◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

千手発電所の設備配置図

2019-10-29 17:12:14 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
随時追記中 (最終更新10/30 19:00)


千手発電所は戦前を中心とした信濃川発電所一期・二期工事の施工であって、私は工事史などの資料を確認していない。
ないない言いつつ、千手発電所に関する工事について戦前の学会の雑誌に寄稿された論文が残っており、私はそれを頼りに調査を継続している。既に公開されている論文なので、本記事の最後に参照として紹介したい。本項はそれら論文に載っている図や写真を基に、千手発電所附近の材料運搬線の様子を紹介できればと思う。


まず、論文中に出て来る平面図・設備配置図と、建設当時の昭和23年米軍撮影の航空写真と、現代の航空写真を紹介する。









改めて見ると、現代google航空写真でも材料運搬線の跡は色濃い。
土地の利用方法が現代に至るまで、運搬線に沿ったような使われ方をしているのが分かる。上の配置図内に仮工場とあるが、仮工場の写真も論文内で紹介されている。

仮工場で行われていた作業として、主だったものは水圧鉄管の溶接作業だ。
精度が要求される水圧鉄管の現場組み立てを行っていたのが、まさに仮工場という場所だ。鉄は一般的に熔接などの高熱を受けると性質が変化する。つまり、溶接により本来の強度や腐食性がおおよそ悪い方向へ変化する。更に鉄は熱に依って変形するため、寸法精度が要求される鉄管の組立作業は種々の研究と優秀な熔接作業者を採用した。







紹介した写真の内、図10は仮工場内の鉄管溶接の現場だ。
これは千手発電所の鉄管溶接の様子であるが、同時期の鹿渡の東電信濃川発電所、後の小千谷発電所の現場でも鉄管はいくつかのパーツに分けられて鉄道輸送されてきている
いずれも専用線の終点近くに設置された仮工場で溶接され、トロッコなりで据え付け現場まで運ばれていた。例えば、東京電燈の鹿渡の鉄管工場も越後鹿渡駅から分岐した上部軌道の終点にあり、そこから輪に組み立てた鉄管をトロッコで現場まで運んでいた。現場での溶接をする必要がある中で精度を高めるために、輸送されてくる前の製造工場で組み合わせを綿密に行っていたと当時の資料が伝えている。これだけの大型の鉄管であるから、そもそも溶接による不良や欠陥に併せて自重による歪みも生じやすいため、施工には工夫を要したことが論文にも書かれている。
なお、鉄管の製造元は三菱の神戸造船所で、面白いエピソードがある。
同造船所は軍艦の建造を担っていた工場だった。その工場が鉄道省信濃川発電所のために鉄管を多数製造していたために、米国かどこかの偵察資料に「潜水艦を多数建造しているようである」という報告がされたらしい。時代を感じるエピソードだ。

図11は仮工場の全景だ。
遠く背景右端に十日町駅まで続く信濃川発電所材料運搬線の鉄橋と思われる長大な橋が見える。おそらく工場の奥が下平車庫と言われる場所だ。配置図にある「デリック」とは、写真に写っている通りのクレーンの一種。

三枚目。
十日町橋(多くは信濃川橋梁とされる。信濃川発電所材料運搬線に設けられた十日町駅~千手発電所間の鉄道橋)として紹介されている写真も添えておく。当時の信濃川の従事者には信濃川橋梁と呼ばれていた橋梁だ。当時、付近に信濃川を渡る永久橋は数える程しかなかったため、地元住民が鉄橋を渡ることは黙認されていたそうだ。



配置図からサージタンクの上流で圧力隧道を繋ぐ横坑が約160m伸びていることが分かる。
河岸段丘の中盤から崖を抜いて圧力隧道に至ってたであろう横坑。その横坑にも線路が描かれており、論文には750mm軌道と書かれているが、軽便の762mmのことだろうと思われるがどうだろう。仮に横坑の材料運搬線を上部軌道とした場合、今まで述べてきた材料運搬線と上部軌道を繋ぐクレーンも描かれている。その材料積み下ろしのためだろう上部軌道の平場らしき土地が、現代に至るまで残っているのが分かる。(その広場に行く車道が今でも残っているが、私は千手発電所に行きながらスルーしてて現地未調査)



上部軌道の全景がどうなっていたのかまでは私が調査した限りでは今でも分かっていない。しかし、どこかにそれを示す資料が残っていると信じている。

こういう下支えの上で出来上がった千手発電所。















上から建設期、竣工後の戦中期の戦時迷彩を施された千手発電所、そして2019年秋の千手発電所だ。
千手発電所建屋へも軌道が来ていたことが分かる。配置図にある通りだ。



おそらく建屋へ入っていく軌道も本線に繋がる軌間(1,067mm)だと思われるが、それを裏付ける記述を私は見つけていない。また、建設工事当時、軌道は鉄管の上をガーター橋で越えていたことが分かる。現在は軌道がはがされているだけでなく、コンクリートで埋められているようだ。

最後の写真を見ても、下平車庫の辺りの配線、妻有大橋の辺りに至るまで専用線の雰囲気が残ってると思う。
線路が見える、見える気がする。そういう妄想が加速した結果の当ブログの最近の記事だ。



また、千手発電所建設工事時に大型重量物輸送のために十日町から千手に至るまで本線規格の専用線が敷かれた。
実際に当時に千手へ大物の貨物を輸送してきた時の写真を紹介して終わりたい。


水車輸送


變壓器輸送


参考文献
北村市太郎(昭和15年)  「鐵道省信濃川發電水工事に應用せる電弧熔接に就いて」、熔接協会誌第10巻第8號、P295-304
氏家竹次郎・末本茂・川勝義男(昭和15年) 「鐵道省信濃川發電所水壓鐵管工事概況」、熔接協会誌第10巻第8號、P305-315
監修:佐野良吉 小野坂庄一 執筆:大島伊一ほか(1992年)「目で見る十日町・小千谷・魚沼の100年」、郷土出版社

溶接協会誌の黎明の頃の論文である。
当時、こんな大型の鉄管の金属同士の接合はリベットを採用するのが通例だった時代に、溶接を採用している鉄道省の本気を感じる。
仮工場の写真で紹介している論文の一部に、現在にも通じる曲げ試験、引張試験、衝撃試験を採用しているのも面白い。今でも通じる金属加工の基本的な機械特性を知る試験を当時の鉄道省は評価するほどの技術を持っていたと言える。万能試験機や、TEMやSEMなどの組織・電子レベルでの金属材料組織評価もない中で、機械的評価手法で加工精度向上を狙っていた。今のJRにこういう実用と基礎研究的要素の技術力があるかというと、鉄道総研などに受け継がれているものと思う。信濃川発電所建設は当時の鉄道が持つ最先端の技術を用いた施設であると言いたい。

信濃川発電所三期・四期工事材料運搬線

2019-10-27 19:23:11 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
信濃川発電所三期・四期工事材料運搬線について、これまでと比べて格段に異なる点がある

それは、この時期の工事については国鉄が残した工事史から情報を得られるという点だ

その工事史は材料運搬線について一節を設ける程なので、それを紹介していきたい

例によって私の個人的な纏め方なので、詳細を知りたい方は工事史を見て欲しい
(国会図書館や十日町市情報館、小千谷市図書館で閲覧できる(閉架))




概要

セメント到着駅は飯山線十日町駅、下条駅、越後岩沢駅、上越線小千谷駅に限定されるので、
既設道路橋以外に下記の通り材料運搬設備を新設して輻輳する資材輸送の緩和を計り、
特に積雪期間におけるセメントの緊急輸送のため3箇所に索道を新設した。
これら工事材料運搬設備は次の通りである。

材料運搬線 軌道延長         28.7km

(イ)飯山線十日町~千手間      5.8km
(ロ)千手~市之沢間         12.9km
(ハ)上越線小千谷駅~小千谷発電所間 2.8km(軌間 1,067mm)
(二)その他支線側線         7.2km

索道新設 3箇所

(イ)下条索道
(ロ)岩沢索道
(ハ)小千谷索道


工事用材料運搬設備

 第3期工事所要材料中コンクリート用骨材を除く、木材約40万石、セメント10万2千t、鋼材約7,00t、その他発電機、諸機械等の主要材料は全て汽車輸送によって、
上越線小千谷駅~飯山線十日町駅間の最寄りの駅より、信濃川を横断して対岸の延長16kmに亘る工事現場まで配分輸送しなければならないのであったが、
再着手当時信濃川を横断するための輸送路としては十日町~千手間の第1、2期工事当時使用した軽便線の他は、
十日町、岩沢、小千谷の3箇所に公道橋があるが岩沢の魚沼橋はすでに流出して復旧の見込みなく、
十日町橋の木橋部は洪水の際屡々流出する状態にあり、小千谷の旭橋叉木橋のため重量品の輸送は不可能な実状にあった。
 その対策として千手より軽便を市の沢まで延長し、小千谷方面は発電機とその他重量品の輸送と将来工事完成後の発電所保守用材料輸送確保のために
小千谷駅と発電所を結ぶ本線を敷設し、信濃川には鉄道橋を架設する。
 なお下条、岩沢、小千谷にセメントその他輸送のため信濃川を横断する索道を設置する計画を立て、
下条索道は軽便線の補助、岩沢索道は市の沢塩殿間の補給、小千谷索道は軌道及び貨物自動車と共に、発電所附近並びに吉平まで補給する。
 以上のような計画が立てられたのであるが、その後魚沼橋は復旧し岩沢駅より貨物自動車による輸送が可能になり、
ガソリン事情も逐次好転してきたので、市の沢、塩殿間は岩沢駅より直接輸送し、
小千谷方面も亦セメント、木材等は貨物自動車による方が能率的となり、従って索道は使用する機会は少なかった。


材料運搬線
(1)軽便線(軌間0.762m)
軽便線は爾来一・二期工事材料運搬用として、既に千手まで敷設してあり、
千手~小千谷間は大正11年、貝野~小千谷間、1段発電計画当時施工していた路盤を補修して、小千谷まで軽便線を通す予定であったが、
市之沢より吉平間は路盤の荒廃甚だしく、相当の経費と日数を要し、又復旧しても雪崩等による損傷は、保守に非常な困難を予想されるので、
計画を変更して軽便線は十日町~市之沢間迄とした。
即ち3期工事用軽便線新設としては、千手~市之沢間12.9kmの本線と、下平~小根岸間1.2kmの支線、上野~中沢間1.16km、同線より分岐して寺ケ崎に至る1.054kmの支線、
橘~狸沢間1.16km、根深倉庫に至る230m、中山倉庫に至る115m、及び各停車場、倉庫線合せて1.648kmの側線を敷設し、取水口~市之沢間の材料運搬には専らこの軽便線によった。
取水工事においての材料運搬はその集積地及び経由地が十日町なので、既設十日町~眞人間材料運搬線によることとし、
側線下平倉庫線を放水路右岸沿いに1.6km延長し、取水口運搬小根岸線と称して、セメント及び門扉関係材料その他工事用諸材料の運搬に使用した。
(ここにおける取水口とは千手発電所放水路から小千谷発電所を結ぶ水路隧道の取水口のこと)

(2)本線(軌間1,067mm)
小千谷発電所及びその附近に要する材料運搬には既設小千谷駅より発電所まで2.8km間途中信濃川橋梁により信濃川を横断し本線を敷設して本線列車を直接これに引き入れ、
発電機その他の材料運搬並びに将来発電所保守専用線とし、この動力には40t本線機関車3輌を準備した。


貨物自動車
軽便列車によらない地区即ち、市之沢~塩殿間及び小千谷方面の吉平及び水槽附近に使用するセメントその他軽材量は殆ど貨物自動車により夫々岩沢駅或は小千谷駅から輸送した。
自動車庫は吉平及び千手に置き、これに18台の貨物自動車を配置し、小千谷地区は主として小千谷駅に到着する諸材料、
千手地区は主として岩沢駅に到着する諸材料の外軽便線到着箇所より運搬にあたった。

また、山本調整池については、別に山本調整池工事史があり、
それによると、山本調整池の工事には専ら自動車が使用されたことも分かっている。
そのための道路整備も行われたことを工事史は伝えている。


材料運搬線路敷用地買収
材料運搬線は十日町~千手間は一・二期当時のものを使用、千手~真人沢間は信濃川水力発電当初計画当時買収のものを使用、
東小千谷~山本間及び荒新田材料運搬線は昭和19年買収し、寺ケ崎、下平新田、狸沢、千手~放水路間材料運搬線は昭和24年買収した



更に、1968年5月号の鉄道ピクトリアルに小島氏と瀬古氏の国鉄信濃川水力発電所工事についての記事が掲載されており、その内容を少し紹介したい
なお、この時点ですら内容的には国鉄の信濃川水力発電所の工事史に依るものが多いと感じる程度なので、
それ以上に新たな話は出てこないが、内容的に纏まっている文章として紹介したい
特に瀬古氏は飯山鐡道についても郷土史などにも寄稿しており、これまでの私の調査でも度々引用している方である
氏は魚沼鉄道の国有化魚沼線について、通史では地元の政治的成果とされていることに対して異議を唱え、
魚沼線国有化は発電所開発で利用できるかもしれないという思惑を指摘している人物である
私も、魚沼鉄道の国有化は小千谷発電所開発に使えるかもしれないという理由が大きいと思うわけで、そんな氏の記事を紹介しよう
なお、私も再三言っているけれども、魚沼鉄道も魚沼線も大して発電所開発には利用されていないと考えている
魚沼鉄道・魚沼線を調べても、結局、発電所開発に直接的に関わることも無く、廃線になったと私は思っている
そうではなかった、魚沼線は発電所開発に貢献したという根拠があるなら、是非とも教えて欲しい。
資料なり根拠を示して、教えて欲しい。

大正10年に着手された小千谷・十日町附近の場合には、人跡未踏ではないが、十日町線・飯山鉄道ともに未開通であり、
上越北線は大正9年に宮内から東小千谷(現在の小千谷駅)までのび、大正10年に越後川口まで開通していたに過ぎなかった。
”前”第1期工事ともいうべき大正10~13年の工事の状況は記録も少なく不明の点が多いが、機関車16両、土運車75両以上が新規に発注製作され、
資材運搬用の軽便鉄道は762mm軌間で、小千谷を起点として田沢(発電所の取入口まで)約40キロの線路が敷設され、試運転まで行われている。
しかしこの線路は大正13年の工事中止とともに撤去され、再使用は昭和5年以降の第1期工事以降までまたれることになる。
第1期・第2期工事では昭和2年に開通した十日町線が早速利用され、
十日町を起点として千手-小宗-田沢を結ぶ軽便鉄道が資材輸送の幹線となり、大いに活躍することになった。
第3期工事では、十日町-千手-小泉-眞人-市之沢間は軽便鉄道が資材輸送にあたったが、
市之沢-小千谷間は大正期に建設された路盤の潰損が甚しく、戦後の動力事情の変化から、
この区間はトラック輸送に切替えられ、第3期工事は主として軽便鉄道とトラックの両方によって行われることになった。
その他、第1・2期工事の際に設けられた千手運搬線(十日町-千手間 2.9km 1,067mmで762mmと3線式)、
第3期工事で新設された山本運搬線(小千谷-山本間 2.8km 1,067mm)の二つの発電所引込線のほか、
小千谷・岩沢・下条の3カ所に索道が設けられて、資材輸送に使用されている。
第4期工事は、ほとんどトラック輸送に頼ることになり、軽便鉄道も索道も全く姿を没してしまった。
1,067mm線も十日町-千手間は健在だが、山本運搬線の方は国道17号線の整備で小千谷-国道間が廃線同様となり、
元中子附近の資材終結所から発電所までの線路は残っているが、
ほとんど発線所職員の通勤道路のようなもので、KS-12規格の立派な信濃川にかかる橋りょうもアクビしている。



以下に、これらの工事史から拾った情報を、昭和の航空写真に落書きを起こしていきたいと思う
例によって推測的な部分もあるが、そこはご容赦願いたい
また、千手付近の画像のみ、昭和23年のものを使用し、それ以外は昭和40年前後の写真を使用している

昭和23年当時ではまだ三期工事も本格的に着工しているとは言い難い年代であることから、
できれば次に古い年代の航空写真としての昭和40年を採用したかったのだが、
昭和40年前後時点であまりに千手付近の様子がつかみにくくなっていたので、千手付近だけ昭和23年を採用した

今回より、いよいよ大正期の事前準備工事の魚沼鉄道から分岐していたであろう軌道跡も落書きしている
黄色線が魚沼鉄道から分岐していた大正時代の軽便線の想像位置である(廃止されているので黄消し)
茶色は1,067mm、紫色は762mmの線路、藍色は索道である(小千谷の索道を書くの忘れた


















以上が、3・4期工事の軽便鉄道の概要である

小千谷方から解説していこう

小千谷駅から分岐した専用線は、材料仕分け場(貨物駅のような役割を持っていたらしい)を経て、
架設された鉄橋により対岸に取り付き、スイッチバックで発電所へ至っていた



小千谷発電所の現場全景として河岸段丘上から撮影された写真が残っている
写真奥にスイッチバック線が写っており、ちょうどスイッチバックの折返し線上に車両がいる
その線路を跨ぐようにして索道が奥から手前、そして河岸段丘上へと延びているが、
これは主に信濃川の河原より採取したコンクリート用の砂利の運搬用だったようである
なお、本工事では工事区最寄りの信濃川の河原で砂利を採取し、各工事区へ索道をもって供給していたようである

市之沢工事区は千手から延伸されて来た軽便線の終点である
対岸の越後岩沢駅から索道も来ていた
また、道路も通じていたようで、自動車輸送も可能な場所であったようだ
小千谷から市之沢に至る区間については主に自動車輸送に頼っていた
また、越後岩沢の索道基地は、おそらく十日町方で分岐し索道基地に乗り入れていた
索道は飯山線を跨いで、対岸を目指した

軽便は狸沢斜坑への分岐があった
狸沢へは飯山線下条駅からの索道が渡されていた
落書きはしていないが、橘工事区と囲った辺りには根深沢横坑のセメント倉庫への分岐が存在した
また、軽便の分岐の終点はどこも竪坑・斜坑・横坑のある場所で、
軽便により運搬されて来たセメントの貯蔵倉庫と信濃川の河原からの索道があった

寺ケ崎竪坑・中沢斜坑への分岐が、上野の辺りにあった
また、小根岸の取水口の附近へも、千手の下平倉庫から排水路に沿って軽便は分岐していた
特に、この小根岸の取水口への軽便の分岐については、
工事史にも「取水口材料運搬小根岸線」と称してと紹介されるようなもので、
一応、名前が付く程度の枝線として紹介されている。

小根岸の取水口現地の設備図を紹介しよう


実線が軌道である。

1、2期工事では千手発電所の放水路として、
3、4期工事では更に小千谷発電所までの水路隧道の取水口という役割を果たす場所だ


放水路建設時


放水路稼働 取水口建設前


取水口水門完成後

写真と設備図を照らし合わせて見てみると、確かに軌道が図のように走っているのが分かる。
なお、この放水路の右岸は今でこそ平坦な水田が広がっているが、
この当時は千手発電所からここまで続く放水路の膨大な土砂捨て場となっていたようで、
画像を見ても丘のようになっている。
三枚目の画像には、右奥に骨材選別所、水門の上にコンクリート混合場が写っているのが分かる。
そして、設備図の下の方、「一期 二期」と書かれている辺りに橋があり、ここにも軌道が通っているのが分かる


今回は、その場所に行って来た
特に何かを期待して行ったわけではなく、
ここまで軌道があったのだから何かしらの痕跡があるかもしれないというだけのこと
決して、図書館が開くまで暇だから時間潰しにダラダラ車を走らせていたわけではない
地形的には完全に農地に戻されており、当時の様子は分からない
放水路の水門設備を眺めつつ、上流に渡れそうなコンクリート橋があるので近づいたら・・・




何か、手摺がレールっぽいぞ?






どう見てもレールだ。
しかも、本線用というより、林鉄や鉱山にありそうな、軽便と言われる鉄道にあるような細いレールだ


刻印は!? 刻印はどうなっている? そもそも軽レールに刻印なんてあるのか?









錆びないようにかペンキの厚化粧で覆われてて殆ど読めないけど、USAを感じる
1922年とは大正11年で、その当時の製造レールなら、
それこそ完成しつつも使われなかった準備工事時代の軽便から使われて来たレールかもしれない
CONSTECOの楕円形のマークは米国の販売代理店のマークらしく、ここでは最もよく見られた


何にしても、ここまで纏まって手摺に軽レールが使用されているわけで、
この場所にも軌道が来ていたことから考えるに、国鉄信濃川発電所の工事用材料運搬線で使用されていたレールだと言えそうだ
また輸入レールばかりなのも、年代的に輸入レールに多く依存していた時代と工事時期と合致する
まさか、レール、それもいかにも軽便鉄道っぽい軽レールが残っているとは思わなかったので、嬉しい発見である



簡単ではあるが、以上が3、4期工事の頃の材料運搬線と私は考えている
気が向いたら、また加筆修正する

妻有の景色

2019-10-26 11:25:47 | 飯山線

路線名を言われなくても、飯山線の新潟側の景色だと何となく分かる気がする、そんな自信がある

それは飯山線の沿線は知り尽くしているという話じゃなくて、妻有らしさというか、
どこか醸し出す地域性を景色から感じているだけなので、私は特段に言語化しようとも思わないけど

信濃川の河岸段丘上を開墾したのだろう段々な水田も、そんな光景の一つなんだろうなぁとか思いつつ


細いレールだ

2019-10-12 00:42:10 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
工事軌道があったと信濃川発電所工事史に記録されている場所に、それはあった

廃線を調べる中で、レールが残っていることほど、嬉しいことは無い

やっぱり、レールというのは鉄道の痕跡として象徴的だと思う感覚が私にも根深い

施設群の中で、いかにも材料運搬軽便軌道のものと言えるレールはなかった

そんな中で、思いがけず、レールがあった

何より、森林鉄道や鉱山鉄道にあるような細いレールで、本線規格のものではないことは明らかなレールである

おそらく、信濃川発電所の材料運搬軽便軌道で使われていたレールだろうことが推測される場所と、レールの細さである

あいにく、錆止めのためか、厚塗りのペンキで刻印もほとんど読めないながらも、いくつか刻印が見える場所もあった



1922 USA くらいは読める

1922年と言えば、大正11年

それこそ敷設され、試運転までされながら、活躍は幻となった大正年間の信濃川軽便で敷設されていたレールだろうか



<CONSTECO> アメリカ ベスレヘム・スチール社スチールトン製材料の代理店らしい

先日の桑名川駅構内に残る飯山鐡道当時のものと思われる古レールもそうだが、
まだまだ米国輸入レールが多かった時代背景を鑑みると、十分にあり得る話だ



このレールが残る場所の、工事当時の映像が残っている

信濃川発電所三期・四期工事における工事軌道についての記事で、もうちょっと詳しく紹介しようと思っている

信濃川発電所工事 川西の工事軽便 一期・二期工事編

2019-10-02 13:35:59 | 鉄道省信濃川発電所材料運搬線
飯山鐡道につづいて、信濃川発電所工事材料運搬軽便線について纏めていきたいと思う。まず、おおよその概要について、私が調べた限りで紹介していく。以降、この概要に沿って各工事期間ごとに材料運搬軽便線の様相が変化していく様を紹介できればと考えている。概要の後、ここでは一期・二期工事と言われる時期の材料運搬軽便線について書いていきたい。

この軽便線の発端は大正時代の信濃川発電所工事の準備工事に始まる。首都圏の電車化により、鉄道省はその旺盛な電力需要をまかなうために発電所建設を計画した。当時のメインエネルギーである(当時、北海道の炭坑も最盛期であるとは言え、埋蔵量は50年分くらいと見積もられてて)石炭の節約は国策でもあったという背景がある。そこで、鉄道省は石炭火力発電所も設けるが、水力発電所という石炭に寄らない電力施設を計画した。この時の発電所の計画は、新潟県は魚沼の辰ノ口(越後鹿渡付近の断崖絶壁に挟まれて信濃川が狭くなってる辺り)で信濃川を取水し、水路隧道で結び、小千谷までの落差を利用して発電しようというものだった。

前代未聞の水力発電所の大工事とあって、国はその着工にあたり、まずは資材輸送手段、通信、倉庫、宿舎などの周辺環境整備の必要性に迫られていた。特に、当時の川西地域についても大正期にしてまだまだ「昔ながら」の土地であったので、その整備は工事着工にあたって必須条件と考えられていたようである。

そこで、鉄道省は来迎寺から西小千谷まで伸びる魚沼鉄道に乗り入れる形で、762mmの軽便鉄道を整備する。
この時の軽便鉄道は、魚沼鉄道の平沢駅(終点・西小千谷駅の一つ手前の駅であり、小千谷市街地の外縁にあった)から分岐し、塩殿・真人・橘・上野・千手・吉田を経由して宮中までを整備し、実際に試運転まで行っている。


当時の小千谷市街地の絵にも、平沢駅より分岐した鉄道がしっかり描かれている

このように、十日町線・飯山鐡道も無い時代に、国は多額の費用を投じて、まずは小千谷から宮中(越後田沢の信濃川対岸)まで総延長40kmにおよぶ軽便鉄道を整備した。こうして資材運搬手段としての軽便鉄道や倉庫や宿舎まで、もういつでも工事に着工できる段まで準備工事が完了した頃、関東大震災で首都圏が被災する。本工事にとって、これは出鼻を挫かれるどころの話ではなかった。この関東大震災により、金も人も資材も何もかも首都圏の復興のために投じなくてはならない事態になったからだ。当然、鉄道建設も例外ではなく、鉄道省は信濃川発電所工事計画を凍結する。そして、この時に整備された軽便鉄道は放置、または撤去され、荒廃を極めていく。

関東大震災からの復興も一段落し、昭和の時代に入る。
首都圏の鉄道における電力需要は増すばかりである。国会でも、鉄道の電力需要をまかなうために信濃川の発電所工事の再開の是非が問われ始める。背景には、多額の費用を投じて整備したにもかかわらず只遊ばせて荒廃に任せる材料運搬軽便線”跡”や施設群などの発電所建設工事に向けて準備工事済みであった施設群への糾弾もあったという。また、昭和恐慌による失業対策なども理由として挙げられている。大規模に公共工事を行うことで経済対策を目論む側面もあった。そういう経緯を経て、国会で信濃川発電所工事は着工の承認を得て、昭和の時代に計画は再び歩みを進めることになったのである。

この時点で、発電所自体の計画も、大正時代のものから変更される。
従前、辰ノ口から小千谷まで水路隧道で導水し発電する一段階方式から、宮中から浅河原調整池まで水路隧道で一旦導水、貯水してから千手で発電し、その排水を更に水路隧道で小千谷まで引いて小千谷でも発電する二段階方式へ変更された。並行して東電の信濃川発電所計画が西大滝ダムー鹿渡発電所として進んでいたこともあり、鉄道省はより効率の良い鹿渡発電所排水路下流の宮中で取水する計画に変更した。更に、工事は数期に段階分けをし、まずは千手発電所を一期・二期工事で完成させ、首都圏への送電を開始する。その後、千手から小千谷までの工事を三期・四期として拡張していく計画である。工期を細分化したのは、いきなり工事全体に予算と工事資材を広げず、出来るところから発電を開始し事業推進を図ったためである。予算や世情から三期・四期以降の計画については不透明という当時の実情がある。

そうして、始まったのが昭和6年着工とされる信濃川発電所一期工事だ。
ここから、ようやく飯山鐡道の越後田沢駅専用線や十日町駅専用線、川西の資材運搬軽便鉄道が実際に工事に活躍する時代が始まった。

まず、この一期・二期工事に渡る専用線について概要を紹介する。
・飯山鐡道の越後田沢駅~宮中ダム専用線(1067mm)
・十日町線十日町駅~千手発電所専用線(1067mm,762mm併用三線軌条)
・十日町~千手発電所・~小泉~千手村山野田・~小泉~鐙坂~安養寺~貝野村宮中に至る材料運搬軽便線(762mm)
が整備された。

当時の十日町新聞を引用しよう

十日町新聞 昭和六年四月五日
待ち切っていた 信電大工事 本年中に着工に決定 職制愈々発表さる
工事着手は七八月頃からか 事務所の看板下る 近く所長赴任
堀越信濃川発電事務所長は来る二十日ごろいよいよ赴任することになったが
それまでの留守役として小千谷詰所米倉技手が一昨三日千手村に引き移り「信濃川発電事務所」の看板を千手村詰所にかけた。
米倉技手は語る
「取り敢えず作付け前に用地の買収に取りかかり一方事務所の建築にかかることになるだろうが
事務所の出来上るのは早くて七月ごろでそうなれば係員も入ってきませう
そして本工事もその頃からで本年度の工事は建築物の外に千手十日町間の鐵道と千手貝野間の工事用軌道の修理をなし
水路はもう試験掘などせず本工事にかかり取入口方面の工事にも手を卸すことになりませう(以下略」



そして、同日の十日町新聞にはこんな記事も載っている

十日町新聞 昭和六年四月五日
工事用軌道復活 地元で運動
鉄道省信濃川発電工事は大正九年に魚沼線小千谷から現場まで二十五マイルの延長線工事を起し
同十二年完工したが震災のために工事は中止となり
その後線路は内務省用地に編入され今日まで腐るがままに棄てられて居るが
小千谷町ならびに付近の村では右の線路を復活し建築材料は来迎寺小千谷経由にする様寄々協議を行っておったが
鉄道省方面に向かい運動を開始することとなった


つづいて、工事着工にあたっての十日町新聞の記事を紹介しよう


十日町新聞 昭和七年三月三十日
信電所長 堀越氏
まづ工事をはじめるには事務所と係員の住む處がなければなりません。
そこで第一に御承知の通りの聴舎を千手村に建てた。
次いで官舎は千手村と十日町にわけ千手村に十五戸、十日町に四十戸を建て
夫々現場の方にもいるからこれは先年のものを修理し併せて六七十戸を造って人を入れました

さていよいよ工事を始めることになると材料運搬線をつくるのが先決問題となる。
しかしこれは先年大体出来ていたものを利用し
只上越線、十日町線の開通によって運輸系統が最初の計画時代より変わっているので
新たに十日町線に接続して十日町から吉田村小泉までを作ることになった。
此工事は余程すすんでいる。
千手村から貝野村宮中間は既設のものを利用し土工の修繕と上の軌道を延ばすのは秋までに完成させたいと思っている。
さらにもう一つ、飯山鐵道田沢驛から堰堤までゆく運搬線は輸送貨物の性質を考慮して本線同様の軌道にすることにし工事はすでに終わっている。
準備工事は大体こんなものである。

本工事は第一に第三隧道の下部を八月から直轄工事でかかった。
現在の掘進状態は導坑が約一千尺すすみコンクリートの巻き立ても始めている
次に貝野村宮中を起点とする第一隧道の上部は請負で昨年の暮れに着手しすでに横から入る穴は完成して本導坑に入りかけている
また、堰堤、第一隧道下部、第二隧道は最近請負に附し夫々工事にかかることになっている


また、信工30周年記念誌では同時期に工事に従事していた技師の思い出が語られている。


発電工事の本格的工事は昭和6年8月に第三隧道下部工事が、引き続いて第一隧道上部、第一隧道下部、第二隧道と次々と着工されました。
従って軽便線の新設工事も全く昼夜兼行の突貫工事でした。


国鉄としての記録が見当たらないながらも、新聞記事や手記にも出ていたことで、その存在がグッと現実味を帯び、これまで調べて来て半信半疑であった「宮中から千手の軽便線」くらいの記述が繋がる。
更に、後年の鐵道大臣視察の際には、飯山鐡道田澤驛から堰堤までの専用線と川西の材料運搬線が利用されていたことが分かった。


十日町新聞 昭和十一年七月十五日
宛然大名行列 鐵相信電視察 次官、参與官も加はり 雨の中を強行
~中略~
十日町を経て午前八時十五分飯山線田澤驛に到着した
そして飯鐡差し廻しのガソリンカーに乗り換え、
同三十分信電小原詰所に至り休憩、
それより貝野村宮中まで徒歩、途中取入口堰堤、沈砂池を見、
宮中から工事用軽便線に便乗して吉田村小泉に出、
高台から連絡水槽、土堰堤工事場を展望、それから自動車で浅川原を経て十時二十分千手町信電工事事務所に入り昼食をとった。


昭和11年時点で、宮中から吉田村小泉まで工事用軽便線に鐵道大臣が乗っているという新聞記事から、少なくともその区間は軽便軌道が整備されていたのであろうことが伺える。
例によって、昭和11年にそういった話があってから一回りもした昭和22~23年、戦後に米軍が撮影した航空写真から軽便軌道を紹介する。なお、私が軌道跡だろう線をポンチ絵として書き込んでいる。

千手から田沢まで。

茶線が1067mm、紫線が762mmの軌道だ。千手発電所~浅河原調整池付近の分岐は完全に想像である。実際にはもっと細かかったかもしれないし、この頃に本格着工となった第三期工事に関連した施設が出来ている可能性も高いからだ。











小泉~宮中に掛けての区間で、いくつか補足をしたい。

まず、交換施設としたものは、仮駅舎仮ホームの設置された停車場である。鐙島停車場、貝野停車場と言ったかは分からないが、それぞれ軽便の沿線にある二つの小学校である鐙島小学校と貝野小学校の近くにそれらしき様子が認められる。昭和十二年六月には、当地での式典に出席するために、新潟県知事が十日町から軽便客車に乗車して、鐙島駅(仮称)に降り立っている。当時、信濃川にかかる橋は木橋が多く、その年の洪水のためにことごとく流されてしまい、鉄道のために頑丈に作られた専用線の鉄橋しか付近で信濃川を渡るすべがなかったことによる措置らしい。そのため、県知事は軽便線に揺られて現地入りした。

また、水路隧道工事区としたのは、いずれも材料運搬線の分岐が見られ、その終点と思われる場所の真下を水路隧道が通っている。水路隧道は第一隧道・第二隧道・第三隧道で分けて宮中~浅河原まで工事されたとのことで、途中に少なくとも二ヶ所か三ヶ所は横坑なり竪坑があったとするのも妥当だと思われる。そして、水路隧道もコンクリートで巻立てないとならないので、セメント必要量も膨大となる工事である。であるから、セメントなどの資材輸送手段として軽便が工事区まで直接乗り入れているのが好ましいと考えられる。ちなみに、水路隧道と言っているが、大きさ的にもおおよそ鉄道用複線トンネルと同じ程度となる。丁度、昭和6年に開通した清水トンネルの掘削に携わった技術者や職人たちが当地へ流れてきており、続けて当地で腕を振るったと言う。

この内、いくつかの箇所について、現地調査を行った結果を紹介したい。
あくまで、そうと紹介されている写真の紹介とか、それ以外は妄想とか推測の類である。そもそも全編に渡って、ここに書かれていることを押し付けるつもりも無いし、趣味人の歴史ファンタジーくらいに読んで欲しい。参考文書までを逐次紹介する面倒を取らない怠惰を許して欲しい。
上記の通り、昭和11年時点で千手~宮中(大臣が軽便に乗ったのは千手迄ではなく小泉・浅河原までだけど)の軽便鉄道があったという話の一端を示すものがある。また、十日町新聞などで信發初代堀越所長が語るように、大正期に整備した軽便線や建物を再整備していることも分かっている。

写真の一枚でもあれば再整備の信ぴょう性が増すものだがと思っていた矢先、それを示すと言えるような一枚の写真があった。千手~浅河原に至るまでの間に、信濃川にそそぐまで険しい渓谷を形成する鉢沢川という沢がある。現在の地図を見ても、道路は橋で越えている。



当時の航空写真を見ても、軽便と思われる線は鉢沢川を越えている。並行しているはずの道は川を迂回しつつ河床まで降りて昇ってのアップダウンの様子が見て取れるが、確かに軽便はこの川をまっすぐ進んでいる。



Googleのストリートビューで、この橋を宮中方から千手方へ見ても、この様子。割と高く長い橋が架かってる。



そんな鉢沢川であるから、軽便がこの沢を直線的にどう横切っていたのかというわけで。



信濃川発電所工事材料運搬線はこんなにも立派な鉄橋を川西地域に架橋していたのが判明した。しかも、ここまで立派なトラス鉄橋。工事材料運搬軽便線にも関わらず、本線にも匹敵しそうな設備だ。昭和7年7月で架橋工事しているというのは、この地に水路隧道を掘削する工事に合わせてなのかと推測される。水路隧道工事の斜坑なり竪坑のある工事区への材料運搬として活用できる軽便鉄道の整備を進めたのだろう。

堀越所長のインタービューを再度引用すれば

本工事は第一に第三隧道の下部を八月から直轄工事でかかった。
現在の掘進状態は導坑が約一千尺すすみコンクリートの巻き立ても始めている
次に貝野村宮中を起点とする第一隧道の上部は請負で昨年の暮れに着手しすでに横から入る穴は完成して本導坑に入りかけている
また、堰堤、第一隧道下部、第二隧道は最近請負に附し夫々工事にかかることになっている


隧道工事の進捗に合わせて軽便の整備も昼夜兼行の突貫工事だったというから、隧道工事にそって軽便も整備が進んだものと思われる。とにかく、こんな一枚の写真ですら、川西の千手-宮中の資材運搬軽便鉄道が存在した事実を明確にしてくれた気がする。

なお、私はこの写真を見つけて、現地のストリートビューを見ながら、居ても立っても居られなくなって次の休日に当地に現地調査に向かった。
しかし、草木の繁茂する季節もであり、橋台跡や橋脚跡の類は一切見つけられなかった。とはいえ、わざわざ出掛けて来て何も見つけられないんじゃつまらないもんで、軌道跡らしい場所が残っている場所をピンポイントで当たっていくくらいのことはする。軽便跡のほとんどが県道化されていたり、農地改良で地形ごと粉砕されている現状で、それらしいものを見付けるなんて期待なんでできないことは分かっていた。それでも、怪しい地形は残っている。

北鐙坂~浅河原の段丘部分をピックアップする。





そして昭和50年時点で、鐙坂の辺りの軌道跡の農道としての残りっぷりが半端ない。一期・二期工事が完成後にこの軌道が使われていたと考えられないながら、意外とすぐに農地に戻すわけでもなかったものなのか。昭和50年と昭和23年を比較してもこの変化には驚いた。あと30年早く生まれてきていたら、もっと軽便線跡を追えたのにと思ったが、そんなことはタイムマシンでもないと無理だ。







地形で言えば、魚沼吉田郵便局や北鐙坂は河岸段丘の上であり、浅河原は段丘の下へ続く窪地である。北鐙坂から浅河原へは高低差の険しい地形でありながら、どうやら軽便はここを通っていたことが明らかだ。昭和50年の写真にも、現在の写真にもそれらしいS字が残っているのがお分かりだろうか。

私は現地に向かった。



次の二枚は、それぞれ矢印の方向である。一枚目は下向き(南方)矢印の方向、二枚目は上向き(北方)矢印の方向で撮った写真だ。





現地はまさに湿地帯!
南方は菖蒲も生えてきそうなカーブを描いた湿地帯で、北方も左へカーブしつつ深く掘られた沼である。水は低い場所に貯まるのは自明である。どう考えても、北鐙坂から浅河原へ段丘を降りていくためのアプローチの掘割の跡だ。後年、埋め立てられて水が堰き止められ湿地化したと推測される。綺麗にカーブして、南北の湿地帯を合わせればS字を描いている。



調整池側から3Dで見ると、よく分かる。
ここから段丘に沿って高度を下げるため、S字部分を掘割にして掘り下げることで少しでも線路の勾配が緩くなるようにしたのだろうと推測している。

まだまだ丹念に調べる根気があれば遺構は見つけられそうだが、ひとまず分かりやすく残っている軽便の痕跡を紹介した。
以上、鉄道省信濃川発電所工事の一期・二期工事で活躍したとされる宮中-千手の材料運搬軽便鉄道の位置について、航空写真からの推測に過ぎないながらも、その存在があったという痕跡くらいは示せただろう。一期・二期工事について、また何か資料を見付けたら逐次記事を示す。続いて、国鉄からも工事史として示されている三期・四期工事の材料運搬軽便鉄道についてもまとめていく・・・はずだ。