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いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

千手河原高城澤間軽便本線探索

2021-05-16 05:00:00 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
※文中に「材料運搬線」と「軽便線」という単語が別な単語の様に散見されることがありますが、それは単純な表記のブレです。私が文章を推敲していない証拠です。よっぽど””で囲っていない限り、同義として読み進めて頂ければと存じます。


2021年春、私は3月下旬から、毎日のようにとある場所のライブカメラを見ていた。それは、妻有大橋の十日町方から千手方を写した映像である。



今年の冬は前シーズンの小雪と打って変わって、豪雪地帯と言われる当地でも例年らしく雪が積もった。私はライブカメラで日々薄くなってゆく現地の雪原を見ながら、自分の勤務と睨めっこし、時期を窺っていた。なぜなら、現地に行くのは雪解け直後と決めていたからである。雪国の春は思ったよりも速足だ。雪が無くなる前に桜が咲き、雪が完全に無くなったとあれば一気に芽吹く。そうして、4月の半ば、まだ所によっては雪も見られるものの、十日町に向かった。勢い余って、以下のポンチ絵を描くほどに渇望していた、探索の開始である。

 

今回、私が探索を行った区間は以下の写真の通りである。上に紹介した画像では、信濃川を渡って分岐して左方向に段丘崖を登って行っていただろう軽便線の跡である。当時の様子と現在の様子を比較するため、USA-R1907-28という昭和22年または23年頃に撮影された米軍撮影の空中写真にポンチ絵で落書きをしたものを掲載する。



 

これを現代のgooglemapで示せば以下のようになる。



 


以上の様に、今回探索した区間は軽便線が信濃川橋梁から千手発電所へ入って行く線路から分岐して高城澤・石橋・小泉方面へと延びて行く線路である。また、それは分岐から高城澤に至る非常に短い区間である。しかし、材料運搬線の中でも一期・二期工事では小泉・宮中方面へ、三期・(四期)工事では千手・眞人方面へと、川西における信濃川発電所の工事期間中の全域に亘って使用された区間であると私は考えている。つまり、それだけ軽便線としては重要な区間で、その成り立ちから廃止までの長期に亘って使用されたと考えられる。この区間の軽便線の存在については各種資料にも記載があるので、改めて以下に紹介しよう。記事は3点紹介する。


十日町新聞 昭和七年八月二十五日
信電工事請負 続々と出る ー第一隧道西松組へー 今日は運搬線
鐵道省信濃川電氣事務所では水路第一期線第一隧道下半分一キロ六百三十五米突の工事請負入札を
(中略)
なほ昨二十四日は矢張り第一隧道上部材料運搬線土工その他新設工事請負入札を行ったが一千〇八十圓で間組の請負の處となり本二十五日には千手村河原から千手トンネル附近へ九百二十メートルの運搬線工事請負入札を行うことになっている


十日町新聞 昭和七年八月二十五日
信濃川発電工事現況に就いて 鐡道省信濃川電氣事務所長 堀越清六
(中略)
千手河原高城澤間軽便本線 前記十日町千手間に接続する延長九二〇米の線路で昭和七年三月着手目下七十%の出来高歩合を示し近く完成の予定である
高城澤石橋間軽便本線 前記千手河原高城澤間に接続する延長一〇五九米の線路で昭和六年十月着手、既に土工其の他工事を完成し軌道敷設のみが残されてある。


土木学会誌 第十九巻 第五号 昭和8年5月発行 (1933年)
鉄道省信濃川発電工事概況
材料運搬線:省線十日町驛より起り千手發電所附近に至る延長3320米のもの及千手より高城澤を経て石橋に至る延長1979米のものを新設し


記事中の用語について私が知る所を解説したい。

・千手河原と千手トンネル
千手村河原とは今の妻有大橋や千手発電所のある辺りのことを指しているはずだ。起点は材料運搬線信濃川橋梁の川西の袂である。上新井と言われる区域だ。千手トンネルは今も山野田から十日町橋に向かう時に通るトンネルだ。

・軽便線の延長について
千手河原高城澤間軽便本線(920m) + 高城澤石橋間軽便本線(1,059m) = 千手より高城澤を経て石橋に至る延長1979米のものを新設(1,979m) と、数字も合致する。今回はこの中でも「千手河原高城澤間軽便本線(920m)」を特に注目したい。

戦後の空中写真にも材料運搬線信濃川橋梁から分岐して高城澤へ向かう線がはっきりと見られる。更に上記の記述からも材料運搬線が千手発電所(千手河原)~高城澤まで通じていたのは明白だ。更に、そこには信濃川が形成した急峻な段丘崖が横たわっており、それを鉄道が克服するためにはそれなりに鉄道らしい勾配で段丘崖をトラバースする必要がある。そのため、必然的に鉄道らしい地形に収まってくると考えられる。昭和七年時点で同区間は「千手河原高城澤間軽便本線」とされた延長920mの線路とある。例えば、googlemap上で千手発電所に向かう線路との分岐(千手河原)から高城澤横坑だろう位置までの材料運搬線の距離を測ると900~950m内外である。そのため、「千手河原高城澤間軽便本線 前記十日町千手間に接続する延長九二〇米の線路」と一致する。また、先の千手河原分岐から石橋分岐(小泉・千手分岐)までは同googlemap上での距離は1900~2000m内外になるので、「千手より高城澤を経て石橋に至る延長1979米のもの」についても、距離からしてもおおよそ確からしいことも分かる。以上のことから、ここに線路があったろうことはほぼ確実だと考えられる。



googleストリートビューで妻有大橋を十日町方から千手方面を見てみると、前方に段丘崖が横たわっている。左手が信濃川の上流である。材料運搬線信濃川橋梁はこの橋の上流に架けられていた。なお、右手奥が千手発電所である。この画像からも、材料運搬線が千手河原から高城澤を経て石橋に至るなら、信濃川の形成した段丘崖を克服する区間であることが分かる。壁の様に横たわっている崖を軽便線は越えていたのだ。





実は、私は同区間の探索を去年の初夏に行っている。鬱蒼とする段丘崖に、それらしき平場があるように見える。しかし、実際にそこまで登ってみて、諦めた。薮になった段丘崖にも、それらしい平場が見られるにも関わらず。

 

実際に諦めた瞬間の景色をお見せしよう。明らかに自然ではない平場が残っているが、この薮に入るのは無理だ。もし、無理をして進んだとしても、痕跡を見つけることもできないだろう。
しかし、「ここに平場ありき」と確信したのは事実である。この時から10ヶ月間は机上調査に留めた。



そして、夏、秋、冬を過ぎ、雪解けの春を待っての今回の探索となった。現地は桜が開花し始めたという季節で、残雪も見られる。
まずは分岐直後の段丘崖へのアプローチである。結論から言うと、私は段丘崖までのアプローチと見られる軽便線の痕跡を全く見つけることが出来なかった。空中写真から推測する限りでは、以下の写真の正面辺り(道路をまっすぐ進んで崖にぶつかる辺り)から段丘崖に張り付くように見える。そのため、この辺りはまだ盛土などで高度を稼いでアプローチしていた区間と思われる。なお、写真の左手はコンクリート工場、正面はその関連する砂利置場になっている。



軽便線はこの先、右手に見える段丘崖を越えなくてはならないので、盛土などで高度を稼ぎながら、高城澤に向けて続く登り勾配があったと推測される。盛土で高度を稼いでいたというのは、以下の写真も参考にしたい。


写真引用元:十日町・中魚沼・松之山郷今昔写真帖  保存版 十日町市・中魚沼郡(川西町・津南町・中里村)・松代町・松之山町 郷土出版社 2002年09月

上の写真は先にも言及した千手河原分岐付近を写した写真であり、左手前が後に千手発電所が建造される辺りである。中央上部に写っているのが信濃川発電所材料運搬線信濃川橋梁である。そして、そこから右奥に分岐しているのが、今回探索する線路である。ここでは、高城澤・石橋方面に向かう軽便線が信濃川橋梁から盛土のままに分岐していたということを推測した材料として紹介したことを承知して欲しい。


前年とほぼ同じ場所から、探索開始。開始地点は発電所近くのコンクリート工場のそばである。これより、高城澤方面に向かって進んで行く。
写真を並べて見ると、私が去年の初夏に諦めたのも分かっていただけると思う。あの薮には入れなかった。今シーズンはそこそこ雪も積もったので、下草は軒並み倒れていたので歩きやすくなっている。

 

高城澤方面へ歩いていく。緩やかに右へカーブしながら、崖にへばり付いて平場が続く。この時点で軽便がそれなりの高度を稼いできているのが分かる。ただ、歩いていて勾配はほぼ感じられない。右側(山側)の崖は粘土・砂礫質で、雪解けもあってか水が沁み出していて、ぬらついていた。



振り返って千手発電所方面を眺めると、コンクリート工場や妻有大橋が見える。当時で言えば、砂利採取場(土捨場?)と軽便の信濃川橋梁もこのように見えただろう。



更に進んで行くと、谷にぶつかる。対岸にも平場が続いているのが見える。ここを越えるためには橋が必要だ。橋があったのなら、当然、橋台などの構造物があったと考えられる。

 

谷に落ち込む崖の縁に立ち、足元を検める。雪解け直後にも拘らず、足元は笹薮である。その隙間から姿を見せていた。
思わず、「まぁ、あるよな。あってくれなきゃ困る。」と喜びと安堵が入り混じったような感情が湧いてきた。まるで石碑の様に、そこに黙って、それは姿を覗かせていた。
コンクリートの構造物、谷に面したこの位置、間違いなく軽便の橋台跡だ。



由来は分からないが、ここにはどちらかというと砂礫・粘土質の段丘崖と異なる、川原に在りそうな、丸石も転がっていた。軽便のバラストとも言い切れないものの、妄想が捗るアイテムであることは間違いない。



まず、足元に覗いている石碑を丸裸にせねばなるまい。足場は決して良くはない。そもそも、この斜面には軽便線にあったろう橋を支える程度の平場があるだけで、一寸先はすぐに谷に落ち込んでいる。少し汗ばみながら草を除けて数十分、ようやく全容が見えてきた。私は感動した。







感動的だ。信濃川発電所工事材料運搬線の廃線跡において橋台というコンクリートの構造物はそれなりに残っていることをこのブログ上でも紹介してきたが、橋台そのものの綺麗さと、それに続く盛土を支えるようにしつらわれた石垣がそのままに残っているのだ。この上を材料運搬線の列車が走っていた。それが容易に想像できる遺構だ。谷を越える鉄橋のために据えられた橋台と、それを支えるように積まれた石垣が信濃川電氣事務所工事の丁寧な仕事ぶりを現代に伝えてくれているようだ。同所工事の信濃川の丸石で造った石垣はいつだって美しい。更に谷の縁にはガーター橋なりの鉄橋が据えられたであろう橋座面のコンクリートがそのまま残っている。実際に橋桁が載っていただろう橋座の一部の上に堆積した土や落ち葉を私が払いのけようとした様子が写真からも分かると思う。表面は特にボルト(橋とコンクリートを接続する)などが出ているわけでもなく、用途不明ながら中央に線路方向に向かって溝が掘られているくらいである。そうやって石碑と戯れていたら、日が昇ってきてしまった。それくらい長い時間、私はここに滞在し、軽便線を堪能していた。







そして、鉄橋が渡っていたなら、それは対岸と対である。そして、対岸を眺めると、既にあるべきものが見えている。もう、手の届くような距離に対岸のそれが見えてしまっている。飛び越えられるような谷でもないので、一旦、崖を降りる。







先ほどまでいた段丘崖の中腹は谷の右手(千手発電所方)である。ここから、谷の左手(高城澤方)へアプローチする。どう見ても45°以上はあるほぼ崖の斜面を登るのだ。

 

登っている途中、先ほどまでの千手発電所方の橋台が見えてきた。思いがけず、橋台の下にも土留めのようなコンクリート構造物を認めた。草木があり全体を捉えることは出来なかったが、幅は3m程度、高さは50㎝といったところ。厚さはまったく分からないが、橋台の真下の位置に据えられている。土留めのようなものなのか、橋脚のようなものがあったのかも不明だ。そしてこの構造物からほぼ垂直に谷に落ち込んでいる。谷底までの高さは3mを越えそうだ。



ということは、こちら側にもあるだろうと、同じような高さの谷に面している斜面に向かうと、高城澤方にもコンクリートの構造物があった。この斜度の斜面なので、写真を撮るにも片手は確実に木に掴まり保持しなければならない。つまり、ノーファインダーで写真を撮るしかないし、全体を引きで撮るスペースもない。こちらも構造物の大きさは幅は3mくらい、高さ50cmかそこらである。斜面というかほぼ崖の地形にしっかりと打ち込まれているようで、付近の地形を含めて綻びが見られない。そのため、こちら側も厚さがどれくらいか分からなかった。こんな場所なので誰も立ち入っていないからか、出始めのコゴミやフキノトウが多く見られる斜面だった。持ち帰ろうかとも思ったが、片手も離せない斜面にあってはそんなことに注意力を配分するのも危険だ。



そして、この直上に先ほど見えていた高城澤方の橋台がある。いよいよご対面だ。



こちら側は山側に少しスペースがあるので、全景を見渡せる。



ガーター橋でも載せるのにおあつらえ向きの構造であることが見て取れる。この橋が実際にどのようなものだったのかは資料が残っていないので分からない。しかし、この状況から、おそらく橋台と同じような高さの鋼製ガーター橋があったろうと推測される。



そして、私が何より感動したのは、橋台に続く盛土である。私は材料運搬線の廃線跡の全域を探索しているが、ここまで綺麗に盛土が残っているのは初見だ。盛土はせいぜい鉢沢川橋梁の宮中方~姿の間に残っているが、ここまで石積み含めて残っている盛土はここだけの筈だ。盛土が地山と接続する感じも最高にカッコイイ。鉄橋の距離を出来るだけ短く、そして段丘崖を克服するために高度は出来るだけ保持したいから(高度の保持は線路の勾配に直結する要素である)、この僅かな区間でも盛土を形成したのだろう。盛土はせいぜい高さ1mで、長さは3m程度である。信濃川から持ってきただろう丸石積みの盛土、最高だ。この構造物が放棄されてから数十年は経っており、木が十分に成長するだけの時間を経て、盛土の内部にも木の根が張り巡らされ、確実に自然に還ろうとしている。それでも、当時の丁寧な仕事を感じられる場面だ。盛土内部に見える小さい丸石も良い。盛った土の中に(信濃川から採取してきた)石を混ぜたのだろう。石を混ぜることで盛土の強度が増すはずだ。私はここに立って、この盛土の上を行き交う列車を妄想することができた。それくらい、当時の姿を今に残していると思う。







おそらく戦前に造られたコンクリート構造物だが、綺麗なものだ。





続いて、対岸(千手発電所方)を望む。コンクリート工場と信濃川が見下ろせる。このように、軽便線の路盤は段丘崖の中腹を走っている。





振り返って、高城澤方を向き、軽便の路盤を進んで行く。穏やかな平場が続く。廃線跡としての景色が続いている。時折、線路脇に設けられていただろう排水溝の痕跡だろう窪みが見える区間がある。排水溝らしき窪みについては、信濃川の軽便線の全域でみられる特徴である。平場は段丘崖の地形に沿ってゆるやかに右へとカーブしながら続いていく。なお、川側は切り立った崖であり、時折大木が根元から崖下に落ちているような地形である。









時折、(千手発電所方へ)振り返る。段丘崖の中腹から見下ろす信濃川が朝日に照らされて綺麗だった。おそらく、軽便に乗っていた従事者達もこの景色を見ただろう。信濃川を見下ろしながら、彼らは何を考えて何を話していたのだろうかと思いを馳せた。





穏やかな路盤は、突然、消える。現役施設があり、この先の探索はできない。もっとも、当時から地形が改変されているだろうから、この先を追っても痕跡は皆無に等しいだろう。



それでも雪山に登るくらいの抵抗はしたい。軽便線跡と信濃川である。せいぜい、柵の外側からそれらしい景色を写すに留める。



振り返って現役施設である。今では当時の地形は残っていないように見える。そもそも、路盤跡から数m直登するような場面なのだから、後年埋め立てられたのだろう。軽便跡はこの地面の下である。
なお、この敷地内のどこかに圧力隧道の高城澤横坑があったはずだ。また、この地は圧力隧道や浅河原調整池工事の際に出た土捨て場でもあったらしい。

 

ここから軽便線は高度を上げながら、高城澤横坑付近を経て石橋へ向かっていた。
去年、今回の区間を探索しようとして諦めた際に、現役施設を見下ろせる道路上から写真を撮っていた。上の雪捨場から先に延びていた軽便線があったろう場所を紹介する。現役施設内は当時の痕跡を探そうにも、難しいことがお分かりいただけると思う。

 

 

そして、地上に戻ってきた。下から探索した区間の全景を眺める。段丘崖の中腹にはっきりと平場が続いているのが分かるだろう。

 

 

とは言え、今回の探索によって軽便線が千手河原から高城澤に至るまでの線路のおおよその所が判明したと言える。確かに、段丘崖の中腹を軽便線は走っていたのだろう。
これだけの遺構を目の当たりにして興奮は冷め止まないが、まぁ、興奮している内は見えていないこともあるという事で、つづく。たぶん。

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