◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

鉄道省信濃川水力発電工事材料運搬線 浅河原調整池

2024-02-02 16:40:33 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線

『土木建築雑誌』13(1),シビル社,1934-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1592195

また新たに国立国会図書館デジタルコレクションにて資料を見付けたので紹介したい。今回は浅河原調整池附近の材料運搬線についてだ。結論から言うと、鉄道省信濃川發電所工事材料運搬線は浅河原調整池南側の崖に沿って鐙坂へと越えていた。それを示す資料を紹介する。これまでの私の書いた記事は以下の通りである。

信濃川発電所材料運搬線 一期・二期工事時代まとめ
信濃川発電所材料運搬線(浅河原調整池南側)
鐙坂へ続く線路か?

浅河原調整池の工事は連絡水槽や土堰堤の資料は豊富ながら材料運搬線に関する裏付けに乏しかった。これまでも戦前から戦中に行われた工事中の写真や戦後の空中写真を参考にしつつ現地を歩いて調べて来た。そのため、状況からしてこうだろうという推測から記事を書かざるを得なかった。しかし、今回、材料運搬線を含めた全体図を国立国会図書館デジタルコレクションで見付けたので紹介したい。



今回、特に注目しているのは浅河原調整池の南側部分。浅河原川を越えた辺りから鐙坂に至るまでの区間だ。浅河原川の北側について、材料運搬線(軽便本線)は吉田のクロスカントリー場から段丘崖に沿って浅河原川へ向けて高度を下げていく線形をしていた。当時の路盤と思われる平場が今も現地に残っている。一方、私が分からなかったのは、浅河原川を越えてから鐙坂に至る区間だ。今回、この資料ではそれらを含めて、浅河原調整池付近全体の施設が描かれている。材料運搬線は浅河原川を越える辺りは盛土として描かれており、浅河原調整池の上流で浅河原川を越えていたと示されている。そのまま材料運搬線は鐙坂に向けて段丘崖を地形に沿って登っていると示されている。鐙坂に至っては現在の吉田公民館の裏を掘割として通っている様子が描かれている。図に示されている鐙坂の道路と現代のものとを照らし合わせると、吉田公民館裏の溜池は、まさに材料運搬線の掘割を堰き止めたものに水が溜まったものであり、山之上に向かう道路を挟んで南側に残る緩やかなカーブを描いた帯状の湿地帯も材料運搬線由来の掘割が低地として残った遺構であると考えている。


小千谷市の「おぢゃーる」で放映されている建設当時の映像に、材料運搬線が浅河原川を越える辺りのを写したものがある。立派な盛土だ。


こちらも「おぢゃーる」の映像からの引用になる。浅河原川から右岸部を見た様子だ。第三隧道の開口部が見え、これから連絡水槽が建設される頃の映像だ。この映像でも、材料運搬線らしき平場が崖の中腹に切ってあるのが見られる。写真左上の方向が鐙坂だ。


『土木工学』6(9),工業雑誌社,1937-09. 国立国会図書館デジタルコレクション  より引用
キャプションには「鐵道省信濃川發電工事 鐙坂臺軽便線附近より見たる連絡水槽工事」とある。つまり、この写真から連絡水槽を見下ろす位置に軽便線こと材料運搬線が敷かれていたと推測できる。

 
連絡水槽建設開始後の浅河原川の右岸部を写した写真だ。斜面中腹に平場があることが分かる。

 
現在の空中写真と照らし合わせても、鐙坂に至る材料運搬線の線形が見えてくる。ほぼ、現在の県道49号線小千谷十日町津南線に沿っている。また、段丘面上にある鐙坂に入って行く区間では掘割で高度差を稼いでいた様子が推測されよう。


更に、図の左中央にあたる浅河原調整池上流部にて浅河原川の南側すぐに分岐して調整池へ入って行く支線も描かれている。これこそが以下の十日町新聞の記事の浅河原線にあたる300mの支線であろう。


十日町新聞 昭和七年八月二十五日
信濃川発電工事現況に就いて 鐡道省信濃川電氣事務所長 堀越清六
(中略)
材料運搬線設備工事は昭和六年八月、十日町千手間材料運搬線工事に着手以来其の他の線路も予定通り進行し既に完成使用中のものもある。今此工事現状を略記すれば
小原線  飯山鐡道越後田澤驛から小原に至る延長一三二〇米の線路で昭和六年十月起工既に竣工して材料の輸送を開始している
堀之内線 軽便本線堀之内から分岐する延長五〇〇米の運搬線で主として第一隧道上部の材料を運搬する。昭和七年四月に起工既に完成使用中のものである
浅河原線 軽便本線浅河原から分岐する延長三〇〇米の運搬線で第三隧道調整池及圧力隧道等の材料を運搬するのが目的で目下工事中である


2023年に小千谷発電所が公開された際のパネル展示に以下の写真が掲載されていた。後に浅河原調整池として連絡水槽などが設けられる場所である。
 

これまで、私は当時の写真の中心から右下にかけて写っている軌道が浅河原線だと推測していた。盛土や橋を架けるなど、それなりにちゃんとした軌道だと考えたからだ。しかし、今はそうではないと考えている。
この場所は後に連絡水槽が建設される位置であり、図に描かれている浅河原線とは全く別な軌道であると考えている。おそらく、現場での資材輸送用の軌道に過ぎない。

 



実は当時の図も鉄道と特殊鉄道で地図記号を描き分けている。材料運搬線は鉄道、それ以外の現場での資材輸送用の軌道は特殊鉄道の地図記号が使われている。私は地図の成り立ちに詳しくないため、当時の地図記号の用法は分からない。一方で、この図を描いたであろう鐵道省としては描き分ける理由があったと考えている。そのため、地図記号の違いが材料運搬線と現場の軌道との違いだと推測している。

 



図には昭和6年の写真に写っている軌道らしきものは描かれていない。図に描かれている軌道はいずれも写真に写っている軌道と位置が合わない。昭和6年には無かった連絡水槽が出来ており、写真に写っている軌道の盛土などは連絡水槽建設時に全て削られただろう。現場の軌道は工事の進捗によって様相を変化させていくものなので、特に不思議はない。むしろ、図には浅河原線から連絡水槽直下までの軌道が描かれており、やはり工事に即した軌道が整備されたと考える方が自然であると考えている。なお、軌道は材料運搬線と繋がっていたようで、工事中の写真には現場で働く材料運搬線用の機関車の姿などが見られる。

 
この2枚の写真はほぼ同じ場所を写したものだ。右上のこんもりした丘を目印にすると、地形がこんなにも変わるのかと驚く。それほどの工事だった。今回、改めて記事を書いていても、工事開始前と工事中、工事完了後の地形や道が余りに違うので、それぞれの時代での判断を行う必要があった点に苦労したことを申し添えておく。

飯山鐵道と信濃川発電所 工事運輸交通略図

2024-01-28 15:37:49 | 飯山鉄道関連

『電気工学』30(8),技能図書出版社,1941-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1548143

国立国会図書館の資料を検索していて、上記の資料に巡り合った。東電信濃川水力発電所工事に関する資材輸送の略図だ。
これこそ、私が見たかった図である。私の意見を述べさせてもらうと、私は飯山鐡道による東電信濃川水力発電所工事の資材輸送の関係を解き明かしたくこれまで調べて来たのだし、それを示す資料がこうして見られて最高に興奮している。東電信濃川水力発電所工事で飯山鐡道という鉄路が資材輸送を担っていた事実を図示したものだ。飯山鐡道は東電信濃川水力發電所建設のために敷設された線路である。私は飯山線にそんな歴史的背景があるとは知らず、その出自に興奮した。その興奮と興味から始まった私の”夏休みの宿題”のような個人研究において、これまで私が東電信濃川発電所建設工事における飯山鐡道の材料運搬線としての役割を推測してきた諸々の事柄を総括する程の資料だ。私はこの図を見るために今まで研究を続けて来たと言っても言い過ぎな話ではない。それほどまでに私は興奮している。

最近の私が書いた西大滝及び越後鹿渡の専用線について推測と状況証拠を積み重ねて書いた記事は以下の通りだ。いずれも、大きく的を外していないと自負している。しかし、今回、上記の図という裏付けを得られたのは大きい。

東京電燈信濃川発電所工事材料運搬線 西大滝編
飯山鉄道と東電信濃川発電所 続・鹿渡

【西大滝】


飯山鐵道西大滝驛から沈砂池まで延びている専用線が描かれている。西大滝専用線は桑名川方に半円を描くようにして河岸段丘の高度を克服しつつ取水口・沈砂池付近まで敷かれていたと読み取れる。これは今までいくら推測しても、私は実際に専用線があったのか自信が無かった。特に戦後の空中写真にもそれらしき跡は見えにくく、現地調査でも判別できず、当時の現場の写真を見てもそれらしき線形が判別できなかったからである。こうして当時の資料にはっきりと記載されており、存在したという裏付けが取れたのは大きい。

 
西大滝専用線は現場俯瞰写真の右上の建物の奥からカーブを描いて右中央付近の資材置き場に至っている線路だ。エンドレスケーブルや砂利採取場の索道が川側に見られ、専用線は山側(飯山鐡道に近い方)である。略図に描かれている各設備の位置からしてそうだと判断する。

【越後鹿渡】


越後鹿渡駅専用線は上線と下線があった。上線は水圧鉄管工事向け、下線は發電所本体工事向けの専用線だ。下線が飯山鐡道の下をくぐっていた様子も略図には描かれており、その暗渠は今でも農道として現存している。發電所最寄り駅としての越後鹿渡駅の構内専用線の範囲の広さが窺い知れる。私は越後鹿渡在住で信濃川水力発電所工事中から運転開始後まで従事した方から鹿渡の上線・下線の証言を得ている。その方の証言から、上線には貨車で直接(分割された)水圧鉄管が運び込まれたり、下線は貨車数両を繋げてスイッチバックで下りていたとの裏付けを得ている。略図には下線のスイッチバックこそ描かれていないが、そこは略図であるから省略したものと捉えている。

 
戦後の空中写真ですら東電の社宅が立ち並び、上線の痕跡は薄い。工事の最盛期は戦前から戦中であるから、それも納得できる。一方、こうして各種資料を紐解くことでかつて越後鹿渡に存在した専用線、工事の痕跡を示すことができる。


川越車両センター祭り

2023-10-16 19:20:29 | 雑記
家族で川越車両センター祭りに行きました。

私の中で車両センター祭りの目的が電車を撮るから、子供を楽しませるに変化しています。

子供も楽しんでくれて、私も楽しいので満足です。

息子に「さいきょうせんとー。りんかいせんとー。あれは何の電車かなぁ」と言われながら撮った写真です。

息子は埼京線のE233系が大好きです。「さいきょうせんは、いーにさんさんけいの電車走ってる」だそうです。




鐙坂へ続く線路か?

2023-08-31 01:28:40 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
小千谷発電所公開でパネル展示されていた写真を観察する。



浅河原調整池と連絡水槽の写真だ。調整池には水が湛えられ、本施設が完成した頃の写真と思われる。
なお、工事中ではなく完成後の写真だからと私が適当に撮ったことが分かるように、説明文を入れていないので撮影時期が手元で分からない。昭和20年代かと思う。
今回、この写真を紹介したのは、手前の斜面に注目したからだ。私は撮影した時には気が付かなかったが、家に帰って後日確認したら、そこに線路が写っていた。

 

この写真から、もし写っている線路が軽便線のものだと仮定したら、軽便線の線路はほぼ現道と同じ位置に敷かれていたと言える。
かつて、軽便線は小泉から浅河原調整池の上流、鐙坂を経て宮中まで続いていたとされる。小泉から浅河原川を渡るまでの軌道跡は残っており、過去にこのブログでも現地の様子を紹介したことがある。一方、浅河原川の右岸部、つまり浅河原川を渡って鐙坂の集落までの軌道の位置は不明瞭だった。現道もそこそこ急な坂であるから、鉄道的にはより難所になり得る地形だと思われるという背景もある。
実際、どこに線路を通したのかと現地の地形や連絡水槽工事時の斜面の写真を観察することで推測してきた。そして、軽便線の線路は現道上にあったと考えてきた。今回、この写真を見た事で、その推測はより現実に近いものになったと考えている。



更に線路部分を拡大する。
今でも、この線路が軽便線の線路かどうかは私の推測に過ぎない。撮影時期が浅河原調整池の湛水後であるから、既にここより信濃川上流部の各施設の工事は完了している時期である。つまり、例えこの線路が軽便線の線路だったとしても、既に工事資材等の運搬という本来の役目を終えて数年経っている状態と言える。
私は、道に当たり前のように鎮座する軽便線の線路という光景が生きていた線路を感じられて好きな景色だ。また、やはりここに線路が敷かれていたのではという私の推測を後押ししてくれるものだったことから、少し自分に都合のいい推測となっているかもしれない。なお、最後の写真に写っている連絡水槽へ降りていく道は現在も施設へのアプローチ道路として使用されている。また、小屋の立っている平場もそれらしき場所が残っている。おおよその地形は現在と変わっておらず、そんなところも過去を想像しながら現代と結びつく点があって楽しい。
他に情報があれば、随時更新していきたい。

浅河原調整池の底へ続く軌道

2023-05-30 17:12:17 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
信濃川発電所工事材料運搬線は浅河原調整池の底までレールが続いていた。
私はそれを疑っていない。当時の写真からも、信濃川水力発電所工事のために配属された軽便機関車が浅河原調整池の底となる場所で工事に従事している様子が見て取れる。下に示す写真の右下に軽便機関車が写っている。この写真は連絡水槽工事のものである。連絡水槽は浅河原調整池内にあり、ここに写っている場所は浅河原調整池の底に沈む。したがって、浅河原調整池の底まで材料運搬線の線路が繋がっていた点について疑問は無い。



一方で、どうやって材料運搬線が信濃川の形成してきた河岸段丘を克服して浅河原調整池の底まで至ったのかが分からなかった。
写真でも、郷土史の記述でも、本軽便線が浅河原の土堰堤工事で活躍したとされている。一方で、その実態を示す資料を見付けることは出来ていない。鐵道省の資料としてこの軽便線の具体的な線路図を示す資料を私は見付けれられないでいる。更に、前提として勾配に弱いという特性を持つ鉄軌道で当地の河岸段丘を克服する必要があり、私はどうやって軽便線が浅河原調整池の底へ至ったのかが理解できないでいた。私は軌道の特性を踏まえて、私なりの考えから軌道を敷けそうな地形・線形を推測する傾向がある。しかし、推測する材料を求めようにも根拠となる資料が無い。それは公式の工事誌に図なども載ってない、軽便線の線路図は無い、まさに浅河原調整池の底に至る線路を写した写真も見たことがないことから生じた悩みである。これらの要因から、私は浅河原調整池の底へ至る軌道の位置は不明として来た。せいぜい、地形的に調整池の上流から線路を引いてきたのだろうと推測をしたことはあった程度の話である。上流には浅河原川を渡り宮中まで続く材料運搬線が通っており、そこから分岐し浅河原川に沿って下りて行ったと推測した。当然、軌道跡は調整池の底に沈んでしまうため、その痕跡を追うことは出来ないと半ば諦めていた。

そんな私の疑問は一枚の写真が吹き飛ばした。
その写真は、それらしい状況証拠を示してくれている。なお、小千谷発電所一般公開のパネル展示で示された写真の一枚である。

 
土堰堤高台より締固め作業を望む(S11.9.12)

この写真は浅河原調整池の土堰堤工事を撮影した写真の一枚だ。撮影は昭和11年9月12日とキャプションされている。鐙坂側から北を向いて撮影されたもので、写真右手が浅河原川の下流であり信濃川に至る。写真の左中央から右手前にかけてが土堰堤の基礎・心壁と推測される。それらしい形が見て取れるからだ。土堰堤と言えども、岩盤を掘り下げてコンクリートで壁を作った。当然、土堰堤の基礎がある場所は浅河原調整池の底(より深い場所)である。そして、この写真にはそこへ至る軽便線の線形がくっきりと写っている。この写真から、材料運搬線が段丘崖の中腹を沿って一旦は下流に下りて、スイッチバックでその高度を克服していた様子が分かる。googleのストリートビューで現地を確認すると、以下の写真のように示せる。



更にこれを上空からの写真に置き換えると以下のようになると推測している。

 

サイロは一枚目の写真に写っている。吉田車庫は段丘面上の中学校の辺りだ。航空写真を見ると、スイッチバックはかなり浅河原川の下流(信濃川方面)へ伸びている様子が分かる。これだけの距離があれば勾配も緩和でき、鉄道の泣き所である急勾配も克服できていたのかもしれない。最後に、スイッチバックのあった場所と推測される場所の写真を紹介する。

 

軽便線が折り返すのには十分な敷地と平場だ。現在では国道の交差点になって、ちょっとした平場が形成されている。かつて、ここを軽便機関車とトロッコがスイッチバックして行き交っていたのだろう。そう想像するだけで、私は興奮する。
浅河原調整池の底へ至る軌道が確かにここにあったのだろう。


「地形的に調整池の上流から線路を引いてきたのだろうと推測をしたことはあった程度の話である。上流には浅河原川を渡り宮中まで続く材料運搬線が通っており、そこから分岐し浅河原川に沿って下りて行ったと推測した。」
浅河原川の上流から、盛土で軌道を敷いている。浅河原川を木橋で越えている。この軌道はなんだ?
 
浅河原調整池(右岸高台より上部方向)(S6.10.24)

この写真から、浅河原調整池の上流側からも下流側からも軌道が続いていた可能性が生じた。浅河原調整池関連の軽便線の解明はまだまだ資料が足りない。また分からない点が出てきた。
私個人としては、学ぶほどに知らないことが出て来て、どこまでも飽きない題材となっている。一つ知れば倍以上に知らないことが出て来る。鐵道省信濃川水力発電所工事材料運搬線は面白いなぁ!!