◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

飯山鐵道と信濃川発電所 工事運輸交通略図

2024-01-28 15:37:49 | 飯山鉄道関連

『電気工学』30(8),技能図書出版社,1941-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1548143

国立国会図書館の資料を検索していて、上記の資料に巡り合った。東電信濃川水力発電所工事に関する資材輸送の略図だ。
これこそ、私が見たかった図である。私の意見を述べさせてもらうと、私は飯山鐡道による東電信濃川水力発電所工事の資材輸送の関係を解き明かしたくこれまで調べて来たのだし、それを示す資料がこうして見られて最高に興奮している。東電信濃川水力発電所工事で飯山鐡道という鉄路が資材輸送を担っていた事実を図示したものだ。飯山鐡道は東電信濃川水力發電所建設のために敷設された線路である。私は飯山線にそんな歴史的背景があるとは知らず、その出自に興奮した。その興奮と興味から始まった私の”夏休みの宿題”のような個人研究において、これまで私が東電信濃川発電所建設工事における飯山鐡道の材料運搬線としての役割を推測してきた諸々の事柄を総括する程の資料だ。私はこの図を見るために今まで研究を続けて来たと言っても言い過ぎな話ではない。それほどまでに私は興奮している。

最近の私が書いた西大滝及び越後鹿渡の専用線について推測と状況証拠を積み重ねて書いた記事は以下の通りだ。いずれも、大きく的を外していないと自負している。しかし、今回、上記の図という裏付けを得られたのは大きい。

東京電燈信濃川発電所工事材料運搬線 西大滝編
飯山鉄道と東電信濃川発電所 続・鹿渡

【西大滝】


飯山鐵道西大滝驛から沈砂池まで延びている専用線が描かれている。西大滝専用線は桑名川方に半円を描くようにして河岸段丘の高度を克服しつつ取水口・沈砂池付近まで敷かれていたと読み取れる。これは今までいくら推測しても、私は実際に専用線があったのか自信が無かった。特に戦後の空中写真にもそれらしき跡は見えにくく、現地調査でも判別できず、当時の現場の写真を見てもそれらしき線形が判別できなかったからである。こうして当時の資料にはっきりと記載されており、存在したという裏付けが取れたのは大きい。

 
西大滝専用線は現場俯瞰写真の右上の建物の奥からカーブを描いて右中央付近の資材置き場に至っている線路だ。エンドレスケーブルや砂利採取場の索道が川側に見られ、専用線は山側(飯山鐡道に近い方)である。略図に描かれている各設備の位置からしてそうだと判断する。

【越後鹿渡】


越後鹿渡駅専用線は上線と下線があった。上線は水圧鉄管工事向け、下線は發電所本体工事向けの専用線だ。下線が飯山鐡道の下をくぐっていた様子も略図には描かれており、その暗渠は今でも農道として現存している。發電所最寄り駅としての越後鹿渡駅の構内専用線の範囲の広さが窺い知れる。私は越後鹿渡在住で信濃川水力発電所工事中から運転開始後まで従事した方から鹿渡の上線・下線の証言を得ている。その方の証言から、上線には貨車で直接(分割された)水圧鉄管が運び込まれたり、下線は貨車数両を繋げてスイッチバックで下りていたとの裏付けを得ている。略図には下線のスイッチバックこそ描かれていないが、そこは略図であるから省略したものと捉えている。

 
戦後の空中写真ですら東電の社宅が立ち並び、上線の痕跡は薄い。工事の最盛期は戦前から戦中であるから、それも納得できる。一方、こうして各種資料を紐解くことでかつて越後鹿渡に存在した専用線、工事の痕跡を示すことができる。


東京電燈信濃川発電所工事材料運搬線 西大滝編

2020-09-29 11:14:04 | 飯山鉄道関連

かねてより、飯山鐡道(飯山線)の成り立ちは、東京電燈の信濃川発電所工事材料運搬線としての性格が強いと書いてきた。鐵道省が小千谷から宮中に至るまでの工事専用の軽便線を敷くように、電力会社も主たる材料運搬ルートとして材料運搬線を敷いたのである。
電力会社側の材料運搬線は、会社は発足したものの碌に工事を行えるような資金がなく開店休業状態だった飯山鐡道への出資による飯山鐡道延伸を強力に推進するという方法でなされた。飯山鐵道と電力会社との関係や、飯山鐡道が十日町まで延伸開業するまでの詳細は過去に書いた記事を見てもらうとして、その中でも西大滝ダムのある西大滝駅、信濃川発電所のある越後鹿渡駅は特に輸送上重要な役割を果たした駅である。とされている。

数々の資料や現地での調査から、越後鹿渡駅については本線から分岐した構内専用線のようなものがあったことが判明している。一方で、西大滝駅の当時の状況はまったく不明。手がかりすらない。単に、飯山鐡道で西大滝まで材料を輸送したとあるだけだった。西大滝駅から分岐して、専用線のようなものがあるという期待から調査を開始したが、一切の手掛かりは見付けられなかった。専用線の手掛かりが見つからないのではなく、そもそも専用線そのものが無かったということで一旦は私は調査を〆たのだ。

その時の記事はリンクで飛んでいただく。 西大滝と鹿渡

調査を〆たと言ったが、鐵道省の信濃川発電所工事材料運搬線について調べている過程で、並行して東京電燈信濃川発電所についても引き続き調査を行っているのは言うまでもない。そんな過程で、とうとう、当時の西大滝周辺を写した写真を見付けたので紹介しよう。写真が掲載されていたのは、土木建築工事画報という雑誌の第15巻9号(昭和14年9月)の84ページである。


昭和12年5月7日

写真は千曲川の上流方向を見ており、見切れてはいるが、右に西大滝の集落がある。



丁度、東京電力さくら広場の駐車場の向こうの広場の辺りを写したものだろう。左の複線の線路は川から採取した砂利をエンドレスケーブルトロッコによって自動運搬する設備だ。なお、砂利の採取は桑名川でも行っていたようで、桑名川で採取した砂利は索道で西大滝まで運んできていたようだ。問題は、左でカーブしている線である。どう見てもレールが敷かれているように見える。というか、わざわざ集落を迂回するような、いかにもと言う線だ。



まさに、以前予測していたような線路を以って駅から現場近くまでを結んでいたのではないかというわけだ。カーブを描き集落の外側を巻きながら西大滝駅の材料置場まで向かっていたものと思われる。おそらくだが、西大滝駅には飯山鐡道で運んできた材料を一時保管する倉庫があり、そこで積み替えて、必要な資材をトロッコなりで現場まで運搬していたのだろう。駅から現場までは勾配もあるから、なんらかの動力を使用したものと思われるが、ちょっとしたスイッチャー的なものだったかもしれない。駅から現場へは下り勾配なので、ひょっとすると手押しかもしれない。

とにかく、そういうレベルの軌道だったと推測している。
右で見切れているが、大量の木材を積んであるあたりが現場最寄りの材料置場だろう。
西大滝の材料運搬はどうだったのか、たった一枚の写真により、大きく実際に近づいた感触である。

西大滝と鹿渡

2019-09-28 20:53:35 | 飯山鉄道関連

鉄道省の信濃川発電所工事について調べ始めている

多くの先人たちが調べてきただろうテーマなだけに、自分は自分でマイペースに調べていくのみである

しかし、調べ始めた瞬間に無下にも国鉄の信濃川発電所工事史で「戦争で一期・二期工事の詳細の記録は纏めることが出来なかった」と示されてしまう

昭和6年  一期工事着工
昭和7年  宮中ダム着工
昭和10年  千手発電所着工
昭和13年  宮中ダム竣功
昭和14年  千手発電所発電開始 一期工事竣功
昭和15年  二期工事着工(千手発電所増強のため)
昭和20年  二期工事竣功

だいたい、鉄道省側の工事はこんな感じの年表になる(国鉄工事史・郷土史などによると)

これに地元郷土史にある東電の工事の年表も組み合わせると

昭和6年  鉄道省一期工事着工
昭和7年  宮中ダム着工
昭和10年  千手発電所着工
昭和11年  西大滝ダム着工
昭和13年  宮中ダム竣功 東電信濃川発電所着工
昭和14年  千手発電所発電開始 鉄道省一期工事竣功   東電 西大滝ダム・信濃川発電所一期工事竣功
昭和15年  鉄道省二期工事着工(千手発電所増強のため) 東電 西大滝ダム・信濃川発電所二期工事竣功
昭和16年  東電 信濃川発電所関連工事竣功 太平洋戦争
昭和20年  鉄道省二期工事竣功

同年代の同様の豪雪地帯での工事であるから共通点から模索するのも面白いと思った次第で、
鉄道省側も調べてみるかとなった

同時期の工事で、同じような地域(それも日本有数の豪雪地帯)の工事であるから共通点もあろうと期待してのことだ

その矢先に信濃川発電所工事史で「戦争で一期・二期工事の詳細の記録は纏めることが出来なかった」とされてはあんまりである

事実、工事史等として残されているであろう資料として参照してきた限りでは、鉄道省の一期工事・二期工事の詳細な記録は断片的である
(東電側の工事記録はもっと断片的だったのだけど・・・)

一期・二期工事こそが宮中ダムから千手発電所までの工事であるから、
それこそ飯山鐡道の越後田沢駅からの構外専用側線についても資料として示されるかと期待しただけに残念である

戦後に本格化した三期工事以降の小千谷発電所関連工事になると工事軌道の位置や機関車数から輸送量や輸送コストまで詳しく工事記録が残っているだけに悔しさが増す

それでも、この三期工事以降の資料からでも、当時を伺える記録が残っている

そんな国鉄信濃川発電所工事史の中で、現段階で着目した点として数点を挙げる

前々から紹介されている点もあるが、それを当たり前としないで、国鉄の工事史は工事史として読んで行く

・本線と繋がっていて免許を受けている工事側線から、現場へ向かう工事軌道(いわゆる軽便鉄道と言われているナローゲージ)への荷物の積み替えをしての接続はままある
・本線と繋がっていて免許を受けている工事側線が現場まで敷かれるパターンは発電所に乗り入れる場合で、それは発電機・変圧器の輸送は鉄道に依っていたため
・とにかく豪雪地帯なので、約半年は雪に閉ざされる。鉄道は輸送手段として使用できなくなる時季が数か月に渡ることもある。代替輸送は索道や橇なんかも使った
・積雪期に鉄道輸送が期待できない場合でも工事を進捗させるために、約半年分のセメントを乾いた状態で貯蔵するための倉庫が数百坪・数棟単位で必要で、それを各現場に設置

これらを踏まえた上で、再度、西大滝ダム建設について、西大滝駅の役割を推測する



去年から、西大滝については免許を受けなくてはならないようなものではなく、いわゆる工事軌道であったと推測をしている

上記の点からも、おそらく西大滝の駅から本線と繋がった線路があったわけではなく、
あくまで本線で輸送されて来た資材はここで積み替えられて、工事軌道で現場へと輸送されていたというのも十分にありえる



予想としては上の図として以前に示した通りだ

そして、西大滝駅に直結している、巨大な倉庫が二棟ある

これを資材倉庫、特にセメント貯蔵のための倉庫だとすると、国鉄の信濃川発電所工事史の記述とも繋がる部分が十分にあると思われる

当然、川原の方にも工事中は大きな建物が見られたのだが、貯蔵の必要性・積み替えを考えると駅に残った倉庫はそれらしく見えて来る

真相は不明だが、そういう資料に当たれていない

航空写真だけで断定することはできないが、確からしくもあるということで、改めて紹介させていただいた次第だ



一方、鹿渡については発電所を建設していた場所であるから、発電所まで乗り入れるためにも本線と繋がった側線であったと推測できる

ここも本線と繋がって免許を受けている工事側線である

これを踏まえると鹿渡駅から発電所までの高低差を生み出している河岸段丘を克服するためにどうしていたのかという話になる

これについては、現地の路盤跡のような地形、および当時から鹿渡集落に住んでいた方からスイッチバックしていたという発言を得ているので確からしい

スイッチバックしてでも本線と発電所を繋げたいという例は信濃川水力発電の工事軌道でも他に知らないが、
鉄道省の千手(戦前一期・二期工事)・小千谷(戦後三期・四期工事)もそのために対岸から信濃川を渡る鉄橋を建設して本線と発電所を繋げているから、
その必要性を示すには十分だと考えている




意外と近い両者の関係

2019-09-02 16:23:17 | 飯山鉄道関連

東電の信濃川発電所と、JR東日本の宮中取水ダムが近い

飯山線で言えば、一駅間。鹿渡から田沢くらい



左端が宮中ダム、右端が東電の信濃川発電所

上流の発電所が排出した水を即座に取水する

どちらも飯山鐡道の上記の2駅から分岐した側線で資材を運んだ施設と思うと、ワクワクする





飯山鐡道は信濃川発電所まで来たら、川東へと川を渡って行く

十日町を目指すためだろう

飯山鐡道時代のレールが現存?

2019-08-30 15:30:29 | 飯山鉄道関連

先日、飯山鐡道と信濃川の発電所について調べるために、十日町まで行って来たのだった

今やそうそう気軽に行ける距離でも値段でもない

この日は朝から雨模様であったが、そもそもまだ現物を見てなかったJRの方の信濃川発電所を見に行こうとか、
十日町情報館で資料を調べようという体だったので天気はどうでも良い

後で見ればいいやとか、その時は興味なくてスルーしていたり流し読みしていた資料とか、
調べていくうちにあれもちゃんと読まなきゃってなるんで、こうして未だに魚沼へ行くことになる



さて、今日は全く別な話で、帰りがけに確認したあるモノについて

津南大割野の集落辺りを車で走ってる時に、ある人に言われてたことを思い出した

「桑名川の側線のレールって飯山鐡道時代からのものなんだよ。刻印が残ってる内に、
紙に鉛筆擦り付けて魚拓取りに行こうと思ってるんだけど、なかなか足が向かなくてさ。」

という、そんなまさかぁというくらいで、これも「後で見ればいいや」くらいのまま放置していた話なのである

その会話をしてから、10回以上は桑名川の駅前を通っているにも関わらずだ

折角近くに来たんだしと、桑名川の駅に立ち寄ることに決めた

そういえば、森宮野原も側線が残ってるし古レールあるかもと思って立ち寄るも、
構内踏切から見える範囲にレールの刻印すら見つけることが出来なかった

貨物ホームの方は草ぼうぼうで萎えてしまい、大して確認せずに森宮野原を出発

そして、桑名川へ

側線のレールの刻印を探す




あった!マジか!1921年って書いてある!スゲー!と雨の桑名川駅で1人で喜んだのは言うまでもない











当時、まだまだレールも輸入品だ

そして、1921年

飯山鐡道の豊野・飯山駅間の開業は1921年、飯山から延伸して桑名川・西大滝までの順次延伸開業が1923年

年代もドンピシャなのである

写真じゃわかりにくいが、刻印を文字に起こすと

OH TENNESSEE-6040-ASCE-11-1921

ちょっと古レールについて詳しくないので何を意味しているのかまったく分からない

古レールについてよく纏まっているサイト様を参照に簡単に解説すると

OH
は平炉
TENNESSEはUS スチール会社テネシー製鉄所
6040は重さと断面形状
ASCEはアメリカ土木学会の規格
11-1921は1921年11月製造

ということらしい。

鉄道省、つまり国鉄が発注輸入したレールには末尾に「工」の刻印が入るらしいが、
それらしきものは見当たらなかったので、私鉄時代のものである可能性が極めて高い

私にはそれを判断することはできないけど、おそらく飯山鐡道時代からのレールだろう

古レールと言えば駅の屋根の支柱とか梁みたいに塗装もされて雨風も当たらない環境ならまだしも、
地面に設置されているレールにしては綺麗に刻印が残ってくれていて良かった

これらのレールの製造から、そしてこの区間の開業から間もなく100年になろうとする

まさか、飯山鐡道の先人たちも100年後にレールの刻印で喜んでる人がいるとは思わなかったろう





ひょっとしたら、開業当時の写真に写っているレールが現存しているのかもしれないと思うだけで、また飯山線に行きたくなる