図書館行ってきました。
調べたい事が2つあり、ひとつは昨日書いた肝付兼行。
もうひとつは海軍主計将校の鈴木要三郎について。
まー分かった事はひとつ。
地元では無理。笑。
まあ、分かってたけどね!ええ、分かってましたとも!(笑)
ただ水路部ですか、変遷を見ていたら海軍水路部という名称はある時期から間違いになっていた…
職掌が水路の測量、観測、海図等作成という、必要に駆られる分野だけに創設が古い。
兵部省が設置されたのが明治2年7月。
水路部も今日調べた段階では同月に立ちあげられているので、恐らく兵部省設置と同時だったのではないだろうか。
ちなみにどーでもいいトリビアですが、兵部省の前身は軍務官、その前は軍防事務局、その前は海陸軍務科になります。
明治の初めは陸海軍ではなくて海陸軍でした。
兵部省が陸海軍に分かれたのが明治5年2月28日。
昨日は2月27日と書いていたのですが、兵部省が廃止されたのが27日。
陸海軍省が設置されたのが28日になります。
先程訂正しておきました。
海陸軍務科 → 軍防事務局 → 軍務官 → 兵部省 → 陸軍省/海軍省
兵部省に落ち着くまでは制度改正によりころころと、ものすごいピッチで組織名が変わってる。笑。
陸海軍務科は明治元年1月17日、軍防事務局は2月3日、軍務官は閏4月21日。
水路部門は兵部省内で陸海軍が別れた時に(兵部省海軍部、陸軍部)、水路局として海軍部の方に付いて行ってる。
陸上の方は後の陸地測量部になったのかな?
ちょっとその辺り分からないけど、多分そうだろう。
それから水路寮、水路局と名称を変え、海軍水路部になったのが明治19(1886)年。
軍政軍令の職掌から考えると海軍省隷下なのかと思っていたのですが、この19年には独立した組織として海相に直隷する組織になっていたようです。
で、明治22(1888)年に組織名から『海軍』が除かれ、「水路部」になった。
この水路部が我が国唯一の水路図誌制作者であり、ここが作る海図を一般の船舶関係者も利用していたとのこと。
太平洋戦争後もそのまま業務が引き継がれ、現在の海上保安庁水路部になっているそうです。
陸地測量部が国土地理院になったとの同じパターンか。
「海軍水路部」が存在したのは明治19~22年という、実に3年間のみ。
そうなんだ。
私普通に海軍水路部って言ってた。
肝付兼行に関しては我が図書館では無理です。
県立図書館で「日本水路史」を予約したのでその到着を待つ。よし。
もうひとりは鈴木要三郎。
こちらは広瀬武夫関係で、ロシア語に堪能だった海軍さん。
この方、東京外国語学校でロシア語を学んでいました。
で、くたばってしめえ、二葉亭四迷とクラスメート。
ついでに言えば広瀬と交流があった川上俊彦ともクラスメートにして親友でした。
広瀬がロシア留学する前、ロシア語が難しくて困ってる、教えてと手紙で泣きついていたのがこの鈴木要三郎でした。
鈴木への手紙はその1通が広瀬武夫全集に納められているだけで、後の結果が分からない。
というか、そもそもこの鈴木がよく分からない…
気が向いた時にちょこちょこ調べてはいたんですが、初め分かったのは二葉亭四迷のクラスメートということだけだったんですよ。
そこから少し話が広がり、川上を調べている時に偶然、本当に偶然親友でクラスメートだと知った。
でもそれって悲しい事に所詮語学繋がり、プライベート繋がりであって、肝心の海軍でのステイタスが全然分からない。
アジ歴の史料を見ていると、かなり重要な地位にまで登っている事は分かるんですが、私はもうちょっと違う諸々を知りたいのよ…
こんなことになっているのには、ひとつ原因があって、それが鈴木が海軍の正規の学校を経て海軍に入った人物ではない点。
通っていた語学学校を退学し(明治19年)、そこから海軍に入っている。
海軍経理学校に入った形跡もないし、どうもそのまま採用されているような。
随分イレギュラーなんですよね。
というわけで、どこから追いかけていいのかが分からない。山を登るのに何処から手をかけたらいいのか分からない。orz
うーん。あまりこういうのはないんですが、これは本当にちょっと困った。
ただ分かるのは、この人を調べるのは地元では(ry
…と、そんな感じだったのですが、ちょっと詳しいお話を窺う機会に恵まれまして、少し…というか、かなり前に進みそう。
で、ですね。
それに関して今調べている事があるんです。ご存じの方がおられたら教えて下さい。
明治45年に、シーメンス事件に繋がるような海軍絡みの疑獄事件が起こったかどうか、どなたかご存じないですか。
アジ歴で見ても分からんなあ…
今日はこれをずーっと調べていたんですが、疑獄という点に絞ると1件だけあった。
同年2月に呉工廠で何かあったらしく、技師が数名休職になっているんですが、これはちょっと違う。木端過ぎる。
しゃーないシーメンス関係で当たるかと思い、小原直の回顧録やら明治疑獄事件系で諸々探しても見たんですがアウト。
シーメンス事件の詳細が載っている本は他館の力を得ないとちょっと分からない感じなので、暫く時間掛りそうだなあと。
あーこんなことなら「シーメンス事件 記録と資料」買っときゃよかった。
買っても読まんだろうと手を出さなかった事を今更後悔しようとは orz
>お読みくださり、感謝です。 さん(反転して下さい)
…スイマセン。もしかしてご、ご本人様でいらっしゃいますか…?^^ゞ間違っていたら申し訳ありません。
確認するものによってバラバラなんですね…なんてファン泣かせな。本当に困りますね;
書いておきますと、該当記事は読売新聞大正9年8月21日付です。
また明治27年4月5日付には桐野母3月28日に死去(85歳)という記事も載っていました。よろしければご確認ください。弘化元年、修正しておきます!
広瀬情報もありがとうございます。福田東洋宛ですが、未見です。
恐らく全集にも載っていない書簡だと思われます。ぜひ確認したいので、御手数でなければ書名を教えて頂けますでしょうか?
よろしくお願いいたします。
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鈴木要三郎と長谷川辰之助(二葉亭四迷)は、明治14,15年東京外国語学校一覧によると要三郎が2学年上です。たしかに川上俊彦とは同学年で、卒業は明治17年の7月です。したがって、要三郎は、長谷川辰彦とちがい、外国語学校は、退学していません。要三郎はその後、農商務省の駅逓局御用掛に勤めています。これは、彼が明治18年に徴兵猶予願いを農商務省駅逓局から出していることでわかりました。その後、明治19年に海軍少主計試補として海軍に奉職し、浦賀屯営勤務したと考えられます(海軍高等武官名簿)。海軍主計学校には、明治22年に入学し23年に卒業しています。以前にコメントに書きましたが、卒業試験順位は、7位で80.5点で一等級卒業証書を得ています。シーメンス事件については興味深いですね。
http://37kai.com/A31%20Rekisi.htm
ご指摘ありがとうございます…
これを書いた後日、読み返して間違えた事を書いていたのは承知していたのですが放置していました。
気がついたらさっさと訂正しないとだめですね。
実は鈴木のご子孫さまにコンタクト頂き、それを機会にあちこち調べている最中です。
ただ鈴木は私のメジャーな調査対象ではありませんので、すぐに主力を注いでという訳には行きませんが…
後付けのような言い訳になりますが、その際に記述の訂正を行う積りでいました。
鈴木が海軍少主計試補と入った年等は月も人数もばらばらで人間が入っているので、制度的な変化か、緊急の人的必要が出たのかと想像していました。
また、広瀬武夫がまだ学生の頃、兵学校が途中で機関学校の人間を途中で受け入れた時期があるのですが、
もしかしたらその時のような改変というか、あまり大体的には触れられない変化というか、何かがあったのかなとも思っていました。
そういう制度があったんですか…
近くに主計学校に関する詳細が載っている書籍がなかったので、後回しにしていました。
鈴木は外語学校卒業後、農商務省の駅逓局御用掛外国郵便係であったとのことで、ばりばり社会人ですもんね。
しかし外国郵便係、外国語を使う職場から、やはり何故海軍の経理畑へ…(笑)
それにしてもあまりにも専門が違い過ぎ、どうも不思議さが先に立つ進路変更ではありますね。
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%AC%A1%E9%83%8E
また、片桐酉次郎についても面白そうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E9%85%89%E6%AC%A1%E9%83%8E
さて、シーメンス事件は、氷山の一角で、海軍からの逮捕者はたった3人(藤井、松本、沢崎)で幕引き、シーメンス事件の20-100倍と言われた構造汚職の頂点にいた黒幕は、山本権兵衛というのが面白かったです。なにしろ、加藤高明の話によれば、イングランド銀行に600万円の隠し財産があったというのだから驚きです。艦政本部も経理局も相当に汚染されていたいうのだからあきれました。ロッキード事件も同じで歴史は繰り返しますね。
太田三次郎氏が、大隈重信主宰の新日本なる雑誌に寄稿した文章からの抜粋の部分です。
太田三次郎本の237ページ、(3)気に入るものは者は、用いるが気に入らない者は虐待する。
-----略ーーーー経理局の重要な地位にある人が、赤羽造兵廠を巡視して、本省に帰ってからの言草に「造兵の方は山本の家具ばかり作っているよ。」それでも誰もなんとも言わない。
この記述からすると、山本権兵衛の専横について良く思っていない幹部がいたと同時に見て見ぬふりするもの或いは積極的に追従するものがいたことがうかがえます。
後者の道を取れば、出世もしてもしかしたら、コミッション(賄賂)の分け前にもあずかれたかもしれません。この骨のある海軍経理局の人物は一体誰だったのか?ここが気になるところです。
シーメンス事件に大変興味あるというよりは、どういった関連であるか、程度ですので、
そんなにがっつりとは調べてはいませんし、今のところ予定もないです…^^;
それだけを調べ始めると流石に本筋から離れて行ってしまいますので…
「海軍の『坊ちゃん』太田三次郎」は私も出版された当時に読みました。
トカゲの尻尾切りで終わったというのは明らかですが、
シーメンス事件が実際どの程度の広がりを持つ事件であったのか、
それを判断をするのは難しいと思います。
山本に関して言えば、
海軍でも良識派として知られる人物が「山本や斎藤は個人の蓄財をする人物ではなかった」といい、
またその一方で、山本軍政や山本の人格を批判する点から、また反対党から事件の黒幕だという声が上がり…
人格を見て「関与していなかった」と判断する事もできません。
しかし批判する方に、明確な証拠や資料があるかといわれると伝聞的な話が多いのも確かで、
ここは判断に苦しむ所です。
ただ山本の事件への関与の有無に関しては、見ていると議論が「実際はどうこう」というより、
感情的な部分が多分にある気がします。
私個人としては山本が大好きなので事件とは関係なかったと信じたいとは思いますが(笑)、
こればかりは資料を漁渉して自分で判断するしかないのかという感じでいます。