■サイト更新 27Knots(特設部屋)
非創作:「広瀬武夫ハンモックナンバーの謎」
広瀬データ:交流関係/15期生 考察&名簿
広瀬データ:註 己丑会
非創作:「意向処筆随処」 3-4(広瀬関連)
Fever!/ある記者の話/明治27年のころ
自転車泥棒/シベリアを横断する
どーんと広瀬武夫関連項目ばっかり更新です~
とはいえ半分程はこのブログからの再録になります。
今回は新規でFRwL(広瀬データ部屋)内に「交流関係」と「註」コーナーを開きました。
えー…いや。
実はまだ開けるつもりはなかったんですよ。特に交流関係の方…
いくつか項目ある中の枝も枝、「15期生」だけ開いているというカッコ悪さ(笑)
人名索引も参考文献の部屋も開いてナイっちゅーに。
この部屋、去年末「ハンモックナンバーの謎」を書いていた時に作っていたページなんです。(どんだけ前やねん)
なのでセットで出した方がいいかな~と思いまして。
そしたらリンク繋げてる『註』も出した方がいいじゃん、と芋づる式に。
註の方では今回UPしているのは「己丑会」のみですが、これからは関連項目が出てくる都度で更新をかけていきたいと思います。
しかしながらサイト内のページ間リンクが増えていくのがとても嬉しいです
改めて広瀬武夫の生涯を見ていると、知っているようで知らないこととか、間違って覚えていること、(広瀬武夫全集の間違いとか。笑)、「え・そんなことが」のような発見が結構あります。
他の資料と比較してみても記述が食い違っている点もあったりして、こここ困ったなと思うようなことも(笑)
色んなことがありますねえ(^^ゞ
ご覧頂ければ幸いです。
※
あ、あと間違いを発見したので訂正しました。
『広瀬武夫関連史跡>東京>講道館柔道資料館』
× 嘉納治五郎の娘婿・南郷茂光
○ 嘉納治五郎の姉婿・南郷茂光
娘婿ではなくて姉婿です。すいません。
南郷茂光は海軍主計官をされてた方ですが、その息子が南郷次郎になります。
広瀬の手紙の中でもたまに名前出てきますねえ。
広瀬武夫全集には講道館四天王のひとり、富田常次郎宛ての書簡がちらほら見えます。
それを見ていると、明治36年ごろ、講道館の拡張に対する海軍部内の講道館関係者の意見をまとめてと、広瀬がどうも頼まれていたらしい。
この頃には部内でも柔道をしている人が随分増えていたようです。
中でも有段者で熱心な人物として広瀬が名前を挙げているのが
湯浅竹次郎、花房太郎、南郷次郎、八代六郎、広瀬武夫
…自分も入ってんのか、広瀬…(と私は思った。笑)
湯浅竹次郎は第3回旅順港閉塞作戦で亡くなった人。
湯浅のお母さんが嘉納が主宰する嘉納塾で働いていたようで、その縁で柔道を始めたようです。
南郷次郎は嘉納治五郎の甥っ子。昭和には2代目の講道館館長になっている。
花房太郎は…名前は耳にしますが何した人か知りません(笑)
上村将軍言行録で名前を見た覚えがあるなあ。また調べときます。
八代さんは言わずもがな。
財部彪はあんまり熱心じゃなかったのかな~(笑)
今、交流関係と註で「嘉納治五郎」と「講道館」の項目を書いているのですが、改めて見るとすごいですねえ、嘉納治五郎。
我が半地元の名家の出というのは知っていたんですが、まさかおうちが菊政宗と白鶴(の前身)だったとは…名家っつーか、超名家じゃん…
嘉納の父親は幕末に幕府の御用を勤めており、勝海舟を手伝って我が地元の西宮砲台の普請を請け負ったりしてたそうです。やーん。びっくり。
長姉が上記南郷茂光に、次姉が海軍の初代水路部長・柳猶悦に嫁している。
次姉の長女が谷口尚真と結婚、さらに次男が柳宋悦。
うわー…そうだったんだ~
ちなみにこの南郷茂光が最近頻出の広瀬の先師・山県小太郎(海軍に勤めていた)と知り合いで、その関係で話でも聞いていたのか、広瀬は講道館に通うことになったようです。
最近私の中では「山県小太郎ブーム」でも起きているのか(笑)
超マイナーだな(笑)
なんというか、最近この人を見ていて広瀬が「海軍に入った」とか「講道館に通った」とか、そういった彼の生涯の”基礎”になる所が偶然ではなくて環境からくる必然だったのかな~と思うようになりました。
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実はまだ開けるつもりはなかったんですよ。特に交流関係の方…
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改めて広瀬武夫の生涯を見ていると、知っているようで知らないこととか、間違って覚えていること、(広瀬武夫全集の間違いとか。笑)、「え・そんなことが」のような発見が結構あります。
他の資料と比較してみても記述が食い違っている点もあったりして、こここ困ったなと思うようなことも(笑)
色んなことがありますねえ(^^ゞ
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× 嘉納治五郎の娘婿・南郷茂光
○ 嘉納治五郎の姉婿・南郷茂光
娘婿ではなくて姉婿です。すいません。
南郷茂光は海軍主計官をされてた方ですが、その息子が南郷次郎になります。
広瀬の手紙の中でもたまに名前出てきますねえ。
広瀬武夫全集には講道館四天王のひとり、富田常次郎宛ての書簡がちらほら見えます。
それを見ていると、明治36年ごろ、講道館の拡張に対する海軍部内の講道館関係者の意見をまとめてと、広瀬がどうも頼まれていたらしい。
この頃には部内でも柔道をしている人が随分増えていたようです。
中でも有段者で熱心な人物として広瀬が名前を挙げているのが
湯浅竹次郎、花房太郎、南郷次郎、八代六郎、広瀬武夫
…自分も入ってんのか、広瀬…(と私は思った。笑)
湯浅竹次郎は第3回旅順港閉塞作戦で亡くなった人。
湯浅のお母さんが嘉納が主宰する嘉納塾で働いていたようで、その縁で柔道を始めたようです。
南郷次郎は嘉納治五郎の甥っ子。昭和には2代目の講道館館長になっている。
花房太郎は…名前は耳にしますが何した人か知りません(笑)
上村将軍言行録で名前を見た覚えがあるなあ。また調べときます。
八代さんは言わずもがな。
財部彪はあんまり熱心じゃなかったのかな~(笑)
今、交流関係と註で「嘉納治五郎」と「講道館」の項目を書いているのですが、改めて見るとすごいですねえ、嘉納治五郎。
我が半地元の名家の出というのは知っていたんですが、まさかおうちが菊政宗と白鶴(の前身)だったとは…名家っつーか、超名家じゃん…
嘉納の父親は幕末に幕府の御用を勤めており、勝海舟を手伝って我が地元の西宮砲台の普請を請け負ったりしてたそうです。やーん。びっくり。
長姉が上記南郷茂光に、次姉が海軍の初代水路部長・柳猶悦に嫁している。
次姉の長女が谷口尚真と結婚、さらに次男が柳宋悦。
うわー…そうだったんだ~
ちなみにこの南郷茂光が最近頻出の広瀬の先師・山県小太郎(海軍に勤めていた)と知り合いで、その関係で話でも聞いていたのか、広瀬は講道館に通うことになったようです。
最近私の中では「山県小太郎ブーム」でも起きているのか(笑)
超マイナーだな(笑)
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