深夜からの雨も2.5㎜と大したことはなく、午前9時前には止み日も差し込み
始めた奈良、気温は午前3時前の10.0℃から午後3時過ぎには22.3℃にも。
昨日同様に花見日和となった奈良です。 

11時半、18.8℃、61%
花前線の標高は342mの若草山頂まで到達し、麓の奈良公園は満開が続く。
東大寺、興福寺と春日大社周辺は、観光客で溢れかえっているはず。

若草山二重目 一重目頂上

さてNHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花は「イカリソウ・碇草、錨草」
メギ科の落葉多年草、低い山地の雑木林に生え、茎の先が3本の葉柄に分かれ
3枚の小葉がつくことで「三枝九葉草・さんしくようそう」とも呼ばれ、葉は
カサカサとした紙質で裏面に毛がある。
春に咲く淡紅紫色の尖った4枚の花びらは反り返ることで、船の錨に似た
花からこの和名の由来となる。
またイカリインという成分を有し、精力増強や利尿作用などの効能を持ち
生薬名は「淫羊霍・いんようかく」 と呼ばれている。
花言葉は⚓のような花の姿から「あなたを離さない」

昨日は京西公民館の講座「唐招提寺ゆかりの隠れた名所をめぐる」に。
講師は奈良まほろばソムリエの会Nara観光コンシェルジュ「友松洋之子よしこ」
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山でご本尊は盧舎那仏。
開基(創立者)は唐出身の僧「鑑真大和上」、多くの苦難の末、来日された。
東大寺で5年を過ごし、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜され
759年に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として「唐律招提」と名付けら
れた私寺として始まる。
当初は移築された講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがある
だけ、そして晩年を過ごされた。
奈良時代末の伽藍は南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、
講堂、八角堂3基、食堂、羂索堂、僧房、小子房、温湯室、倉などです。
また鎮守社として境内の東に水鏡天神社も建立されている。
なお主要伽藍で最も遅れて810年に建立されたのは五重塔「東塔」です。
*後日記す予定
だが平安中期以降の末法思想の隆盛で衰亡する。しかし鎌倉時代には釈迦信仰
・舎利信仰や戒律復興の気運の高まりで、覚盛らにより中興された。
再度南北朝時代に戦乱等により衰退し荒れるも、江戸時代に5代将軍綱吉と
桂昌院が庇護し修理がなされ、1698年に戒壇院も再興されている。

江戸時代中期頃の伽藍「古図にみる日本の建築」
だが地震や火災、特に1802年の火災では東塔などの重要建築を多く喪失した。
現在奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える貴重な伽藍となることで
1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録された

南大門を一歩入ると静寂が訪れ、国宝で奈良時代の唯一の「金堂」が目の前に
その前に江戸時代の伽藍配置図を見てください。
金堂の周りに、中門と回廊が描かれているが、現在はない。
鑑真和上が亡くなられた763年以降に、鑑真和上の弟子の一人「如宝」の
尽力により完成したと伝わる。

正面7間、奥行き4間、一重、寄棟造、本瓦葺、南面一間吹放ち。
鎌倉、江戸、明治に修理され、地垂木の年輪年代測定で781年伐採である
ことが判明し、奈良時代後期で鑑真和上が亡くなった後になる。
創建当時、真ん中の五間は戸などがなかったようで、鎌倉時代に「大仏様」
の修理として、四隅の貫柱や屋根の勾配を強くされた。
このことで黄金比に近づき、なんとも言えないきれいさを演出していると。

8本の太い円柱が支え、中央間は約4.7m、両端へ次第に狭く4.0m、そして
3.3mとより狭くなることで、遠近感をも演出しているようだ。
注)東大寺などは9間堂、7間堂を大寺に近づける設計なのでしょう。

唐招提寺金堂実測平面図(1/100) :東京都立図書館より
もう一つ「隅鬼」をご存じですか。

金堂の四隅には“隅鬼”という鬼がいて屋根の下で隅木を支えている。
なお西南の角を支える一体は、笑っているような表情をしているようです。
写真は東南のもの。

隅鬼たちは金堂の四隅で正座して肩で隅木を支え、手を膝に置いている。
これは厄除け(疫病や魔物からお堂を守る)として置かれているようです。
そのモチーフが、金堂東南に石で造られている。

そして蓮の花の水盤、

この水は何処からきて何処へ流れていくのでしょうか。
