両方向に掘り進めれば、それだけ切羽の数も増やせ、一本一本の隧道の延長も短くなるので、工事効率も良く工期を短縮することができる。要は、短い隧道を何本も並行して掘ることが出来るのだ。短い隧道は最終的に一本の水路隧道として貫通し、完成するという算段である。例えば信濃川発電所での第一期・二期工事の水路隧道延長は約7,653m。上記にある通り、各隧道は1km程度の延長とされており、この延長も地上からアクセスするための横坑などを設置しやすい場所で決定したようである。

水路隧道はまずは作業坑によって隧道の中心線まで入り、そこからまずは本来の断面より狭い導坑を掘り進めていく。そして導坑が掘られた後ろから所定の断面に切り拡げて行き、更にその後ろからコンクリートで畳築していく。
まず、水路隧道は第三隧道下部を浅河原から直轄工事で開始された。水路隧道中、直轄工事はこの第三隧道下部345mのみで、他は総て請負工事となっている。これの着手は昭和6年8月3日で、この直轄工事を手本とて各請負業者に隧道工事を発注したとされている。次いで着手したのが第一隧道上部で、隧道延長は1452mである。隧道上口の堀之内に斜坑を設け、そこから着手した。更に第一隧道上部は下口からも掘進されたが、これは新屋敷と安養寺の間にある深沢に竪坑を設け、これに依った。なお、その上流は宮中取水堰堤・沈砂池・取水口から468mを暗渠としており、これは宮中暗渠といわれており、後に着手された。年が明けて昭和7年4月1日に第一隧道下部1630mを下口から、同年同月14日には第二隧道800mも上口から着手された。第一隧道下部が下口から、第二隧道が上口から工事が開始されたという事から、同一の横坑を利用して地上から隧道中心に至り、両方向に掘削を始めたものと推測される。第二隧道工事のために姿集落に詰所や官舎、駅舎を設けた。この横坑は姿横坑として同時の土木学会誌でも紹介されている。次いで第三隧道上部は鉢沢・高島に詰所及び斜坑を設け工事を開始したようである。第三隧道上部は1450mである。第三隧道上部はこの位置から上下方向に掘進して行ったとある。第三隧道下部は1508m(請負)+345m(直轄)である。これは浅河原口から掘り進められたとある。
なお、予め断っておくこととして、私はあくまで材料運搬線について概要を調べることを目的としていたため、各工事が着手され、準備工事の全容がほぼ固まったであろう昭和7年ないし昭和8年中頃までの情報を集中的に調べていたに過ぎず、以降の情報に乏しい。そのため、私がここで書いて行く事は多くの推測があり、工事の進捗によって増強されたであろう諸設備についての情報に乏しい。特に一期工事の第三隧道上部及び第三隧道下部については、本格着工が昭和7年~8年にかけてとなるので、調べが付いてないに等しい。勿論、現在でも調査を継続しているので、調べたことは逐次書いていきたいと思っている。


実際の作業坑はどのようなものだったか、坑口の写真を何枚か紹介したい。
まず、第一隧道上部上口工事を担った堀之内斜坑 工事画報昭和七年十一月号より引用


第一隧道上部下口(第一隧道下部上口)の深沢竪坑 土木学会誌第十九巻第五号(昭和8年5月発行)より引用


第一隧道下部下口及び第二隧道の工事を担った姿横坑 工事画報昭和七年十一月号より引用


また、姿横坑については現在もその姿を残している。現在は農業関係の貯蔵庫となって居る。
 

上の当時の写真はコンクリートで捲き立てられていないが、後年にコンクリートで捲かれたのだろう。これを信濃川発電所工事由来のものと判断したのは、戦後の三期工事以降の作業坑と形が非常に似ているからだ。 工事誌から引用。
 

以上が各作業坑の写真である。各作業坑の位置については最初に示したポンチ絵にも示した通りである。
続いて、現地を拡大したポンチを示したい。

堀之内
 

これまでも当たり前のように示してきた堀之内支線の線形であるが、完全に推測である。支線の存在自体は十日町新聞でも信電工事として紹介されており、延長も500mとされている。しかし、それだけである。具体的に平面図などに描かれているわけではない。なお、ポンチで示した支線は、記事にあった支線延長(500m)ともほぼ一致する。

深沢
 

深沢は新屋敷と安養寺の間にある深沢川にちなんでいると推測されるので、この位置とした。これについても先に紹介した写真が掲載されている土木学会誌第十九巻第五号(昭和8年5月発行)にキロ程(水路隧道のもの)など一切の情報が記されていないので正確な位置は分からない。ただ、後に国の偉い人の視察において水路隧道を堀之内から入り深澤から出たとあるので、竪坑としての存在は確実だろう。
それにしてもここの軽便線の地形の越え方が凄い。空中写真なので立体感はないが、つぶさに見てみると空中写真からでも新屋敷(宮中)方から長い切取で高度を下げ、更に谷底に盛土をし、安養寺(千手方)も長い切取で勾配を出来るだけ小さくしているのが見て取れる。このように材料運搬線といっても、建設のためには本格的な鉄道の様にそれなりに大きな土木工事を行っている。またこういう例から、痕跡が全くないと思っていた場所や線路が取り付けないと見えそうな地形であっても、当時は大規模な土木工事を行い地形を克服していたことがあるため、それらしきと推測することで現地調査でもそれらしき痕跡を発見することが出来た例があった。

 

左が昭和51年撮影(CCB763-C18-30 撮影年月日1976/11/02(昭51) 国土地理院撮影)で、右がGoogleである。昭和51年頃までは県道も綺麗に整備されておらず、深沢に軽便の盛土らしきものが残っている様子が見て取れる。たった40年前までこれだけの痕跡が残っていたのだ。現在では安養寺方の一部こそ県道49号小千谷十日町津南線が軽便線の線形を踏襲している部分もあろうが、新屋敷方の切取は埋め戻されて水田となって居るし、深沢川を越えていた盛土に関しては後の砂防工事で完全に失われている。


姿
 

姿横坑の位置は水路隧道における位置と共に、横坑延長も記載されている。工事画報昭和七年十一月号によれば、「水路隧道上端から約3000米の所にある横坑。其長さ約200米で隧道中心線に達する。そこから上下流に向つて掘削して居る。」とある。なお、私はこの記述からgooglemsp上で距離を測り、実際に現地に赴いたのである。そしたらその位置に横坑があったというのが事の次第である。
昭和六年十月二十五日の十日町新聞には、姿駅舎移築、吉田詰所を姿詰所に移築、第一隧道下部倉庫移築などの請負入札が、更に昭和七年四月二十日の十日町新聞には姿に建設する官舎七棟十四戸の請負入札を行ったとされている。しかしこれは鐵道省側の工事で(あくまで官舎は工事を管理するお国(鉄道省)の技師や技手などの職員向け)、これらに加えて隧道工事請負業者による工事関係者の飯場が多く設けられたと思われる。何しろ第一隧道下部と第二隧道を受け持つ場所であるから、相当数の労務者が入ってきたことは容易に想像できる。おおよそどれ程の賑わいを見せたのか、工事最盛期に人口がどれほど増えたのかまでは追ってないが、工事に関連して当時の十日町新聞には犯罪数の増加や工事関係者同士の暴力事件や窃盗事件も報道されているくらいに人が入ってきたのである。
例えば「去る十六日午後五時半ごろ貝野村字姿山本三郎飯場内で土工が些細のことから喧嘩を始め・・・頭部を木剣で殴りつけ長さ一寸の裂傷を負はせたまゝ逃走、十日町署員に取押へられた」などといった具合である。資料を漁るというのは、こういう関係なさそうな些細な記事からも発電所工事関連の情報が得られたりすることから、非常に時間がかかるのが実際の所である。
更に、ここは沿線では珍しく信濃川との高度差が小さく、信濃川の河原に土捨場もしくは砂利採取場も併設されているような様子が見て取れる。関連は不明ながらも、今でもこの場所は砂利工場となっている。宮中~千手では発電所関連工事で砂利採取場となって居た場所が未だに砂利採取場やコンクリート工場となっている場所がある


第三隧道上部については、現在は鉢沢川のそばに竪坑がある。鉢沢川の削った谷底である。
 

現地には一期工事水路と二期工事水路の直上にそれぞれ竪坑が設けられているが、工事当時はどうだったのか。信濃川の方を見れば上空に材料運搬線の鉢沢橋梁が架かっていた場所だけに、私個人としては思い入れもある現場である。
十日町新聞の記述を紹介する。

十日町新聞 昭和七年十一月十五日
信電第三隧道 先づ横坑から着手 本坑は上下両方へ掘進 此処にも労働王国
さきに信濃川発電所第三隧道(水路)上部四粁三百五十米より五粁八百米間の工事を請け負った飛島組では去る十一日現場の吉田村鉢澤において盛んなる起工式を挙げた。
(中略)
斯くて飛島組では高島地内に出張所を設け村岡、小笠原両氏を中心にしてまづ土捨場を買収の上降雪前に鉢澤の一粁四百五十米の斜坑を掘削しいよいよ本坑にかかるが本坑は斜坑から上下双方へ向かって掘進する予定で三十餘馬力の捲き上機で土砂を運搬し砂利は信濃川岸と同地間に索道を作って運び従業員も本冬から百餘名に上る筈でここにも労働王国が現出するはずである。

流石に1k450mの斜坑は考えられない。というか、第三隧道上部の延長1,450mと混同しているように見える。
捲き上機というのも斜坑内に設けられたものなのか、それとも坑外設備なのかも分からない。更に、信濃川岸と同地間に索道を作ったとあるが、その基点も分からない。
一方で、第三隧道上部の竣工検査に関する十日町新聞の記事には以下の通りに書かれている。

十日町新聞 昭和十年八月十五日
第三隧道上部 来月は竣工検査 ー土質が稀によくてー 十ヶ月早く終る
鉄道省の信濃川発電工事は発電工事としては名実とも東洋随一と言われているが、その進行状態は極めて順調で、斯かる大工事でこれ程支障の少ない工事も亦稀とされている。殊に水路隧道は好調すでに第一隧道上部は昨年九月、同下部同年十二月、第二隧道が同年三月に竣功し、今また第三隧道上部が殆ど竣成し来月竣功検査を受けることになり、残るは第三隧道下部だけとなった。今回竣功の第三隧道上部は延長一粁四五〇米で昭和七年十一月八十八万九千圓で飛島組で請負ひ、竣功期限は昭和十一年七月であるからちょうど十ヶ月早く終ったわけで、最初鉢沢の斜坑から南へ向かって掘進中、図らずも大湧水に逢い一時工事進行も覚束ない程であったが湧水箇所をすぎると砂層でありながら坑内支柱が飾り物という程作用に土圧が少なく、かかる土質は土木界でも異例と言われた。それで信電工事は隧道はいずれもはじめの予想より土質もよく好調を示しているが、外部の堰堤、沈砂池、放水路等が玉石が多かったりして思いの外
難工を続けている。第三隧道工事について同工事を担当した飛島組村岡秀氏は語る「横坑が斜めに入らなければならないので工事施工上困難を予想し機械等設備を完全にしたのも良かったし、また土捨てが甘く行ったのも工事を早めた一因であった。本坑に入って南へ進む内はおびただしい水があって飛島組は難工事だと同情を受けたが掘進する程に水も絶え土質が砂層のやわらかなものであるにも拘わらず土圧がかからず支柱と梁の間がいつもすいている程であった。従って調子のよい時など導坑を坑夫八人で一日に六米も掘り進んだわけでこんなに良い抗は今までに聞いたことも見たこともなかった。」

まず、ここでも斜坑とある。知りたいのは斜坑の位置なのではあるが、斜坑から南に向かって掘進中に湧水があったとされることから、斜坑は鉢沢川より北で隧道中心線に至っていたと推測されるものの竣功検査までの年代においてそれ以上の記述は見付けることが出来ていない。段丘崖上の高島にあったのか、谷底の鉢沢にあったのか、それすら分からないのだ。あくまで推測の域を出ていない。


どこに何があったのか、第三隧道については理解が及んでいない。目下、精査中である。

高島・鉢沢の現場については、十日町市史にも、それらしい記述がある。素直に、鉢沢と高島などの地名を分けて整理する必要があると考えている次第で、第三隧道上部・下部については別に何か書こうと思う。

別冊市史リポート 手記 わたしの証言 第三集 には
昭和八、九年頃やっとの事で水力第一工事が始まり、鉢沢の田は土捨場となり、飛島組元請で下請が島田金太郎でした。砂利採取場は一里塚南端でした。私が十七才の時、初めて人夫に出たのです。私はクラッシャーの石入れを受け持ち一番若手でした。巻上げ運転者が宮内久一さんで、クラッシャー運転が隣の野上正治さんで、索道のハンキ出しが野上実さんの弟さんでした。初めて働いて、大人と一人前の金を貰った時の嬉しさは今でも忘れません。自分は若年で子供だと思っていたからです。第二期工事が昭和十五年に始まり、私は十四年八月に召集が来て、内地教育を受け、中支派遣軍独立工兵連隊機材小隊第二分隊に配属となり、瑞昌で大隊に加わりました。

通勤列車運転時間

2021-03-13 21:03:13 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
今日はJR各社のダイヤ改正ということで、折角なので信濃川発電所の通勤列車の時刻改正を紹介したい。雪解けを待ってからなのか、毎年4月30日の十日町新聞に掲載されている。
それらをポンチダイヤに起こした。

昭和8年


昭和9年

※土曜日のみ一往復運転する列車があるが非掲載(土曜日の半ドンで正午前後の十日町~山野田1往復だと思われる。昭和8年のダイヤ参照)

昭和10年

※橙色破線は「月曜日及祝祭日の翌日を除く日」 ※緑色線は「土曜日及7/21~8/31間を除く日」 に運転とある。


基本的に主要な列車は大きく変わっている様子はないが、昭和9年は第三隧道上部工事の着工に伴ってか「高島」が明記されており、姿も「姿驛」として記述されている。
昭和10年のダイヤは十日町新聞の記述が分かりにくい。前年までのダイヤと見比べても、「月曜日及祝祭日の翌日を除く日」「土曜日及7/21~8/31間を除く日」に運休なのでは?と思われるので、日本語の理解に苦しんでいる。

また、昭和10年には小泉始発・終着の列車が設定されていることが特筆される。これは前年に小泉の用地問題が概ね解決し、本格的に浅河原土堰堤工事が開始されるにあたり小泉車庫が開設されたためではないかと考えられる。また、土堰堤工事の目途が立ち、粘土採取場への軽便線の延長が請負入札に出されている。

十日町新聞昭和九年七月十日
信電運搬線 菊地組請負
信電事務所では吉田村小泉地内の例の土堰堤粘土運搬用軽便線延長約一キロの敷設工事の請負入札をさる六日行つたが指名入札者六名の處二万七千圓で長岡市菊地組が請負った。竣工期は百三十五日である。


浅河原土堰堤工事における小泉の粘土場及び土捨場の用地問題については、地元とかなり揉めた話なので、折を見て書きたいと思う。信電事務所に対して蓆旗を立てて地元住民がデモを起こしている。

信濃川発電所工事材料運搬線列車正面衝突事故

2021-03-08 20:00:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
十日町新聞 昭和十年十一月三十日
信電機関車 正面衝突 死者一名、重傷二名 工事場の惨事
去る二十七日午後一時十五分頃、吉田村字石橋地内において鐡道省信濃川發電材料運搬用の蒸気機関車とガソリン機関車が正面衝突をなし車は双方とも大破、死者一名、重傷二名を出したと云う信電工事開始以来稀の大事故があった
合図なしに発車 惨事の原因が判明
惨事の現場は千手隧道上手のカーブで急カーブの上木製のスノーセットに遮られて全然見通しが利かない處であった。そのため列車發車の際は千手町地内コンクリ―試験室と十日町倉庫見張所で合図をなし、本月はじめからは宮中行線と千手行線の分岐点に電話を設けそこから十日町見張所と連絡をとっていた。それで惨死した村田機関手の運転するガソリン汽関車は千手山野田線延長用バラスを惨事の前日の二十六日より高城澤隧道口から運搬中のものでその日は午前中に五往復し、六回目を空車で高城澤へ向ふ途中前記石橋分岐点に於いて平野車掌が電話で十日町見張所に合図している間に村田機関手はどう勘違いしたか発車したので折柄宮中方面に向かって材木を満載疾走中の寺居機関手の運転する蒸気汽関車とバツタリ行き逢ったものでガソリン車の平野車掌は電話口に残されて乗車していなかったため、また蒸気車の渡邉車掌は無蓋車から飛び降りたため無事であったが両機関手は発見が遅く遭難したものであった
機関手 程なく絶命 二名も重傷
ガソリン車には本籍盛岡市仁王町、当時十日町機関手村田源吉(四六)千手町字水口澤平野久治(二三)の両名が・・・(中略)・・・ガソリン車の村田機関手は両脛骨の骨折、前頭部陥没骨折の重傷を負い十日町至誠堂病院に収容手当を施したが同二時遂に死亡(以下略)




冒頭から痛ましい労働災害を伝える当時の十日町新聞の記事を紹介した。材料運搬線関連の事故はこれ以前にもいくつか起きているが、列車同士の正面衝突事故はこれが初見である。そして、この記事からは当時の材料運搬線の運転の一部が垣間見える。これは材料運搬線の運転についてほんの触りに過ぎないだろうが、鐡道省側の資料では材料運搬線は準備工事の進捗や延長など施設的な側面で記載されているのみであり、その線路の上を走り材料の輸送を担った列車の運転についての記述に乏しい。今回、この記事を紹介したのは信濃川発電所第一期工事における材料運搬線の運転を知る上で重要だと考えられるからである。

私が気になった点を箇条書きにすると
・電話での合図による列車間安全確保を採用していた
・昭和10年時点で材料運搬線の高城澤・石橋付近はスノーシェッドで覆われている区間があった(千手トンネルの真上くらいは崖の真下を走っていたようなのでその辺りだろうか)
・千手コンクリ―試験室の位置は後で調べるが、事務所か発電所のある位置だろう(十日町新聞にコンクリ試験室の工事請負情報が載っていたと記憶しているので、後で調べる)
・宮中行線と千手行線の分岐点
・千手山野田延長の工事。(事務所から発電所(今のサージタンクのある辺り)への延長だと思われる。発電所基礎などの請負入札とかやっている時期ですし。)
・圧力隧道高城澤横坑のズリを材料運搬線の線路のバラストに使用
・午前中だけで5往復するくらいの工事列車の運転頻度

私は当時の鉄道の運転について勉強不足であるし、ましてや材料運搬線なり専用線の運転については参考までに比較参照する対象すら思いつかない。ただ、上記の記述から材料運搬線の運転について分かったことがある。

・電話を用いた見張所への合図によって列車間の安全確保を採用していた
・見張所への連絡は車掌が行い、運転可能か確認の上で車掌の指示により列車は出発する

この二点が言えるのではないだろうか。材料運搬線は単線であるから、その区間を走る列車は運転方向なり1列車に占有させる措置を講じなければ危なくて仕方がない。
更に、郷土史に以下の記述があったので紹介しよう。

・別冊市史リポート 手記 私の証言 第三集 十日町市史編さん委員会
昭和十七年真夏に、小さい二階建ての事務所兼、人夫だまりが出来た。操車場と呼ばれていた。現在の国道の桜並木の下で、広くて小泉の粘土場へ通ずる軽便線の見張所でもあった。あの時代には珍しい、マイクロホンが使われたのだった。機関車の線路が単線のために、上り下りを知らせるアナウンサーが、私だった。運転手は若い人たちばかりだったが、四、五日見えないなと思うと、出征したのだと聞いた。

昭和10年当時と昭和17年当時を比べるのも若干の不安があるし、運転が大きく変わってないと仮定しての話になるが

・単線のため、見張所では上り下りを知らせていた

という事が分かる。車掌が見張所へ合図していたと言うが、見張所からは進出する区間に対して上り下りを指定して、車掌が自列車の運転方向と合致するのを認めた上で、運転手へ出発を指示していたかのように見える。1列車に単線各区間を占有させるなら、上り下りとは言わないはずだ。そもそも、見張所と連絡を取る電話のある個所で列車交換ができるわけでもなさそうなため、列車ごとに占有させるより、上り下りを時間帯で分けて流していたのかもしれない。


ちょっとした話かもしれないが、私には材料運搬線の運転について少し触れられた気がして嬉しい。鉄道は線路が敷かれようが、電話が整備されようが、車両が配置されようが、運転があってこそ使命を全うできるからである。軌道、通信、車両はどれも欠かせない要素であるものの、それらは割と記録に残りやすい。一方、物や形として残りにくく、連続的に変化していくために水物である運転は後世に伝えられないことが多い。その一端が垣間見られた気がしたので、今回紹介したのである。